口「なあ聡実くん、〝口〟ってどこのことやと思う?」
「…は?」
「ええから、どこ? 触って」
「口って…口ですよね? ここ…、」
「あ、ちゃうくて、狂児さんの、口、触って」
「なんなんですかほんと…、ん、」
「…聡実くんそこ、〝唇〟ちゃう?」
「……そう、ですね?」
「な? 〝口〟ってあるんかな…?」
「くち、」
ゲシュタルト崩壊しそうなほどに繰り返される単語が脳を埋め尽くす。そんなことを考えたこともなかったけれど、至極真剣にそう問いかけてくる狂児に、僕は『口』の在処を考える。
どこなのかと問われてすぐに浮かぶのはやはり『唇』だった。口に触ってと言われたら、おのずとそこへ手が伸びることが分かった。今まで僕が口だと思っていたところは唇だった。たしかにその通りかもしれない。
しかしその在処を思えば、『口内』がそれに当てはまるような気がして、粘膜の組織ばかりが渋滞するその空洞のことをそう呼ぶのだとしたら。
「触って教えて」と見つめてくる狂児はまるで子どものような瞳で問いかける。僕の答えを一心に待ち望むその眼差しに、答えてやりたくなるのは果たしてこの男の戦略なのだろうか。
「あるとしたら…ここじゃないですか?」
「ん、どこ?」
「口、開けてください」
「あ」
『口を開けて』といえば開かれるそこがやはり正解だとして、静かに開かれた口内から覗く赤い舌と、対照的な白い歯。その色のコントラストが目に毒だ。
左手でスマートフォンを操作して『口 部位 名前』と検索する。思ったよりも細かくそれらの名前が出てきて驚いた。こんなにたくさんの名前が付いていたのかと。
「仕方がないから教えてあげます、そのまま口開けといて」
「んあ」
「まずは口唇、くちびるのことです」
上口唇、下口唇言いながら上唇を指でなぞる。その心地のことならばよく知っているはずなのに、改めてなぞるとなんだか不思議な気持ちになった。
「次に口蓋、上顎のあたり…ですね、」
硬口蓋、口の入り口のあたりから上顎をたどるようにして喉の奥へと指先を進めると、少しだけ柔らかくなる箇所にたどり着く。そこが軟口蓋。そう伝えながら少しだけその箇所を押すと、ひくりと鳴る喉の動きが生々しかった。
「歯肉、口角、口蓋垂…、口蓋垂にはうまく触れないから諦めます、でもよく見せて」
従うように喉の奥を見せるために傾いた首。なんとかしてその奥の方を覗くと、思いのほかその口内の様子が見て取れた。そういえば、『歯』も『口』の一部かもしれない。そんな風に思った。
そして口蓋垂、のどちんこと呼ばれているその部位は、歌を歌うときにも重要な部分で、この口蓋垂を上げることによって『喉を開く』状態になる。狂児には何度教えてもうまくできずに伝えきれなかったことだった。もう少しだけ指を伸ばせば届きそうなそこを、摘んで教えてあげたい。
狂児の口の中を覗いているだけなのに、やけに色っぽい気持ちになってきて、唾液にまみれた指を一度そっと引き抜く。
ずっと口を開けていた状態だったせいで、口の端からこぼれそうな唾液に、思わず唇を寄せて舐めとった。
そのまま、ちゅっ、と触れるだけのキスをされ、「続きして、教えて」と、あるのかどうかも分からない続きを促される。口の説明ならばもう十分なのに。その『口の中』に引っ込んでしまった舌の味を確かめたい。早くもっとちゃんとキスされたいのに。
しかしふと思い立って、また検索をかける。今度は『舌 味覚』と。その答えを聞くために、もう一度開かれた口の中、その舌の上を一箇所ずつ丁寧におさえていく。
「じゃあ舌…、ここが苦味、ここが酸味、ここが塩味、ここが旨味、最後、舌先が甘味です」
ひとつひとつ、スマートフォンに映し出された画面の通りにその箇所をたどると、ほんの少しでも力を加えるたびにふるりと震える舌が艶っぽい。
聞いてみたい。狂児、僕、何味やった?
「…狂児さん、僕の指、どこで一番感じました?」
「感じる、ってなに」
「味」
「聡実くん、もう一回教えて、聡実くんの味」
そう言って飲み込まれていく僕の指が狂児の『口の中』で好きにされる。いつも好きにされている僕の『口の中』がさみしくて、僕の腰のあたりに回されていた狂児の手を取りその指を口に含んだ。
狂児の味。
煙草の香りのする指先。苦味を感じるのは奥の方。この苦い香りと同じように、味もするのかどうか確かめたくて、そっと奥へと誘った。そのまま舌の上を這うように辿らせて、舌先でべろりと舐め上げる。甘味を感じるはずの舌先で、痺れるような快感を拾ってしまった。どこまでも甘い。
二人して指先を吸い合って、なにがしたいのだろう。元はといえば、『口』とはどこにあるのか? 果たしてあるのだろうか? という話だったのに。
「っん、きょうじさん…、」
「ん…?」
「口、どこにあるか、ちゃんとたしかめて」
「そうしよ」
大きな掌が頬を滑り、後頭部に回されて、ゆっくりと引き寄せられる唇が重なった。
やっぱりこれが口なのだと思う。こうして重ねることのできる粘膜。唯一の、温かい空洞。