叡智な呪文 ロカが目を覚ましたとき、あたりはまだ夜と朝の狭間にあった。いつもならそのまま目を閉じたのだが、ふと何かが気になったように意識が浮上した。
昨夜は森で一夜を明かした。巨大な樹洞は四人で眠れるほどの大きさで、みんなで身を寄せ合って眠った。目が慣れてくると薄暗い樹洞の中でレイラとアバンが眠っているのが見えたが、そこにいるはずのマトリフの姿が見当たらなかった。
ロカはレイラとアバンを起こさないように外に出た。
森は静けさ包まれていた。日の出の微かな光が木々の間から差し込み、朝露で濡れた葉が輝いている。森の奥深くでは鳥たちがさえずっていた。魔物たちは眠りにつく頃だろうか。草花の匂いが心地よい。近くを流れる小川からは絶え間なく水音が聞こえていた。
ロカはこの瞬間を美しいと思った。戦いの喧騒は遠く、自然の中にいるのだと感じられる。マトリフはどこだろうと見渡してから、その姿を見つけた。
マトリフは脚を組んで座ったまま宙空に浮いていた。なぜ今まで気付かなかったのだろうと思ったが、マトリフは不思議なほど自然の中に溶け込んでいる。瞑想でもしているのだろうと思ったが、いつもと雰囲気が違った。
ロカはマトリフに声をかけることが躊躇われた。まるでよく知る友人ではないように感じられる。近寄り難い雰囲気は周りを拒絶しているようだった。
するとマトリフがロカに気付いた。途端に石鹸玉が弾けるような衝撃を感じる。マトリフは少し驚いたようにロカを見ていた。
「何かあったか?」
「マトリフを探してたんだよ」
いつもは遅くまで寝てるじゃないか、と言ったらマトリフは口の端を吊り上げた。普段は年寄りのくせに寝坊ばかりしている。
「この森はまだ精霊がいるから、ちょこっと力を分けて貰ってたんだ」
「邪魔したってことか。悪い」
「終わろうと思ってたところだよ」
言うとマトリフは地面に足をつけた。息をついてから髪をかき上げている。
「夜明けだな」
言いながらマトリフは手を天に向けている。まるでそこにいる誰かを撫でるような動きに、ロカは眉間に皺を寄せた。
「……そこに精霊がいるのか?」
「お前には見えてねえのか」
「見えねえよ。オレは魔法力なんて無いんだぜ」
そうか、と言ってマトリフは宙空を眺めるように見た。その目が遠ざかっていく何かを追うように動く。精霊を見ているのだろう。
マトリフはロカのほうに向き直った。
「お前の魔法力は全く無いってわけじゃねえんだぜ」
「何言ってんだよ、オレは戦士だぞ」
「武闘家にだって魔法力はある」
マトリフはロカの前まで来ると、覗き込むように見てきた。ロカはそれに気圧される。
「……なんだよ」
「魔法、使ってみたくねえか?」
「何言ってんだ。使えるわけないだろ」
「ヨミカインで使ったじゃねえか」
「あれはマトリフの力なんだろ」
まあな、とマトリフは肩を竦める。そしてマトリフの指がロカの肩を突いた。
「だから、オレの力で魔法を使わせてやろうかって言ってんだよ」
「あれは魔導書になってたから出来たんだろ?」
「まあな。だが、違う方法もある」
マトリフの指がぐいとロカの肩を押す。いくら年老いているとはいえ、ひ弱ではない確かな力がそこにはあった。とはいえいつもであれば簡単に押さえつけられる。だが不思議と逆らえない感覚になっていた。
「なんだよ、違う方法って」
ロカが一歩後退る。するとマトリフが一歩前に出た。ふわりと薬草のような匂いがする。マトリフの鋭い眼光に射すくめられた。
「怖がるこたぁねえよ。お前の髪の毛一本だって傷付けやしねえ」
それがどうも悪い誘いにしか聞こえなかった。だが、好奇心の方が勝ってしまった。何事も不器用な自分が魔法の一つでも使えたら、少しは役に立つかと思ったからだ。
ロカは頷く。するとマトリフがにやりと笑った。赤い舌が薄い唇を舐めるのが見える。早まったかと思ったが、同時に強く惹かれていた。
マトリフはロカを地面に座らせて、自身も屈んだ。マトリフは指を一本だけ立ててロカに向ける。
「力を抜け」
低い声が鼓膜をくすぐる。しかし抜けと言われてすぐに抜けるはずもなかった。やはり未知への恐怖が身体を強張らせている。
するとマトリフの指がロカの肩を撫でた。まるで筋肉の形を確かめるような動きで、指先だけで撫でていく。くすぐったさを感じると同時に、別のものも感じる。心地よさと恥ずかしさを混ぜたような感覚だった。
「なに緊張してんだ」
揶揄うような声音のすぐ後に、強く肩を押された。だがマトリフの指は動いておらず、ロカの身体も傾いてはいない。それなのに肩を強い力で押されているような感覚だけがあった。押される力は徐々に強くなっていく。何かが無理に押し入ろうとしているかのようだった。
「……っ」
ロカが洩らした声に、マトリフが声もなく笑った。羞恥を覚えて顔に熱が集まる。
「大丈夫だ。オレのこと信じろ」
何かが体内に入ってくる。それは液体のように流動的なもので、マトリフに触れられた肩から侵入していた。それは体温を持っているようにほのかに暖かい。
「……あ……マ、トリフ、これ……」
「お前の中に入ってるのがわかるか? オレの魔法力だ」
血管を辿るように魔法力は体内を巡る。まるで体内を手で撫でられているようだった。魔法力はマトリフの意志で動いているのか、探るようにロカの身体の中心部へと進んでいく。ロカは声を上げそうになって必死で堪えた。
「やっぱ見つけにくいな」
マトリフは呟く。ロカに触れていない方の手が空を指差した。
「昇ってくる朝日でも見てな」
空を指差したマトリフの指の先が、微かに輝いて見えた。だがよく見ればマトリフの身体全体が淡い魔法力に包まれているのだと気付く。その姿を見ていると、ふっと身体の力が抜けた。
「……いいぞ」
その瞬間、身体の最奥に触れられたような気がした。
「まて……マトリフ、ちょっと」
ロカは腰から力が抜けていく。まるで芯を抜かれてしまったかのようだった。身体の中がじわりと熱くなっていく。
「見つけた」
まるで内臓を掴まれたようだった。だが痛みはない。逆に気持ち良いとすら感じた。身体が心地良さに蕩けていく。
「いいぞ、お前の魔法力を掴んだ」
触れられて初めて、そこにあるのが自分の魔法力だと気付いた。小さくて輪郭もあやふやだが、マトリフの暖かな魔法力に包まれている。
「今からオレの魔法力を注ぐ」
「は……なに……?」
突然に頭を抱え込まれる。法衣越しにマトリフの骨張った胸が頬に当たった。朝露と冷たい夜気の匂いに包まれる。
「いくぞ」
マトリフの言う意味も理解できないまま、突然に胸が熱くなった。それは身体の内側から膨れ上がっていく。まるで光の玉でも押し込まれたようだった。
「まッ……あぁ」
抱えきれない、と思った瞬間、その膨れ上がった熱が弾けたように感じた。破裂した熱が細かくなって身体の隅々まで流れていく。
「注いだオレの魔法力をお前の魔法力に混ぜた。どうだ? 魔法力が身体に満ちていくのを感じるだろ」
それはなんとも言えない心地良さだった。身体の重みを一切失って宙空に漂っているように思える。溢れる力が出口を求めて身体中を跳ね回っていた。
「……ケケッ、気持ち良さそうじゃねえか」
その声に意地悪さを感じ取る。ふと自分の身体を見ると、股間が膨れ上がっていた。慌てて脚を閉じる。性的快感を感じていたことに言いようのない恥ずかしさを感じた。
「まあ気にすんな。コレは身体の奥から気持ち良くなっちまうもんだからよ」
「と、止めてくれ」
「せっかくなんだ。最後までいこうぜ」
マトリフは呪文の詠唱をはじめた。聞き慣れない古語の韻律に神秘的な美しさを感じる。マトリフが詠唱を必要とするほどの呪文なのかと慄いていると、マトリフが詠唱を止めないなまにロカの手を取った。マトリフはロカの手を天に向けさせる。手のひらが熱くなるように感じた。
「我は殺戮者火神を誘致す。人間を見守る汝は我のため、その眼前において火炎を投擲し焼き滅ぼせ」
マトリフが唱え終えると共にロカの手のひらから火球が生まれた。それは勢いよく天へと昇る。ロカはその火球を目で追った。
「……メラか?」
いくら呪文に疎いロカでもそれがメラだとわかった。するとマトリフがそのメラに向かって手を向ける。今度は詠唱もなく氷系呪文を放ち、先ほどのメラを打ち消した。
マトリフは息を吐くとロカから手を離して立ち上がった。支えを失ったロカは朝露に濡れる草むらへと倒れ込む。
「ま、こんなもんだろ」
「ただのメラじゃないか」
ロカは身体中の力が抜けていた。あまりの疲労感に立ち上がれない。これほど力を使って出たのがメラでは実戦で使いようがなかった。
「だったら何だよ。契約すらしてねえお前が無理くり使えるのは、せいぜいメラだっての」
ああ疲れた、と言ってマトリフも地面に座り込む。どうやらマトリフの魔法力もかなり消耗したらしい。マトリフは額に浮かんだ汗を拭うと、ロカに指を向けた。
「あいつらが起きる前に処理してこいよ」
ロカが見ると股間は依然として張り詰めたままだった。慌てて前屈みになって股間を隠す。
「ううううっせえ!」
ロカは股間を押さえたまま立ち上がると茂みの奥へと隠れた。こんな状況で自分を慰めることなんてできるわけがない。マトリフは笑いながらそれを眺めていた。