くたびれた様子で学園に帰って来たレオナは動くことさえも億劫そうにラギーの作った食事をもそもそと腹に収め、その後カラスの行水の如きスピードでシャワーを浴び、かろうじて下着だけを穿いた姿でベッドへと勢いよく倒れこんだ。
その衝撃にスプリングがギシギシと悲鳴を上げる。しかしそれ以降ぴくりとも動かないレオナに、ジャックが恐る恐る声をかけようと近づくと、耳が捉えたのは一定のリズムで吐き出される深い呼吸音だった。
ジャックとラギーは顔を見合わせながら二人でベッドに近づき、レオナの顔を覗きこむ。しかしてそこにあったのは、眉間の間に深く刻まれた皺と閉じられた瞼だけだった。
その険しい表情を見つめながら、ラギーがぽつりとこぼす。
「……寝てる」
「……そう、ですね」
それからまた二人で顔を見合わせるが、深い眠りへと落ちているレオナを無理矢理起こすわけにもいかず、詳細はまた明日改めて問いただそうと、ラギーは早々に見切りをつけて部屋から出て行ってしまった。
そして一人残されたジャックは、ベッドの上にぐちゃぐちゃに丸まっていたブランケットを広げ、レオナの剥き出しの背中にかけてやる。
すぅ、すぅと寝息のリズムは乱れることなくジャックの耳を打つ。
二人きりになった室内で、ジャックはレオナに振動を与えないようにゆっくりとベッドに腰かけ、シーツに埋もれた寝顔を眺めた。
学園の平和をいとも簡単に破壊した一連の襲撃。レオナがその襲撃者から攫われた、とラギーから連絡が入った時の衝撃は今でも忘れられない。
レオナならば大丈夫だ、今は自分にできることをしなければ、と冷静な振りをしていたが、いざ学園でレオナの匂いを感じてしまえば足は勝手にその方向に向かって走り出していた。
そしてそれはラギーも一緒だった。任されたからには仕方ないッスねぇ、と面倒くさそうな顔をしながらもあれこれと寮生に指示を出していたラギーだったが、いざ近くにレオナの存在を認識してしまえばその心を偽ることはできなかったのだろう。
だからなんだかんだと言いながらも、こうして帰ってきたレオナの側から離れずにずっとくっついていたのだ。
そして静かに眠るレオナの姿を目にし、ジャックの中にようやく戻ってきたのだと実感がわいてくる。
レオナがいる。レオナが戻ってきた。
「レオナ先輩……」
震える腕を伸ばして頭をくしゃりと撫でると、レオナからは、んっと小さな声が上がった。
その声に深い安心感と今まで必死に目を逸らしていた恐怖心が同時にこみあげてきて、ジャックの目にじわりと涙が滲んだ。
「レオナ、先輩……」
ぽすり、と体をベッドに倒し、正面からレオナの寝顔を見つめる。いつもなら穏やかな寝顔も、今は疲れ切っているせいなのか、なかなか眉間に寄った皺が無くならない。
レオナの寝息に、シャンプーが混じったレオナの匂い。これはジャックが好きな、ジャックだけが知っているレオナの匂いだ。
瞼が重い。ジャックは目の前の寝顔を眺めながら、知らず知らずのうちにゆっくりと夢の世界に落ちていった。
*****
もぞりと何かが動いた気配がして、ジャックは目を覚ます。するとそこには仰向けになった状態で額を押さえていたレオナがいた。
「レオナ先輩っ、どこか具合が悪いんですか!?」
慌てて飛び起き、上からレオナの顔を覗きこむ。するとそこには眠る前と同じく眉間に皺を寄せたままの顔があった。
「チッ、体が重てぇ……」
苦々しい声に注意深く目を凝らすと、室内が暗いこともあるが、いつもよりも幾分か顔色が悪いように見えた。
ジャックは早くなった心臓の鼓動を感じながら、レオナの肩に手をやり、優しく囁く。
「先生を呼んできましょうか?」
昨日からの事もあり、保健室にいけばクルーウェルか保険医か、誰かしらが待機しているはずだ。
ジャックがレオナの返事も待たずにベッドから起き上がろうとすると、寸前で「待て」と辛そうな声が聞こえ動きを止める。
「いい。ここにいろ」
「っ、でも……」
「いい。……ジャック」
「っ……」
そしてもう一度、ジャックと名前を呼ばれ、ジャックは中途半端に浮いた腰を再びベッドへ戻す。
「本当に大丈夫なんですか?」
くたり、と首を傾けながら見上げてくるレオナの顔色はやはり悪い。
ジャックはレオナに手を伸ばし、いつもよりも冷たい頬を包みこみながら指の腹で肌を撫でる。
少しでもレオナの辛さが和らぐように。少しでもレオナに熱を与えるように。
すりすりと遠慮がちに手を動かすジャックに、レオナは穏やかに目を細めながら唇に弧を描いた。
「なァ、ジャック、キスしようぜ?」
「えっ」
そして全く予想もしていなかった言葉に、ジャックは驚きの声を上げる。けれどベッドに横たわるレオナは変わらず笑みを浮かべたままで、ジャックはおろおろと視線を彷徨わせてどうするべきか考えた。
「えっと、その……」
「なんだよ。嫌なのか?」
「そ、そんなことないですよっ」
ゆっくりと持ち上げられたレオナの手がジャックの首に回る。そしてその手はゆっくりとジャックを引き寄せ始めた。
むぐぐとジャックは口を引き結ぶ。嬉しいと思う反面、どうしても心配な気持ちが捨てきれず心がブレーキをかけてしまう。
「ジャック」
「……っ」
そのねだるような甘やかな声に、ジャックはうっと声を詰まらせるが、最後は言われるままにゆっくりと体を倒していった。
首に回った手がジャックのうなじをすりすりと撫でる。ジャックはそれに背中がぶわりと熱くなるのを感じつつ、柔らかなそれに自身のものを重ね合わせた。
ふにっという感触に胸の奥に甘い痺れが生まれる。ちゅっと音を立てて離れ、間近からレオナの顔を見つめれば、レオナはククッと唇に弧を描きながら至近距離で視線を合わせてきた。
「んなガキみたいなもんじゃなくて、もっと大人のキスをしようぜ」
そしてうっすらと開いた唇を真っ赤な舌がぺろりと舐め上る。ジャックはその淫猥さにごくりと喉を鳴らした。
ドッドッと心臓の音が鼓膜まで響いてくる。
ジャックは再び体を倒し、今度は少し開いた唇の隙間に舌を差し込んだ。
触れ合わせるだけとは違う、舌先に感じるぬるりとした感触に、ぞくりと肌が粟立つ。
じゅるりと濡れた音が触れ合わさった唇の隙間から漏れる。絡めるように舌を触れ合わせ、時折尖らせた舌先でぼこぼことした上顎をくすぐる。
「んっ、ふ」
鼓膜を揺らす蜜のように蕩けた声に脳がカッと熱くなる。夢中になってレオナの口内を貪っていると、突然背筋を悪寒のようなものが走り抜けた。
ふるりと体が身震いをし、頭の芯がスゥっと冷たくなる。ジャックは得も言われぬ感覚に、レオナの口から舌を抜き取り、パチパチとまばたきを繰り返す。
頭の中心が少しだけぼんやりとする。いったいどうしたというのか。
原因不明のこの状態に軽く混乱するジャックをよそに、レオナは更にもう片方の手もジャックの首に回し、再び引き寄せた。
「なァ、もう一回」
「レオナせんぱ……んっ」
引き寄せられた勢いのまま、二人の唇が重なり合う。今度はレオナの舌がジャックの口内に差し込まれ、分厚い舌がぬらぬらと口内を自由に動き回る。
するとまたさっきと同じ感覚がジャックの身を襲った。本能的な恐怖からうなじの毛が逆立ち、ジャックは唇を重ねながら、グルルと唸った。
じゅぅ、くちゅ。それでも口内を暴れるレオナの舌は止まることを知らず、ジャックは力が抜けて震える腕をレオナの頭の両側につき体を支えた。
そこでようやくレオナの舌が引き抜かれる。
「は、ぁ……」
「レオ、せんぱ、なに……」
レオナはジャックの頭を抱えるように抱きしめながら、ジャックの濡れた唇に舌を這わせた。
「お前から少し魔力をもらったんだよ」
「まりょく、を……?」
「やってみりゃできるもんだな」
そして、美味かったぜ、とレオナから触れるだけのキスが与えられる。
なるほど、この突然の虚脱感は魔力を吸い取られたせいだったのか。ジャックは腕で体を支えることすらも辛くなり、どさっとレオナの体の上に倒れこむ。
するとその背にレオナの手が回され、ぎゅっと強く抱きしめられた。ジャックはそれに深く息を吐き、更に体から力を抜く。
「おかげで少し楽になった」
ジャックがその言葉に重い顔を上げ、レオナを正面から見つめると、確かに先ほどと比べてその顔色は確実に良くなっていた。
ランと光る深緑の瞳には鋭い力が宿り、口元には笑みが浮かべられていた。
ジャックはくたりとレオナに覆いかぶさったまま、口を開く。
「まだ、いりますか?」
レオナが楽になるならばこのくらいなんてことはない。ジャックはゆっくりとまばたきをしながらレオナからの返事を待った。
レオナは、少しだけ悩むような素振りを見せたが、ふっと目元に柔らかな笑みを浮かべてジャックを抱きしめる腕に力を込めた。
「今日はもういい。また明日な」
「あした」
「あぁ……」
瞼が重くなってきた。ジャックは体をずらしてレオナの隣に横になり、包み込むようにレオナを抱きしめた。それに応えるようにレオナの腕もジャックに伸ばされる。
「またあした、あげますから」
「あぁ」
「はやく、でんきになって、くださいね」
「あぁ」
レオナの髪に顔を埋めた姿勢で、ジャックはスゥと匂いを嗅ぐ。すると胸いっぱいにレオナの香りが広がった。
「おれ、ねむくて。ねてもいいですか……?」
「あぁ。おやすみ、ジャック」
「おやすみなさい、レオナ、せんぱい」
その言葉を最後に、ジャックは閉じようとする瞼に抗うことをやめ、目を閉じた。トン、トン、とまるで子どもをあやすように背中が一定のリズムで叩かれる。
それが気持ちよくて、ジャックはレオナの香りに包まれながら夢の中に落ちていった。