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    茶々木

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    茶々木

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    添削とかできない
    犬と蛇

    夏の地下の話


     優しさとは何なのか。
     易しさとは違うのか。

     八月の某日。地下都市には茹だるような蒸し暑さがあった。禄に栄養も取っていない身体はその熱をどうにかする術を持つはずもなく。
     こっちへ来いと言う声に従い今にも溶けそうな体を引きずって歩くと、海に近いのかゴポゴポと水が湧き出ていた。
    「つめたい…」
    「冬場の壁は冷たいが夏の壁は熱い。安易に凭れるな」
     壁で涼もうとしていたのを見ていたのか冷静に注意される。その冷たさが物理的に来てくれるといいのだが。いや冬場に凍えて死にそうだからやめておこう。
    「他の奴らは?」
    「知らん」
     自分だけこの冷たさを堪能するのは申し訳ない。探しに行きたいが熱を持った体は思うように動いてくれない。
    「歩く体力もないくせに」
     見透かされているのを恥ずかしいと思う。この男の隣に立つには自分は拙すぎる。それでも気にかけてくれる男を置いて死ぬことなどできないのだ。

     大分身体が冷えてきて少し冷静になると男が水に触れていないことに気付く。
     いくら俺より身体が丈夫とはいえこの熱の中平然としているのはおかしい。恐らく自分を気遣って水を譲ってくれていたのだろう、顔が赤い。交代と言って水場を譲ると潔く頭を突っ込んだ。
    「年上だからって無理して気を遣わなくていい」
     頭をかき回してやると少しバツの悪そうなくぐもった声がする。年上ぶりたいのだ。こいつも、俺も。

     忘れていたが海水は乾くとベタベタする。バリバリになったお互いの髪を見て一頻り笑った後真水を探して歩いた。
     しかしどこも水不足であるためまともに水といえる水が存在しないのだ。地下水は黒く濁っているし、綺麗に見える水の傍ではネズミなどの小さい生き物がたくさん死んでいた。
    「どうするよこれ」
    「雨でも降ってるといいんだが」
    「いや絶対ない。快晴も快晴だろ」
     雨が降っていればパイプを伝って水が流れてくる。梅雨時期なんかは浸水して居住区が水浸しになるくらいだ。お互い分かり切ったこととはいえ、それでもお天道様に縋らずにはいられない。

     打ちっ放しのアスファルトに囲まれているため熱は籠もるが日が落ちれば幾分マシになる。干からびて死ぬのは免れたが海水によってべたつく身体は今日はもうどうにもならないらしい。
    「飯でも探すか」
    「腕舐めたらしょっぱいしこれで何とか」
     暑さにやられ仕事をしていないので金があるわけもなく。というかこんな時に地下に遊びに来るような馬鹿がいるわけもないので、ここ最近は収穫ゼロのまま食べ物を盗んで生きている。
     それをある程度許容されているくらいには夏の食べ物の寿命は短い。普通に並んでいる飯でさえ些か心配になるのに、半日放置された生ゴミなんかとっくに腐ってヤバい臭いが立ち込めている。
    「変なもん食って腹壊して死ぬより何倍もいい」
    「確かにそうだな…」
     俺達の忠告を無視して残飯を食った奴を思い出す。こんな生活をしていると食べないことより食べることの方がリスクが高いというのに、それでも我慢できず腹を壊し脱水症状を起こして死んでいった馬鹿な奴。


    「妹達は大丈夫そうか」
     いもうと、たち。俺の大事な家族。
     何か言いたげだと思っていたが心配をしてくれていたらしい。血の繋がりなど重荷だと煩われることも多い地下で唯一、それを抱えたまま隣に立つことを許してくれた優しい男だ。俺の家族を心配することに後ろめたさのようなものがあるのだろう。時折こうして視線も合わせず詰まりながら話す。
    「居住区に居ると体調を崩すからって情報屋が連れ出した」
    「いつも思うがその情報屋は信用していいのか」
    「たぶん?」
     実際今日みたいな日に居住区で大人しくしていれば死んでいたかも知れない。
     情報屋は妹を気に入っているらしく何かと話をしに来るが、俺や父が不在だろうが不祥事を起こしていないあたり無害だと思っていいだろう。そして父のことも嫌いではないのか今日も一緒に行くと言っていた。
    「お前は残ったのか」
     行かなかった。誘われなかった…わけではない。遠回しに誘われてはいたが、俺は二人と違って人を殺して金を稼いでいるハイエナだ。きっと何の役にも立たない。
    「どうせ迷惑がかかるなら、情報屋よりお前の方がいいと思って」
     へへへ、と笑ってやれば男は何とも言えない顔をした。
     ふざけるな、勘弁してくれ、なんて言って怒ると思ったのに。

     軋む髪を手櫛で軽くほぐしアスファルトに寝転がる。居住区に戻ることも考えたが、恐らくまともに眠ることもできないだろう。昼間に発生した悪臭から逃げるために最下層に繋がる階段も避けなければならない。
     今年の夏はまた暑い。居住区で身動きの取れない奴は恐らく死んでいるし、そうしてできた死体を投げ込まれる最下層はもはや地獄と化している。
    「交代で寝る?」
     普段は数人で集まって交代しながら眠っている。深夜はアレソレが出るから嫌だの何だの文句を言う奴もいるが、結局いつも適当に座った場所で順番制だ。
    「取られるモン何か持ってんのか」
    「ない。ならいいか」
     取られて困るものなんてもう命くらいのものだが、残念ながら俺達の命に価値はない。最下層でマフィアに売ったところで身体にも臓器にも値は付かないだろう。まともな生活を送っていないから、まともな部分はひとつもない。

     これが冬場であれば、適当な布を集めて寄り添って寝たのだろう。この暑さの中でしたいとは思わないが、警戒心の強い男が容易に懐へ招き喉元を晒すのが好きだった。
     そう言ってやれば「お前こそ」と返されるのだけど。お前なら俺の首なんていつでも落とせるだろうに、不思議なものだ。
    「居住区の掃除どうしような」
    「今は考えたくない」
     冬場とまで言わずとも少しでも涼しくなれば大がかりな作業もできるが(というか冬は冬で動けないのだが)溶けるような暑さはなくなる気配が全くない。いっそ大雨でも降ってくれれば全部流れてくれるかも知れないが。
     いつもなら眠れないと騒ぐ奴らを宥めているような時間に、静かな男とふたりというのは何だか不思議な気持ちだ。決して居心地が悪いとか、間が持たないとかそういうのではない。
    「あいつら今どうしてるかな」
     この暑さで何人か死んでしまったかも知れない。しかしそれを悲しむ余裕が俺達にはない。だからこそ生きていてくれればいいなと思う。
    「何とか凌いでるだろ。人の心配とは余裕だな」
     ため息をひとつ。そんなことを言いながら物音のする方をしきりに確認しているのを俺は知っている。生きてたのか、ここにも何もないぞなんて言いながら手招きしてやるのだ。こいつはそういう男だ。
    「駄目だ。もう寝てしまおう」
    「…そうだな」
     お互いに顔を確認して目を閉じる。
     無事に夜を明けられる確証もない俺達は、元気とは言えない生きている姿を刻んでおかなければならなかった。



     地下に堕ちる前の生活をあまり覚えていない。遠い山奥で暮らしていた頃は飢えることはなかったし、善意というものにたくさん触れていたような気がする。思い出したところで再び手に入ることはないと分かっていた。
     隣で眠る男は善意に触れたことがあっただろうか。自分を憐れまない日があっただろうか。あまり多くを語らない男が酒を呑んでご機嫌になって話してくれたことを思い出す。
     最下層で生まれ育った剥き出しの刃のような蛇。自分が死んだ時は階段から投げ捨てないで欲しいと小さく懇願した。この男が死ぬ時に俺が生きている確証こそないが、もし居合わせたなら這ってでも海に投げてやろうと思っている。
     これを優しさと呼べるのなら。この男に同情や哀れみ以外のあたたかい感情を正しく向けられているとしたら、中途半端でひねくれた自分にも価値があるような気持ちになるのだ。

     あたたかい日差しの中で微睡む感覚を覚えている。あれを「幸せ」と呼ぶのなら俺はこの男に幸せを与えてやることはできない。幸せを与えられることもないはずなのに、時折向けられる安堵した顔は何故かあの日差しを思い出す。
     いつだって貰ってばかりだ。何かひとつ、パンのひと欠片でも返したいのに絶対に受け取ってはくれない。一口分の水でさえ寄越してしまう男こそ、俺みたいな愚図よりもっと長く生き長らえなければならないのに。

     絶対に死んでやるものかと思っていても、いっそ死んでしまいたいと思う日がないわけではなかった。啜った泥水の不味さを覚えている。腐った肉を食べて為す術なくうずくまった夜を覚えている。大人に楯突いて何時間も殴りつけられた痛みを覚えている。
     生きていることが辛くなる。自分の命の価値を考えて泣いた日もあった。
     それでも俺はこの男の善意に生かされ、家族と共にあることを許されていた。




     打ちっ放しのコンクリートと剥き出しの配管が一面に広がる。昼でも陽は差さず常夜灯の明かりだけで生きていた。
     固いアスファルトから微かに感じる鼓動の音がして、まるで自分の心臓と繋がっているようだ。
     石ころのように転がる俺達は、目が覚めてひとり取り残されていないよう祈っている。信じる神も持たないのに。

     地上の"人の生活"というのを知らない俺達は、もうずっと人ではなかった。
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