『背の高い男性は頭を撫でれば落ちる!』
主(乱数)のいない派手な事務所でキッチンを借り、珈琲を淹れながら左馬刻は、ふと、昨日妹が読んでいた雑誌に踊るフレーズを思い出した。
くだらねーと思いつつその言葉を覚えていたのは、それを見た時、人生で初めて出会った自分より背の高い男の顔が浮かんだからだ。そして今、目の前にその男がいる。
ソファーで長い足を持て余すように組んで、何やら難しそうな本を読んでいるその男とは、神宮寺寂雷。ひとつ結びにされた菫色の髪の毛が、背もたれに垂れて僅かに揺れている。
別に『落とす』気は無いが、穏やかな物腰ながら常に隙のないこの人の頭を撫でてやればどんなリアクションをするのだろうかと、昨日感じた子供のような好奇心がむずむず疼く。本に集中している今がチャンスだと、左馬刻は慣れない忍び足で後ろから近寄った。一房だけ跳ねた髪を避け、その頭頂部に手を翳した、その時。
「……!」
菫色の稲妻が横に走り、寂雷が音も立てずに振り返った。左馬刻の手首を掴んだ力は強く、細い指のどこにそんな力が秘められていたのかと驚くほどだ。氷のように冷たい光を宿した瞳と目が合い、悪戯心がきゅうっと萎む。
「……おや、左馬刻くんか。どうかしましたか?」
パッと手を離し、いつもの微笑みを浮かべた顔には、先ほどまでの冷たさは微塵も感じられない。そのギャップにも背筋が震え、左馬刻は適当な誤魔化しを口にするのが精一杯だった。
「いや……珈琲、センセーも飲むか?」
「いいのかい? 左馬刻くんの珈琲は美味しいから、嬉しいな」
おー、と答えた左馬刻はキッチンに戻り、乱数のものにしては意外とシンプルなマグカップを二つ取り出す。その手が震えていることを悟られないよう、ゆっくりと珈琲を注いだ。
(センセー、あんな表情(かお)すんのか……面白え……!)
痛いほど心臓が高鳴り、全身が興奮に沸き立つ。あの男を手に入れたいと、本能が訴えている。
自慢の珈琲を両手に携えた左馬刻は、まずは胃袋を掴む作戦からだと、小さく舌なめずりをしてソファーに向かう。
――恋という名の底なし沼に落ちたことには、まだ気づいていなかった。