束縛の咬魚は誘惑と番いたい【1】*****
「ねぇオレさ〜、ジェイドのこと好きなんだけど」
故郷の海を離れ、晴れて名門ナイトレイブンカレッジに入学することが叶い、入念な下準備の甲斐あって貪欲な幼馴染みが寮長の指名を受けて、次いで学園長から飲食店の営業権を千切り取るため大手を掛けようかという頃。海の底のオクヴィネル寮の、学園内でちょっとした有名人である双子の人魚の私室にて。ベッドに片肘を突いて腹這いになり、見るともなしに雑誌をパラパラと捲っていたフロイドの何の脈絡もない一言によってその場の静寂が破られた。
部屋に備え付けられた貝のような意匠を施された椅子に座って読書に勤しんでいたジェイドは、読みかけの本から自身の片割れへ視線を移す。
「番になってくんない?」
夜食はパスタでいい?くらいの軽やかな調子とそれに似つかわしくない内容の相談にジェイドは僅かに目を細めた。口調自体は甘くてふわりとしたいつもの相方のものであるが、こちらを見つめてくる自分と鏡合わせになるヘテロクロミアは殊の外、真剣な色をしている。この自慢のきょうだいはいつも突拍子もないことを言い出すのだから堪らない。
「…番、…」とジェイドは滅多に口にすることはないだろう単語をぽつりと反復し、栞を挟んで本を閉じる。そして窓の外に広がる海をぼんやり眺めながら緩く握った右手を顎に添えた。部屋で考え事をするときの彼の癖だ。
はて、これはどうしたことだろう。ジェイドとフロイドは紛れもなく血族で“双子”であり、「お前たちは異常に距離が近すぎる」と幼馴染みに呆れられてはいるものの、今まで二人の間に家族愛以外の情を感じられたことがあっただろうか。
暫しの沈黙の後、フロイドに向き直り話題を先へと進める。
「僕が思い返す限り、今まで貴方からそのような意図のアプローチがあった心当たりはないのですが、それは熟考の上での要望なのでしょうか?」
「はぁ?そりゃ考えてからじゃねーとフツー番になってなんて言わないでしょ。」
なに当たり前のこと聞いてんのと言わんばかりの態度だが、素直にその言葉を飲み込めないのも無理はないのではないだろうか。それに普通ときたか、と言葉には出さない代わりにジェイドはふっと小さく笑いを零す。
自分たちが普通であったならば、入学して一年足らずで学園の生徒、特に同学年の者たちから『実は』と『明らかに』で違いはあれど“ヤバい双子”認定をされることはなかっただろう。ましてきょうだい相手に恋情を抱くこともなければ、番になってほしいと話を持ちかけることもないのだから。仮に肉親に恋をしたとして、一般的にはそれを対象へ告白するのは途轍もなく恐ろしいことのはずである。心の裡は彼のみぞ知るところではあるが、傍からみればサラリとそれをやってのけてしまったように見えるフロイドはやはり面白い。
「突然のお話で、どうお返事をして良いやら…僕、困ってしまいます」
半分ほど目を伏せて眉を下げ右手で口元を覆った姿はジェイドの言の通り困っているようにも見えるが、指の隙間からは上がった口角と捕食者らしい鋭い歯がチラリと覗いていて、言っていることと表情との整合性がいまいち取れていない。
そんなジェイドの様子にフロイドは片手で軽く頭を掻きながら大きな溜息を吐いた。
「ぜーんぜん困ってねぇくせによく言うわ…。オレらこーゆーハナシしたからってすぐにきょうだいの縁切ってやる〜ってオチになるほど繊細じゃないでしょー」
「はい、ええ…ふふっ。違いありませんね」
フロイドから向けられる明け透けな信頼に、ジェイドはにこりと上機嫌で応える。
もし本当にきょうだいの縁を切ることがあるとするならば、それは互いの意志が決裂し、話し合いでの解決が不可能なところまで悪化した結果、命を懸けて争った末にどちらかが生き残ったときだとか、そういうのっぴきならない極限状態に陥った場合くらいなものだろう。
そもそもこの双子の間で大きな喧嘩に発展するケース自体が非常に稀だ。
一見して柔和で丁寧な人当たりの裏で強靭過ぎる我を備え、譲れないところは少しも妥協しないジェイドに対し、気分の乱高下はあれど身内と認定した相手には比較的寛容で、元より物事に強い執着を持ち合わせないフロイドが先に折れる場合が多かったりする。常識的な兄弟なら露知らず、この二人の間では大概のことは『面白いこと』として問題にもならない。互いの勝手や我儘もその殆どを許し合えるのが常だった。
「んで、ジェイドはオレの番になる気あんの?ないの?」
勿体ぶるような相手の物言いにだんだんと飽きが差してきたフロイドは結論を急かす。
そんな片割れの様子に今度は本心から少しだけ困ったように笑みを漏らしたジェイドは、閉じた本を膝の上から机に置き、フロイドが身を預けているベッドへ移動してすぐ側に腰掛ける。距離を詰めて来たプロポーズ相手をいかにも落ち着かないといった雰囲気でゆるりと下がった眦が見上げた。ジェイドはそんなフロイドに視線を合わせ、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「……そうですね。非常にデリケートな内容のお申し出ですし、一度持ち帰って検討させていただいてもよろしいでしょうか」
申し訳なさそうに眉を寄せて微笑むジェイドの答えに、むっとフロイドは口を引き結び頬を片方膨らませる。そしてベッドの端に転がされていた枕ほどの大きさの丸いタコのぬいぐるみを懐に引き寄せ、微かに唸り声を上げながらごろりと仰向けに転がった。このユルいタッチのタコのぬいぐるみは、フロイドがウツボの抱き枕と一緒にクレーンゲームで獲得し、色変え魔法で自ら薄紫色に塗りかえたお気に入りだ。強めにぎゅっと抱き込まれたタコちゃんから“グエッ”と悲鳴が上がったような気がした。
「なにそのオシゴトのやり取りみたいな言い方〜。ま、真剣に考えてくれるってことなら待っててやるけどさぁ」
「ええ、勿論です。他でもない大切なきょうだいに関わることですから。真摯に向き合わせていただきますとも」
拗ねた子供のようにタコのぬいぐるみに膨れ面を埋めるが、ジェイドがこの話題をこのままおざなりにしてしまうつもりではないと理解しているフロイドは焦ったさを感じるものの不承不承の態で受け入れた。
愛しの片割れが顔を隠してしまったことを惜しむようにジェイドは優しくゆったりと浅瀬の海色をした頭を撫でてやりながら、窓の外の寮を包む海へと視線を投げて思考の渦に身を委ねる。
おそらくフロイドは番の話を即答で受け入れてほしかったのだろう。彼にそのような話をされても嫌悪感はない。雄同士だとか血の繋がりだとかそんなことも割とどうだっていい。重要なのは諸々の相性だ。フロイドも同じだとわかっている。自分たちは互いを補う存在なのだから。
今まで唯一のきょうだいとして又は無二の相棒で魂の片割れとして、ずっと二人で厳しい海の世界を遊び場に面白可笑しく生き抜いてきた。いつしか二人と一人になっていたけれど。陸は驚くほど平和で天敵になり得る生き物はおらず、必ずしも二人で行動しなければならないという状況ではなくなった。むしろ海での単独行動だとしても今の自分たちならばもう問題はない。
…だからきょうだい以外の絆を求めたのだろうか。あの何にも囚われることのないフロイドが。
たしかに彼は甘えたなところがあるので、クラスも部活も別れてしまい、二人でゆっくり過ごせる時間が減った現在の環境には不満があるだろう。陸でそれぞれ多くを見聞きし、互いに異なる人付き合いや趣味などもできた。そしてアズールの今後の計画上、共有する時間はもっと減る可能性がある。寮の自室をきょうだいで一部屋にしてもらえたのは幸いだった。というより、何故か誰も自分たちと同室になりたがらなかったのだが。
離別の寂しさから?双子としての独占欲から?それとも本当に血縁に収まらないような感情が?人間と違って人魚にとっての『番』は重い。彼は無垢だが、無知ではない。しかしフロイドは独特の感性と物差しでもって俗世を見ている。それはジェイドが愛するところの一つなのだが、今回の件では懸念材料と言わざるを得なかった。
…でももしも、これまで出会った何よりも自由で美しい生きものだと感じる彼の一生を縛る権利を得られるとしたら…?
(…それを、僕は……望んでいるのだろうか)
思い浮かべてみると何やら沸き立つものも感じるが、現状では考えてみたところで確信は持てない。…わからない。フロイドの心も、己の心でさえも。わからないことは、面白い。ただこれは結論を急いでいい事案ではないということだけは確かだ。本人にも口にしたが何しろ大切なきょうだいに関わることなので。手に入れるかどうかはより慎重に判断しなければ。獲物を手にかける時は、何が何でも手中に収めたいという確固たる意志と、確実に仕留められる自信が必要なのである。自分は一度手に入れたものを気紛れに手放すような性質ではないのだから。
愛おしむように頭を撫でられているのが気持ちよかったのかフロイドはいつの間にか小さな寝息を立て、すっかり夢の中に沈み込んでいた。
*****
「フロイド。先日保留にしていただいた案件についてなのですが、考慮してみた結果をお伝えしてよろしいですか?」
今し方淹れてきた温かい紅茶を洗練された所作で相棒と幼馴染みへサーブしながら、ジェイドは口火を切る。
先達てのお返しとばかりに突然話題を切り出されたフロイドと、嫌な予感を察知したアズールは取り掛かっていた問題集から顔を上げ、完璧な微笑みを浮かべた震源のウツボをじとりと見遣った。胡乱なもの見るような二対の眼睛をなきがごとく往なし、ジェイドは先程まで座っていた席に戻って、淹れたての紅茶を優雅に楽しむ。作業のお供ということで覚めるような濃厚な味わいのアッサムティーを、自身とアズールの分はストレートで、フロイドの分は蜂蜜を溶かしたミルクティーにしている。二人とも訝しげな視線をジェイドから外さないまま淹れたての紅茶にちびりと口を付け、熱っ!と仲良くリアクションをシンクロさせた。
学園が夏季休暇に入って生徒が帰省し出払った自寮の談話室で、この日三人は勉強会のような場を設けていた。ちなみに、わからない問題を教え合うような微笑ましい青春の1ページでは決してないと釈明しておく。
フロイドは休暇中に学生諸君を戒めるため出された課題たちを、アズールは課題など出された数日の内に消化しているので今は休暇直前に行われた全教科全学年分の試験問題を持ち寄って、フロイドが「めんどくさい」と提出物を放り出さないよう監視をしている。ちなみにジェイドはというと、出された課題はおおよそ終わらせていたので休み明けに向けて片付けておかなければならない細々とした書類たちの処理をしていた。
夏季休暇という生徒は全員家へ帰されるはずの期間になぜこの三人が残っているのかというと、次年度からモストロ・ラウンジを開業するに当たって自寮の設備改修を業者に頼んでおり、それに立ち会わせてもらうため特別に許可を得ているからである。休暇の後半は自分たちも故郷に戻るためそれまでにやるべきことは沢山あるのだが、ない時間を捻出してでも勉強会を開いたのには勿論理由があった。実家に帰ったら課題自体を忘れて新年度を迎えそうな究極の自由人にそれを完遂させ、予め寮の自室に置いて行ってもらおうというアズールの作戦なのだ。自分が寮長になったオクタヴィネルに所属する生徒…しかも側近になる予定の者の課題が未提出など到底許せることではい。
「……ちょっとジェイドぉ…今それ切り出す?アズールもいるんだけど〜。クソつまんねー課題やらされてるし、マジで萎えるわ…」
机に雑然と広げられた教材の陣地にフロイドはぐにゃりと猫のように上半身を倒して、いかにも怠そうに両腕を投げ出した。今はあまり勉強向きではなかったらしい天才肌の半身の気分をさらに下方修正させてしまったようだが、ジェイドは休憩がてらの歓談と言わんばかりに素知らぬ振りである。
そんな二匹の肉食魚の攻防に絡まれないようアズールは海底で景色に擬態するが如くひっそりと息をころす構えだ。初手であの二人とは別のテーブルに陣を構えていたので奴らとは少し距離を取れてはいるものの、今すぐアッサムの芳醇な香りの陰に隠れてしまいたいと思った。
「ああ…アズールには立会人になっていただこうかと思いまして」
「んー、どゆこと?」
「待てやめろ、僕を巻き込むな。絶対碌なことじゃないだろ…!」
やはりというべきか秒でフラグを回収してしまった立会人こと憐れな巻添え人は、冗談じゃない!と片手で額を抑える。早くも頭痛がしてきたようだ。
一方その長身に見合った長い手足を弛緩させていたフロイドは、相方に企みのにおいを感じちょっとだけ興味を引かれてプリントの海原から、ロングテーブルの対面のお誕生日席に座っているジェイドへちらりと視線を寄越す。最悪レッドゾーンまで機嫌を損ねてしまうかもしれない、と一応危惧していたジェイドは何とか話は聞いてもらえそうな感触を見出して表情に喜色を滲ませた。
「フロイドもたくさん僕らのことを考えてくださってのお話だったと了解しているのですが、僕、こういった大事なことはより慎重になるべきだと思いまして」
自分よりも用心深いきょうだいのいつも通り勿体つけた冒頭陳述にフロイドはギュウっと眉根を寄せ、不機嫌を隠さずジェイドを睨め付けた。そしてゆるりと机から上体を浮上させて右手で頬杖を突き、人差し指を立ててくるくると数回まわす。“巻きで話せ”という無言の圧を受けてジェイドは楽しげに一つ頷いた。
「つまり僕が申し上げたいのは、熟慮期間を設けていただきたいということです。僕らが本当に番になれるかどうか、互いを試すんです」
「はぁぁ!?番ですって?!!」
「いや、くそうるせー…」
フロイドとジェイドは間髪入れず自身の耳を塞ぐ。海の中で生活する上で音や声は大変重要な情報である故に人間に変身しても人魚の大声量は健在なのだ。他の生徒は誰もいないとはいえ、寮の談話室で思わず大声を出してしまったアズールは慌てて咳払いをして眼鏡のブリッジを押し上げ、悪戯が成功した少年のようなしたり顔をしたジェイドに睨みを効かせた。
話の腰を折ってしまった自覚はある。だが、これ以上幼馴染みの恋バナなど聞くに堪えないというか、よりにもよってこの傍迷惑な快楽主義者共の込み入った事情に触腕を突っ込むのが嫌すぎて、割り当てられている自室どころか故郷の蛸壺に引っ込みたいと思うアズールを一体誰が責められるだろうか、いや責められない。
本格的に頭が痛くなってきて項垂れてしまったアズールをよそにフロイドは暫く思案顔で黙っていたが無情にも話を続ける。
「オレは試すことなんてないんだけど、ジェイドにはあるんだ。…ま、らしいと言えばらしいか」
「……怒ります?」
ここまでずっと機嫌がいいとは言えなかったこともあってジェイドは気遣わしげにきょうだいの表情を窺うが、当のフロイドは凪いだように何の感情も映しておらずその澄んだ瞳からは心中を推し量ることができない。
元々ジェイドはこの提案を突っ撥ねられる可能性も考慮はしていた。これでも相手にとって気分のいい話ではないという自覚はあるのだ。しかし同時に、どうしても譲りたくないことだとも思っているのだが。さて、駄々を捏ねられたらどのように説得しようか。もしくは追撃をせずに時間を置くべきか。ここは譲歩に見せかけてもうひと押しだけしてみて少し様子を見ようかと微かに唇を震わせたとき、予想外にもフロイドは緩々と目を細め口角を上げてみせた。
「んーや?それってすごーく真面目に検討するよってことでしょ?ジェイド、納得しないと岩礁に張りついたフジツボみたいに頑固だし。…んふふ、いいよぉ」
「ああフロイド、寛大なお心に感謝します」
片割れが無下にするつもりではないことが伝わったのか、フロイドは今日はじめてにっこりと笑顔を見せてくれた。その面持ちにジェイドも釣られて破顔する。ひとり取り残された眼鏡の奥の眸子は全然、全く、笑えないのであるが。既に半ば二人の世界に突入しつつある獰猛な双子がこのまま自分のことなどすっかり意識の外に放流してくれることをアズールは心の中で海の魔女に願った。いや、やっぱり願掛けは柄ではない。
ニコニコとジェイドと顔を見合わせていたフロイドだったが、不意に何かに思い当たったように、あっ…と小さく声をあげて笑みを引っ込ませた。
「そんで、具体的にジュクリョキカンってどのくらい?」
「基本的に学生である内はどうしても親の管理と庇護の下に置かれることになりますから、現時点で結論は最低でも卒業後と僕は考えています」
「げえーだっるぅ!あと三年も待つの!?」
フロイドは椅子の背凭れに全力でしな垂れ掛かって天を仰ぎ、鋭い歯列をいーっと剥き出しにして目いっぱいの不満で表情を満たした。あっという間に悪い方へ変わった可愛いきょうだいの顔色も意に介さず、ジェイドは更に追い打ちを掛けるように言葉を続ける。
「双方が合意することが大前提の条件ですので、最低で三年、場合によってはそれ以上という可能性もありますね」
「オレはいつでもいいから実質ジェイドがどうするか決めるまでってことじゃんねー」
大部分の決定権が相手に委ねられているとしか思えない条件だが、これも惚れた弱みってヤツ…?とフロイドは内心で舌打ちする。恋愛も取引も手に入れたいもののある方が不利なのは世の摂理か。とはいえこの勝負、フロイドとて全く勝算がないわけではない。優秀で周到な片割れと幼馴染みほど計算高くはなくても、自分も全部の事柄を気分と直感で決めてはいないのだ。因果を他者に説明するのは億劫なだけで。
しかしそれでも、ふとフロイドに疑問が浮かんだ。ジェイドが結論を大幅に先延ばしにしたがる一番の狙いは何だろう、と。番うなら自分のことは自分が決めることができる要件を整えてからの方がいいというのは理にかなっている。そうは思うが、なにぶん状況が特殊な自覚はある。予想外なことを歓迎するジェイドに限ってあまり可能性としては考えてなかったのだが、普通ならこれは所謂『面倒ごと』と言えるだろう。なにしろ肉親から求愛されているのだから。一度猜疑心が湧くと、それがじわじわと身体の真ん中を重たくしていく心地がして、フロイドの機嫌を今日イチどん底にまで降下させる。
「…まさか時間稼ぐだけ稼いでオレが諦めるか忘れることでも期待して、穏便にこの話流しちゃおーとか考えてたりしないよな?舐めてない?いくらジェイドでも絞めちゃうよ」
ぎゅっと瞳孔を絞って捕食者たる証の鋭利な歯をちらつかせ、もうすっかり意識の彼方に追いやられてしまった課題たちが乗った机の縁にガンッと行儀悪く片足を掛ける。
先程から目まぐるしく機嫌が切り替わっていたが、地の底を這うほど損ねてしまったことを察知して少し意地悪をしすぎたかとジェイドは頭の中で独り言ちた。尚、反省はしていない。
場を持ち直そうとするように咳払いと同時に足を組み替えると、威嚇してくるフロイドを前にして一切怯む様子もなく、いつもの悠然とした微笑でもって相対する。
「嫌ですねぇ。そういった心配を排除するためにアズールに立ち会っていただいているというのに。僕は逃げも誤魔化しも致しませんとも。アズールに誓います。だから拗ねないで、フロイド」
「…ふぅん、な〜んだ。それならオレもアズールにちゃんとイイ子で待ってますって誓おー!アハッ」
「僕は同意してない…!僕は同意してないからな…!」
ほんの少し前の疑念など爆速で波に流したフロイドの機嫌が急激に建て直された代わりに、ここで立会人の伏線を拾われてしまい、こっそり部屋に引っ込む準備をしていたアズールはこの場を無事に去ることに失敗した。このお騒がせコンビのせいで最早勉強会は成り立たず、解散の潮目なのだから素直に開放してほしいというささやかな願いは泡となって消えたらしい。そうこうしている間に談話室の多人数用ソファーとローテーブルにひとり陣取っていたアズールの両隣へ無駄に発育の良い共犯者たちが詰め寄って来て退路を断った。ジェイドが組んだ足をわざと当ててきてイライラが募る。
すっかり調子の良くなったフロイドはアズールの左隣でその腕にじゃれつきながら、目元でにんまりと三日月のような弧を作り、無二の相棒へ目配せをする。その顔を見たアズールの背筋に悪寒が走った。
「はいはーい、ジェイドぉ〜質問!ジュクリョキカン中でもジェイドをおかずにしていいですか〜?」
「あーあー!これ以上聞きたくないです!勝手に話を進めるんじゃない!!」
「認めます。番になる上でそれも要点になるかと思いますので。その他細かいところは都度相談していきましょうね」
「はぁい♡」
「ふざけるな!!!」
殆ど悲鳴のような抗議の声を上げながら、アズールは両耳を塞ぎ顔を真っ青にして世界の全てを拒絶する勢いで頭を抱えた。ひと様を挟んでなんて品のない会話をしてくれる!この憎たらしい双子を今後馬車馬のごとく働かせ、出涸らしになるまでこき使ってやると今、心に決めた。
フロイドはそんな様子を満足げに眺めつつ、逃げられないようにアズールの左腕をギュッと組んで軽く体重を預け、クスクスと笑い声を上げた。ジェイドは愉快そうにしているきょうだいを眩しいものを見るように目を細め、顔を綻ばせる。フロイドが楽しそうでなによりなのだが、これ以上揶揄うとアズールがストレスで大噴火を起こしてしまいそうなので話を本筋に戻す方向へ着手することにした。
「いいじゃありませんか。僕たち今後少なくとも在学中は貴方のお傍で手足として一生懸命に働くのですから。ご期待に沿えるよう最善を尽くします。アズールには“ついでに”僕らの成り行きを見守っていていただきたいだけですよ」
仲人を務めてくれという要求ではなく、あくまでも二人の間で内々に取り交わされた数年越しの約束を反故にしないよう覚えていてくれる第三者になってほしいだけなのだと、手軽で可愛らしいお願いかのようにジェイドは言い放った。だがアズールの立場からしたら、今後繰り広げられるかもしれない双子の幼馴染みたちのきょうだい愛以上の戯れを目撃させられる事態を思うと気が重すぎて堪ったものではない。
「随分簡単に言ってくれますが、僕の精神的苦痛による損害が大きくないか?!」
「え〜けちー!オレも頑張ってアズールの手伝いするからさ。ジェイドがしらばっくれないようにとりあえず卒業までは見張っててよ。ね、おねがい」
フロイドもこてんと首を傾けて彼のことを何も知らなければ濁りのないように見える瞳でアズールを見つめた。二人ともアズールに頷かせるまで何が何でもここから立ち去らせるつもりはないらしい。というよりも、最初に嫌な予感がした時に直ちにここから離脱しなかった時点で詰みだったような気もする。こいつらは常に他人の嫌がる顔を養分にしていないと生きていけないのだろうか。誰だこんな災厄を両腕に選んだのは。自分だった。
「ぐっ……う…。…ハァ…よく考えたら、なんだか今までとあまり変わらないような気がしてきました…業腹ですけど……。……いや、捉えようによっては、寧ろ……」
アズールは急に何かを小声でぶつぶつと呟き、腕を組み直して暫し考えに浸った。
アズールのこういう何事にも自身の利益を見出そうとする強かな姿勢が両脇に侍るウツボはとても気に入っているのだ。彼は自分たちだけでは考えられなかった方向性や観点、価値を示してくれる。一先ず、アズールはこの馬鹿馬鹿しいと一蹴されても文句の言えない(但し言わないとは言っていない)契約に何らかの利用価値を見出そうとしてくれているらしい。いつもながらに頼もしい同盟者だ。
考えを纏めたのか、アズールは漸く口を開いた。
「あなたたちの要求はわかりました。その代わり僕からも二つ条件があります。」
「条件?/じょーけん?」
やはりタダで依頼を受けるつもりはないらしい生粋の商人の言葉に、咬魚は双子らしく息ぴったりのデュエットで応える。きょとんとアズールを軽く覗き込んでくる二人の顔は本当にそっくりだった。
「ええ。ご安心を、条件といっても法外な対価は求めません。ごく当たり前のことを約束していただきたいだけですから」
ああ…なるほど、とジェイドはアズールの提示しようとしている条件の内容におおよその当たりをつけたが、フロイドの方は未だ頭の上に?マークが浮かんでいる。内容を聞かずとも合点がいったらしいきょうだいと幼馴染みの顔を交互に見てから「え、なになに?」とアズールの左腕をきゅっと少しだけ引いて続きを促した。
「一つ、公衆の面前で公序良俗に反する行為は絶対にしないこと。二つ、あなたたちの個人的な事情、特に痴情の争いなどによって所属組織、及びこの僕個人に如何なる被害も及ぼすことを禁じます。これを遵守すると確約できるのでしたら、立会人の件を了承しましょう」
「えっと〜…。例えば、小魚の群れの中でちゅーしちゃだめだし、授業サボってとか〜次の日ダルくなるくらいえっちしちゃだめだよってこと?」
「は?」
アズールの眼鏡がずり落ち、束の間を沈黙が支配した。
急に黙ってわなわなと肩を震わせる取引相手を不思議そうに一瞥してから、次いでフロイドはちょっと困った表情で片割れの方へ視線を投げかける。芳しくなさそうなアズールの反応を見て、どうやら拙いことを言ってしまったらしいと勘付いたようだ。その双方の温度差を間近で浴びせられたジェイドは空気を読んで、奥歯に力を籠め右手を口元に当てて笑いを噛み殺そうとしたのだが、その努力も空しく結局は盛大に噴き出してしまった。
「ぶふっ…!…ふはっ…っあははは!!ちょ、ちょっとフロイドったら…!もうっ、気が早いですよ!僕たちまだ手も繋いでな…くないですね、いっぱい繋いでました。…くっ…ふふ、ふ…っ」
アズールとは違う意味で肩を震わせてこの上なく愉快そうにジェイドは笑い声を上げた。やはり彼はいつだって自分を楽しませてくれる特別な存在だ。フロイドを相棒に選んでからこの方、隣にいて退屈することがない。
腹を抱えて前傾姿勢に笑いの波が引くまで耐えているジェイドの回復を待たず、このくだらない話に一刻も早く終止符を打つべくアズールは今一度交渉のテーブルに着こうと努める。脳の血管がブチ切れそうな憤りを抑えるため何度か深呼吸を繰り返しつつ、震える手で下がった眼鏡の位置を正し、場の仕切り直しを図った。
「…っええ、勿論!!フロイドの仰る通り、それらは当たり前に含まれてますとも!もう帰っていいですか?!お前たちと違って僕は忙しいんだ…!それで、約束できるんでしょうね!?」
アズールはそろそろ暴力に訴えたくなってきている己の怒りをどうにか発散すべく、行儀のいい行為ではないが片足を小刻みに揺らすことでどうにか気を紛らわせ、二人に合意を迫った。
ストレスレベルがいよいよ限界突破を迎え顔を赤くしているアズールを見て、フロイドは入学式の時からお気に入りになった小さくても滅茶苦茶に強い同級生寮長のことを思い出してますます気分が躍った。一方ジェイドは両手で顔を覆って息を整えるために未だ独りで奮闘しているようである。
「あはっ♡アズール茹で蛸みたいに赤くなってんの、おもしれっ。んー、要するに隠れてやるならオッケーってことだよねぇ。オレはいいけど、ジェイドは?」
「んっふふふ…ぁあ、はい。僕も異論ありませんよ。アズールの仰せのままに」
無邪気と悪辣が何故か両立している無作法者と慇懃無礼な不埒者にそれぞれ鋭い視線を寄越した後、アズールは肩を落として脱力する。このきょうだいを一挙に相手取るとあっという間に精神疲労が蓄積していくものだから嫌になってくる。同じ部活に所属する先輩の言葉を借りるのならば「一週間分の気力を使い果たした」だ。こんなところで気力を消費するなど、無駄な出費以外の何ものでもない。
「…ハァ……結構。では僕はこれで失礼します。フロイド、くれぐれも提出課題をお忘れなく。後でチェックするからな」
話が纏まったところでこのストレス源どもから離れるためにテーブルの上に広げていた紙の束を掻き集めトントンと整えつつ、しっかりフロイドに釘を刺した。しかしそんなアズールの牽制などどこ吹く風といった具合にニタ~っと不気味な笑みを湛えながらソファーから立ち上がり、自分が課題を広げていた机に戻って腰を落ち着ける。そしてそのままの笑顔で一言。
「それはお約束し兼ねまぁす♪」
「こらこら、フロイド。この場合、相手に本心を打ち明けてしまうのは効果的ではありませんよ」
「本ッ当にブレないな、お前たちは!」
もう勝手にしろ!と怒鳴りながらアズールは談話室を足早に進み、自室に帰るため廊下へと向かった。談話室からは暫く憎たらしい双子の笑い声が木霊してきていた。
*****