慕えど追いつかぬ魂――時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す、無量に連なる辻の如きものであり―― 引用:終景累ヶ辻 空木 春宵
おや?
こんなところで奇遇ですねぇ。
……そんなに警戒しないでくださいよ。怪しいものじゃありませんってば。
不審者を自称する不審者はいない?はは、そりゃそうだ。
おれはリーってもんです。事務所の名刺、いります?
いらない?残念です。
おれはあっちの方に用があるんですが、良かったら途中まで一緒に行きませんか?こんなところを一人歩きなんて、危ないでしょう。
はは、そんなに警戒しないでくださいよ。こう見えても探偵なんです。警護も仕事の範囲内ですよ。
依頼なんてしてない?まあそう仰らずに。あの十字路まで。どうです?
しかし、十字路、ねえ。――ああ、昔のことを思い出しただけですよ。多元宇宙論……いや、並行世界だったかな……。まあ、そういうことを説明してくれた人がいたんですよ。
ハッブル体積?とかいうものの中にレベル1から3の多元宇宙があり……、"分裂"によって創られたすべての異なる"世界"は、レベル1……いや3だったか?の中にあるとか、ええと、自発的……対称性?が、破れるとかいう瞬間に世界を……。
……。
はいはい。あなたのおっしゃる通りですよ。付け焼き刃の知識で適当なことを言うもんじゃありませんね、全く。
はあ。昔の連れ合いが好きで、よく話してくれたんですけどねぇ。もっと真面目に聞いておくべきでしたよ。
はい?
その人は今どうしているのかって?
どうしているんでしょうねぇ。
……、はは、そうですね。確かにあなたとは気が合うと思いますよ。
ああ。それで、どうしてこんな話を持ち出したのか、ですか?
いえね、その人が十字路をイメージしろ、って言ってたもんで。時間の流れは一定ではなく、世界も一意に定まるものではない。分岐した時間と世界が交錯する瞬間がある。それこそ十字路のように、ってね。
はい?
そうやって、もし――過去や未来、選ばなかった可能性の世界が見えたらどうするか、ですか?
それは――
***
死に至るほどの慕情とは、此の様なものであろうか。
「……ばかだなあ、きみ」
行き場を無くした方舟に止まっているのは、もう自分とこの人だけだった。他のオペレーターたち、この人を置いていくことを最後まで悔やんでいたあのコータス達は、もう十分遠くまで逃げ切れただろうか。
「最後まで、私に付き合わなくてもいいのに」
白衣はじっとりと血の赤に濡れて、この人が致命傷を負っていることは誰の目にも明らかだった。だからこそ、この人は囮として残ることを選んだ。末の子どもがいれば、この人のことを治してやれたのだろうかと思い、苦笑する。栓無い話だ。今となっては、もう。
「あなたを置いていけませんよ」
抱えた体は枯れ枝の様に細く、軽い。この華奢な体に、今までどれほどのものを背負わせてきたのか。――この人は、ようやく自由になれるのか。
ドクター、と呼びかける。返事はない。見下ろした瞳にはもう光はなく、この人がもう、自分の胸の裡にしか存在しないことを知る。
映り込む鬱金色を反射するばかりの瞳が、眩しくないようにと。そっと瞼を下ろしてやる。
「――おやすみなさい、ドクター」
***
死んでも褪せぬ恋情とは、どの様なものであろうか。
「君も物好きだよ」
身体中が錆び付くほどの潮風の中だった。海はもう、こんな場所にまで侵食しているのか。ここが人類にとって最後の防衛線で、陸と海の境界線だった。
きちきちと、アラゴナイトとカルサイトから成る貝殻と鋏のぶつかり合う音が響く。さざなみのように次第に広がりゆくそれは、いつしか大合唱となって鼓膜を蹂躙する。それしか音が聞こえないのであれば、それは静寂と大差ない。
「そうでもなきゃ、あなたの隣は務まらないでしょう」
その言葉に、ドクターは目を丸くする。嗚呼、この人がこんな風に驚く姿が見られるのなら、それだけでここに来た価値があった。
「リー」
潮騒が、最後の言葉を攫っていく。ここはもう海なのだ。
「 」
嗚呼。
こんな暗くて寒くて寂しい場所に、この人を一人にせずに済んで、本当に良かった。
***
覚えているのは、触れ合った手の温かさ。
覚えているのは、抱きしめた体の柔らかさ。
何度別れても。何度手放しても。
何度でもまた巡り合う。
だって、それが――
「――番ってもんでしょう?」
***
特にどうもしないでしょうね。
おれは満足していますから。過去の選択にも、未来の選択にも。
今、おれがこうしていることにも。
悔いがないと言えば嘘になりますが。それはほら、花が散ることを惜しむことはあっても、憎むことはないでしょう?
例え失われたとしても。
幸せなひとときも、満ち足りた日々も、確かにありましたから。――嗚呼、そうですね。
おれは幸せですよ。今も、昔も。
あ、向こうで手を振っている人。あなたの連れじゃありませんか?――うわ、あなた本当にサルカズの王族とお知り合いだったんですねぇ……いえ、こっちの話です。
ほら、行ってきたらどうです?隣のこわーいフェリーンの女性も、あなたのことを見てますし。……おれの方?いやいやまさかそんな。
おれですかい?
おれはちーとばかりここに残りますよ。ほら、後ろから人が来てますからねぇ。あなた、随分と人気者のようで。いやはや妬けますねぇ。
……。
そんな顔しないでくださいよ、ドクター。
おれなら平気ですから――はい?
名前をいつ知ったのか?
はは、いつでしょうねぇ。
さあ、もう行って。あなたを待ってる人がいますよ。
はい?
おれの名前ですか?
おれの、名前は――
「――いえ」
男が広げる杭とそれに結び付けられた糸が、山吹色の光を散らす。戦火の赤にも、夜闇の黒の中でもその色は輝きを失わない。
「今はやめときましょう」
彼が手をかがける。指の間に挟まれた符が風を受けてひらめく。まるで、別れの挨拶を告げる様に。
「また、会えますから」
自分と彼の間に、金色の境界が描かれる。――此岸と彼岸を隔てるようだ、と。訳もなく、そんなことを思った。
最後に、一度だけ。彼の瞳が、私を見つめる。
その鮮やかな鬱金色の光が、私の中に焼き付く。
「――いつか、どこかで」