古い思い出を捨てることには、身軽になる痛みがつきまとった。過去というものはしがらみの一つであろう。それを切り捨てることは肌を脱ぎ捨てるように、引かれる後ろ髪を切り離すような、心地よさと表裏一体の心もとなさがつきまとった。春を迎え、冬の寒さを凌ぐために纏っていた重たい外套や毛布を脱ぎ捨てれば、きっとどこまでも駆けていけるだろう。けれども自分はもう、どこかに行きたいわけではないのだ。
「そんなことを言って。いい加減この部屋を片付けたほうが良いと思うよ。ワイフーだって言っていただろう」
本棚を整理していたドクターが、浮かない顔で小箱の中身をいじっていたリーに苦笑する。古くて汚い探偵事務所、というワイフーの言葉は、リーからしてみれば異議異論のあるところではあるが、確かにその一面は事実だった。すなわち、汚い、という。
「ほら。この置物はどうする? 棚はもういっぱいだろう。倉庫にしまおうか?」
ドクターが手にしているのは猫を模した、手のひらに収まる大きさの石像だった。近所に住んでいる誰かが、旅行の手土産にと以前贈ったものだ。そうですねえ、とリーはドクターからそれを受け取った。これを贈った人は、もう龍門にはいない。この石像の掘られた場所、その人の故郷へと帰ったからだ。
「……どうしましょうねえ」
リーはぐるりと室内を見渡した。部屋を満たすものはリー自信が趣味で集めた骨董品や、龍門で出会った人々からの贈り物だ。一度きり、龍門を訪れた旅人が残したもの。龍門を去った人が最後に残したもの。贈り物を最後にそれきりになったものも多い。このうちの何人かが、既にこの世の人ではなくなっていても、もう自分にそれを知る術はない。今となってはこれだけが縁なのだ。
それを倉庫にしまい、埃のかぶるままに任せるということは、箱にしまい、日の目も人の目もつかない場所に片付けることは。――酷く、埋葬に似ていた。
不意に、室内に光が満ちた。それがドクターがカーテンを開け放ったことによるものだと、遅れて気づく。サングラス越しに陽光が網膜を焼き、吹き込む六月の風が埃っぽい室内をかき回す。
「休憩しようか。お茶を淹れてくれるかい?」
石像を置き、リーはキッチンへと足を向けた。こんな調子じゃいつまでかかるか、とドクターはぼやくが、そこに咎める色はない。
「また来週も片付けに来るよ」
「付き合ってくれるんですかい?」
「当面はね。まあ、こうなることはわかっていたから」
炎国人は情に厚い、とドクターが口ずさむ。それは炎国にゆかりの深いあのバウンティハンターの言葉でもあり、ドクター自身の実感でもある。
「君がそう簡単に、何かを片付けられないことは知っていたよ」
逆光の中でドクターが微笑む。手を伸ばして、光が縁取る輪郭を確かめるように頬をなぞる。自分はあえかなこの感触を、どこまで繋ぎ止めておけるのか。
こうしてまた一つ、忘れられない思い出だけが増えていく。