話を聞かせて 目の前に広がる蓮の花の咲く景色を瞳に映し、魏無羨は大きく深呼吸をした。早朝の水辺の空気そのものを吸い込んだような清々しさに、自然と顔が綻んでしまう。朝食を売る屋台の呼び声が聞こえ、波止場の街には既に活気がある。
この世から消えてしまってからの十六年。決して短くない時の流れの間に変わってしまったことも変わっていないこともある。蓮花塢には少しばかり前にも来たけれど、その時はこんな風に優しく吹く風を感じる余裕は無かった。慌ただしく走り抜けるばかりだった景色が、今は目の前に悠然と広がっている。
今になって思えば、魏無羨が帰る場所というのは元々この世には無かったのかもしれない。ここ蓮花塢は幼い頃から育った場所でとても大事でかけがえのない存在であることは今も昔も変わらないけれど、魏無羨が帰る場所では無くなってしまった。それは、江澄に江家を破門される前から頭では理解していたことだったが、こうして訪れてみると改めて実感する。
この俗世をいつまでも漂泊する根無し草というのも悪くない。元からそちらの方が性に合っているのだろうし。
「まぁ、そうは言っても蓮花塢には戻って来たくなっちゃうんだけど」
魏無羨が誰に向けてでもなく、独り言をこぼす。
前回蓮花塢に来たのは乱葬崗から様々な門下の人々と共に避難してきた時だ。あの時は今後の対策を考えないといけなかったし、緊急事態だという認識が江澄にもあっただろう。だからこそ、藍忘機と共に江叔父さん達のいる霊廟で線香を立て拝礼することもできた。けれど今回は一人でふらりとやって来ただけだから、きっと建物の中に入ることだってできやしないに違いない。
藍忘機の白い衣の姿を思い出し、魏無羨は思わず苦笑してしまう。彼とは少し前まで片時も離れずと言っても良いほど共に時を過ごした。姑蘇藍氏の本拠地である雲深不知処は、同じ仙門世家の土地とはいえ蓮花塢とは全く違う環境だ。星の数ほどある家規に縛られ、淡白な味の食べ物しか存在しない、魏無羨にとっては「つまらない」としか感じない姑蘇藍氏の本拠地であるその場所が、この世に戻ってきてから一番長く滞在した馴染みのある場所になっている。そんな魏無羨と程遠いはずの雲深不知処にそろそろ寄ってみようかと考えている自分がいることは不思議な感覚だった。
雲深不知処は出入りをするのも厳しい場所だが、蓮花塢は他の世家と違って仙師以外にも開かれた場所だ。少し遠くから眺めると、かつて江家が存亡の危機を迎えたとは思えぬほどに――まるで、これまでのことが夢だったようにさえ思えるほど、蓮花塢はあの頃のままのような気がしてくる。けれど、この場所に生きる人はみな、あの時から十数年の時を過ごしてきたのだから同じはずはないのだ。何だか取り残されてしまったような気分になりながら、魏無羨は人の往来が見られる場所に陣取って腰を下ろした。活発に行き交う人々を眺めていると、唐突にどこからか声をかけられた。
「こんなところで何してるんだ?」
「へ?」
声の主を探すべく立ち上がると、金凌が背後にやってきていた。
「なんだ、金凌か」
歩いてやってきた金凌は、相変わらず偉そうな態度で両手に腰を当てて威嚇するように魏無羨の前に立ちはだかった。
「なんだじゃない。蓮花塢に何か用か?」
「別に何の用事も無いさ」
実際、魏無羨は蓮花塢に何か用がある訳では無かったのでそう答えたが、金凌は魏無羨を逃さないとばかりに退路を塞ぎ、今度は腕を組んで更なる追求を試みてきた。
「じゃあ、用も無いのにどうしてここにいるんだ?」
「用事がなくたって立ち寄るくらい良いだろ? やっと色々片がついたんだし、少し見て回りたいんだよ」
そう答えながら、魏無羨は目の前に立つ金凌を改めて眺めた。貴公子らしい精悍な顔立ちの少年は以前会った時よりも背が伸びたのか、心なしか一回り大きくなったような気がする。まだまだ育ち盛りの真の若者の姿に少しばかり羨ましさを感じながら、そんな姿を見られただけでも蓮花塢に立ち寄って良かったのかもしれないと思う。
「本当に蓮花塢に特別な用事は無いんだ。そんなに怖い顔で睨むなよ。言われなくてもすぐに立ち去るから安心しろ。じゃあな」
金凌に背を向けて蓮花塢から離れようと歩き出したところで、背後の金凌から声が掛かった。
「おい待てよ。待てって言ってるだろ、魏……叔父さん!」
聞き捨てならない呼び掛けに、魏無羨は思わず足を止めた。
「はぁ? 金凌、お前今なんて言った?」
魏無羨は己の耳がおかしくなったのかと訝しみながら聞き返す。
「だって、母上はあんたの姉なんだろ! それなら俺にとって魏無羨大人は叔父さんってことじゃ……」
「待て待て待て。そもそも俺は〝おじさん〟って呼ばれるほど老けてないんだが」
金凌の言葉を遮りながら、改めて目の前の金凌を見つめた。
魏無羨の記憶にある金凌は小さくて生まれたばかりの姿だったけれど、現在目の前に存在している彼はこんなに大きく成長している。魏無羨もあのまま生きていたのならおじさんと呼ばれても仕方のない年齢になっているはずだし、そもそもこの体も元々は金凌からすると血の繋がった叔父の体ではあったのだが……それでも、だ。
「確かに師姉は俺にとっては家族だけど……金凌良いか、お前の江家の叔父上は江澄だけだ。他にはいない。分かってるだろう?」
半ば頭を抱えつつ、魏無羨が幼い子どもに諭すように優しく言ったものの、金凌は諦めないとばかり次の呼び名を考え出していた。
「それなら……魏師叔ってこと?」
「おっまえ、待て待て。全く、お前は何を言ってるんだ! 俺は江家を破門されてるんだぞ。そんな言い方はぜ~~~ったいにダメだからな」
魏無羨が両手で大きくバツを作って拒否をすると、金凌は見るからにむくれた。このまま話し続けていると、次は何と呼ばれるのか分かったものではない。こうなったらこの場を離れるしかないと再び金凌に背を向けて走り出そうとすると、今度は先ほどよりも大きな声で呼び止められる。
「待ってよ、叔父さん!」
金凌の上げた大きな声に、周囲の人々がざわめき一体何事かと視線を向けてくる。見るからに見目麗しい貴公子が大声を上げ、今にも泣き出しそうな顔をしていたらそりゃあ衆目も集めるに決まっている。しかも、蓮花塢では金凌を見かける機会も多いだろうから、仙門に詳しく無くとも彼が蓮花塢の江家宗主である江澄の甥であり、金家の宗主となって日が浅い宗主その人であることなど一目瞭然だろう。そうなると、それまで気に留めていなかった人々も彼が大声で呼び止めているのが誰なのかというのも自ずと分かってしまう。これでは、魏無羨が蓮花塢に来ていると江澄の耳に入るのも時間の問題に違いない。
「あー、くそ。見せ物じゃないんだ。ほら、さっさと散った散った」
一体何が起きるのだろうと金凌と魏無羨の二人の様子を眺めていた人々に向かって魏無羨がシッシッと手を振って追い払う。一刻も早くここを離れたい気持ちに駆られるが、金凌を置いて逃げたりなんてしたら今度は何という噂が広がるか分からない。魏無羨自身は今更そんなことはどうでも良いが、目の前の金凌は金家の宗主になったばかりで余計な噂など立たないに越したことはない。とはいえ、さっきの人の集まり具合を考えるともう既に手遅れかもしれなかった。
「あのなぁ、金凌。お前は既に金家の宗主なんだぞ? 今度は何だ? 呼び止めたいならせめて「そこの格好良いお兄さん」と呼ぶくらいはしないと」
軽口を叩きながら金凌と向き合うと、先ほどまでの勢いはどこへやら。金凌は何か言いたそうなまま、口をぱくぱくとさせて言い淀んでいた。
「どうした?」
息継ぎができない金魚みたいだ、などとうっかり口から出そうになったが、寸でのところで飲み込んだ。仕方ないので、魏無羨は金凌が何か言わんとしているのを待ってみることにした。しばらくすると、金凌は恐る恐る口を開いた。
「ずっと、あんたに聞いてみたいことがあって……」
「聞きたいこと? 何だ?」
魏無羨が聞き返すと、金凌は意を決したとばかりに手元の剣の柄をギリと音を立てそうなほど力強く握り、睨みつけるように険しい表情で魏無羨を見つめた。
「俺に……母上、と父上の話をしてくれ!」
決闘でも申し込まれるかと思われた勢いで言われた金凌の思わぬ要請に、魏無羨は思わず後退りした。
「はぁ? どうして俺に聞くんだ。そんなの、お前の叔父上から聞いてるだろ」
魏無羨が言えば、殴り掛かってくるのではないかと感じるほどの金凌の気迫は瞬時に消え失せてしまった。
「叔父上は……あんまり昔のことは話してくれないから」
あまりの変貌に魏無羨は様子を伺うように一歩金凌へと距離を詰め、そっと小声で聞いてみる。
「江澄が、話してくれない?」
「……うん」
力無く項垂れるように答えた金凌に、魏無羨は言葉を失っていた。よりによって魏無羨相手に両親の話を乞わなければならない金凌の気持ちなど魏無羨には計り知れない。生前の二人をよく知る人は魏無羨以外にもいるはずだ。けれど、母方の江家の肉親は江澄だけ、父方の金家の方も残された叔父を失ったばかりだ。
魏無羨は溜息を吐いて、降参とばかりに頷いた。
「分かった。師姉……お前の母さんの話なら」
「じゃあ父上は?」
金凌に間髪入れずに聞かれて、魏無羨の口はさらに重くなった。
「父上の……お前の父さんの話はそうだな、あいつとは昔っから良く喧嘩してたことくらいしか話せることはないかもな」
「へぇ、そんなに父さんと喧嘩してたの?」
「顔を合わせる度とまでは言わないけど、まぁ、そんな感じだな」
「どうして喧嘩してたの?」
「師姉のことを泣かせたりして……ってこれはお前に話すことじゃないな」
魏無羨は困ったように頭をかいて、金凌に話せそうな金子軒のことを思い出そうとする。すぐに思い出せる最後に見た彼の姿のことは忘れようとしても忘れられない。恐らく、己が一度この世から消えてしまった今となっても未来永劫忘れることは無い。けれど、それ以前の彼のことを誰かに聞かせるつもりで思い返したことなど今まで無かったから、何を話せば良いのか悩んでしまう。
「俺に若いうちに喧嘩しろって言ったのはあんたじゃないか。いいよ、父上と喧嘩した話とか聞きたい」
「それはそうだけど、お前の父さんときたら……って、そうだな。ひとまずは場所を変えよう」
蓮花塢の人通りの多い波止場から離れながら、水辺を二人で歩く。日差しが高くなりつつあるのを確認して日陰に入ると、魏無羨は木陰に腰を下ろした。後ろを付いてきた金凌も一瞬悩んだように見えたが、少し距離を取って魏無羨と同じように木陰に腰を下ろした。
「で、父上のさっきの話の続きは?」
小さな子どもから物語を聞かせてくれと駄々を捏ねられているというよりも、脅迫されているような気持ちになるのは、魏無羨の負い目もあるのかもしれない。ただ、今になってこの世に帰ってきた魏無羨にとって、成長した彼と二人で話をできる機会があるというのは伝える義務があるからなのかもしれないと思うと話を続けるしかない。
「何と言えば良いか……そうだな、お前の父さんが素直じゃなかったから大変だったって話だ。師姉を酷く傷付けて泣かせたこともあったし。だから喧嘩した、というよりもあれは俺が我慢できなくて手を出したって言った方が正しいのか。でもまぁ、そういうことが何回もあったけどあいつは……、あいついつからか師姉……お前の母さんのことを大切にしていたみたいだ」
思い返すと魏無羨の天敵とも言える彼だったが、公衆の面前で江厭離に向かって愛の告白をしたも同然のことをした時は本当に驚いた。一度は破談した婚約が復活することになったのは、彼が素直になったからと言えるのかもしれない。
「だから、お前もちゃんと自分に素直になっておいた方がいいぞ」
「……っ、うるさいな。俺が素直じゃないみたいな言い方してるけど、そんなことはあんたに言われたくない」
「はははっ、まぁそれもそうだな」
頬杖をついた魏無羨が自嘲するように笑う。当時は皆それぞれに追い詰められていたから、なんてことは言い訳にならないだろう。そして素直に思いを伝えたところで良い結果になるとは限らない。それでも、未来のある少年達には自分達と同じような轍を踏まないで欲しいと願ってしまう。世界一幸せになって欲しかった人の未来を奪ってしまった身で願うのは自分勝手なのは百も承知だし、きっと年長者の勝手な思いには違いない。
「金凌、お前の母上は本当に素晴らしい人だった。世界で一番幸せになって欲しいと思ってた」
金家に嫁ぐ肝心な時に魏無羨はもう既に側に居られなかったけれど、それでも江家で家族として過ごした大切な宝物のような記憶は存在している。江厭離との思い出なら、金子軒についてよりは話してやれることが多いはずだ。
師姉の作った骨付き肉と蓮根の汁物の美味しさとか、優しくて実のところ芯の強い美しい女性だった彼女が江家でどんな風に過ごしていたか、時には共に修練した話を金凌に聞かせた。江家の話をしながらも江澄のことは極力触れずにいると、金凌がふと口を挟んだ。
「ねぇ、叔父上は小さい頃どんな感じだった? 叔父上のことも知りたい」
「そんなの本人に聞けばいいだろ」
「叔父上は子どもの頃の話なんて全然してくれない」
「そうなのか?」
金凌がむくれるように言うのを見ると、どうやら江澄に聞いたことはあるのだろう。どうせそんなことを聞く暇があるのなら真面目に修練をしたらどうだみたいなことを言いながら、何かとつけて話をはぐらかしたに違いない。江澄のそんな様が目に浮かぶようだ。
「まぁ、江澄は自分の子どもの頃の恥ずかしい話なんて絶対にしないだろうしな」
「そういうあんたの恥ずかしい話とか無いのか? 犬の話とか」
犬という単語に魏無羨の心は瞬時に恐怖で飛び跳ねそうになった。
「金凌、犬の話はやめろ。そんなことを言うならここまでだ」
終わり終わり、と言いながら魏無羨は瞬時に立ち上がり、じゃあなと金凌に背を向けて歩き出す。
「待ってよ! 悪かったって」
金凌も立ち上がり、魏無羨の後ろを追いかける。追い付いた金凌が魏無羨の顔を覗き込むように話し続ける。
「じゃあさ、そのうち蓮花塢で一緒に食事しながらもっと話を聞かせてよ」
「そんなの、江澄に追い出されるに決まってるだろ。俺は嫌だね」
「そんなことしないよ。きっと叔父上は追い出さない」
「そうかぁ?」
金凌は妙に確信のある言い方をするが、魏無羨はそうは思わなかった。
きっと江澄と魏無羨の道はこれからも交わらない。十六年以上前に分たれた道は、今だって一時的に距離が縮まっただけで、相変わらず交わることは無いに違いない。少なくとも、魏無羨はそう感じている。
「どうしてあいつが追い出さないって言えるんだ?」
「だって、俺が連れて行ったら叔父上は絶対に追い出さない」
金凌は一字一句はっきりと言い切った。その力強さに江澄のこれまでの教育を思わずにはいられなかった。
「全く、江宗主の甥殿は大した自信家に育ったらしい」
そして一度決めたら曲げない強さがある。どこか江厭離の姿を見たような気もして、魏無羨は眩しいものを見るように思わず目を細めた。衣に刺繍された金氏の牡丹の紋が光り輝くように見えて、そのうち父親にも段々と似てくるのだろうかなんてことを思う。
今となっては金子軒のことをもっと良く知っておけば良かったと思う。金凌の前に立つ度に、こんな風に後悔の念をいつまでも感じ続けるのかもしれない。けれどそれも魏無羨がこの世界に戻って、もう一度足を付けて生きているからこそ感じることができることだ。だからどんな理由であれ、呼び戻してくれた人物には感謝をしなければとは思う。
「しかし、金凌は師姉に似て芯が強いのに泣き虫なのは父親譲りなのか?」
思わずボソッと口にしてしまったが、また余計なことを言ってしまったと直ぐに口を噤む。慌てて横にいる金凌を見れば、不審げな視線をぶつけられた。
「何か言ったか?」
「いや、何も?」
しらばっくれるのに慣れてはいけないとは思うが、聞こえていなくて助かった。
「何なんだよ、気になるだろ〝叔父さん〟ってば」
「だから叔父さんって言うのをやめろ。みんなと同じように魏先輩って呼べば良いだろ?」
再び今日会ったばかりの時の話題に戻ってしまい、魏無羨は頭を抱えながら歩いていたのだが、ふと並んで歩いていたはずの金凌が横にいなくなっていることに気が付いた。魏無羨が立ち止まって後ろを振り向くと、金凌が俯きながら歩みを止めていた。
「金凌、どうした?」
魏無羨の呼びかけに、金凌が顔を上げた。まるで小さな子どもが置いていかれてしまったと、泣き出す前のような表情に見えた。
「だって、あんたは俺の……」
「俺の……何だ?」
魏無羨が首を傾げながら促し、続けて出てきた金凌の発言には、今日話しかけられた時以上の衝撃があった。
「あんたは俺の……俺にとって、もう三人だけの家族なんだ」
金凌の言葉に、魏無羨は頭を殴られたような気分になった。
(私たち家族三人、ずっと一緒よ)
涙を流しながら言っていた江厭離の声が蘇る。つい先ほど思い出そうとしていた彼女との記憶は、江家の江叔父さんも虞夫人もこの蓮花塢に居た頃のことばかりで、江澄と三人で温家から逃れていた頃のことは敢えて考えようとしていなかった。
魏無羨だって残された三人で支え合って生きていきたかった。けれど、それは叶わぬ願いになってしまったから。
あまりのことに魏無羨が驚いていると、視界が急激に歪んだ。
「おい、泣くなよ」
金凌が慌てるのを感じて、魏無羨は思わず溢れてしまった涙を袖で拭う。
「……泣かせたのは誰だよ」
「誰って、俺のせいなのか?」
「もちろん、そうだろ」
一度切れてしまったら繋がらない縁が溢れるこの世で、こんなこともあるのかと思わず天を仰いでしまうと瞳に溜まった涙は零れるように頬を伝って落ちていった。これでは金凌のことを泣き虫とは二度と言えない。
「ありがとうな。お前は良い子に育ったんだなぁ」
「……っ、もう子ども扱いやめろよ!」
魏無羨がしみじみと言うと、金凌は顔を上気させながら怒っていた。どうやらこれは照れているせいもありそうだ。
鼻息荒く答える金凌に、魏無羨は少し意地悪く一度伝えた言葉を思い起こさせるように問いかける。
「金凌、お礼を言われた時はどうするんだった?」
「わかってる……どういたしまして! ったく、だからって泣くことないだろ。仕方のない〝叔父さん〟だな」
反撃とばかりに再び叔父さんを強調して言われて、魏無羨は傷付いたとばかり冗談でよろめいてみせたが、涙は出るのに嬉しくて笑ってしまっていた。
「酷いなぁ。でもまぁ、もうわかったから……お前の好きに呼んでくれ。ただし、江澄の前では絶対に言うなよ。お前だって江澄に怒られたくはないだろ? 江澄のことだから、絶対に雷みたいに怒り狂うに決まってる」
「それは……、そうかもしれない」
「だろ?」
江澄の怒る様を想像して、二人で顔を見合わせて笑い合ってしまう。
今も江澄と金凌と三人で食卓を囲んで食事をするなどということはまだ考えられそうにないけれど、この甥がいるのならそんな未来だってあり得るのかもしれない。
そんな思いを胸に蓮花塢を離れた魏無羨は、ロバのりんごちゃんと共に、今生こそもう一度誠実に向き合いたいと思った人の姿を思い浮かべ、今度は雲深不知処のある方角へと歩き出したのだった。