最後の魔導書 マトリフはベッドに横になったまま咳を繰り返す。引き攣った喉は細く息を吸ったが、それは込み上げる喀血に邪魔されて長くは続かなかった。
気休めの回復呪文も薬草もとうに諦めた。マトリフは手のひらに広がった血を服で拭う。あの戦いから十数年。だが命はまだ終わろうとしない。
マトリフは咳を堪えながら起き上がると枕元の棚に手を伸ばした。そこには一冊の魔叢書が置かれてある。マトリフはそれを迷わずに手に取った。
マトリフはその魔導書を開かずに胸に抱える。中に書かれたことは暗唱できるほどに覚えていた。マトリフは魔導書を胸に抱くと安心したように身体の力を抜く。その身体は前のめりに倒れていった。
「……ガンガディア」
呟いた言葉は響くことなく消えていく。何故よりにもよってこの本を託されたのかとマトリフは思った。
火竜変化呪文はマトリフにとって数少ない習得できない呪文だ。たとえどれほどの努力を持ってしても不可能である。だから託されたとしても使い道などなかった。代わりにアバンへと譲ったが、習得後に魔導書は返された。マトリフにとって大切なものだろうと言われて。
マトリフは震える手で魔導書を抱きしめる。そうしていると、あのときの嬉しさを思い出せるような気がするからだ。誰かをあれほどに思うことはもう無いのかもしれない。
「……素晴らしい……ライバルか……」
あの時のように人間を守りたいとは思えない。だが、ガンガディアへの思いは変わらなかった。この魔導書をガンガディアの代わりだと思うほどに、今もその存在はマトリフの胸に刻まれている。