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    寿春(14)

    @toshi_harun

    エアスケブはやりません。
    描くかどうかはわからないけど、
    何かリクエストある場合はコチラからどうぞ
    (リクエスト以外にも何かアレばどうぞ)
    https://privatter.net/m/toshi_harun

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    寿春(14)

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    9/23 追加
    どんだけかかってるんだ

    特殊設定なので他作品や設定を見ればわかるかもしれぬ
    https://privatter.net/p/8539035

    ##EVA

    バレンタイン(兄弟パロ)出来あがったらべったーに置きなおします。
    今のところは庵5:貞2:新3ぐらいの割合(適当)
    追記したり修正したりが頻繁にあってやばいので、正直出来上がるまで読まないほうが良いんですけど、私の尻叩きのために人が見れるところでこっそりあげさせてほしい候…


    ++++++++++



    1/23(土)
    【Shin K side】


    「聞きたいことがあるんだ」

     突然、神妙な面持ちでピアノがある防音室にカヲルが入ってきた。それに気が付いたシンちゃんは嬉しそうに彼に向かって小さく手を振っている。
     今日はシンちゃんがピアノを教わりに来る日だった。
     いつもは遠慮をしているのか、レッスン中にカヲルとナギサが、この部屋に立ち入る事は殆どないのだが……。
     何かあったのだろうかと立ち上がると、カヲルに片手を上げて制され「渚兄さんにではなくシンちゃんに用があってきた」ときっぱりと言われてしまい、思わず苦笑してしまった。

    「二人のジャマをして申し訳ないけれど、どうしても聞きたいことがあって。少しシンちゃんを借りてもいいかな? 兄さん」
    「ああ、僕は構わないよ」

     そう応えながら、シンちゃんに目線をやる。彼は椅子から降りようとしていたのだが、一人では上手く椅子を動かすことが出来ず、降りるのに苦戦しているようだった。そんな彼を見兼ねて抱え上げると、頬を紅潮させ、小さな手で僕の服をきゅっと握りしめてくる。
     このピアノを弾く時に使うシンちゃんの椅子は、ピアノ用の椅子ではない、普通の椅子だった。サイドには肘置きがついているために、身体の向きだけを変えて降りることも出来ない。そもそも普通は、足の届かない幼児用の踏み台を用意してあげるべきなんだろう。けれど、半年以上経ってもどちらも用意してあげられていない。祖父に言えば、家の備品ぐらいいくらでも用意して貰えるとは思うが、とある理由からそれをしないままでいた。
     ……というか、僕の身勝手な我儘に彼を付き合わせてしまっている。
     僕はシンちゃんを抱っこしたかったのだ。

     ………………。
     ……その、決して、やましい気持ちからではない事だけは、先に言っておきたい。
     ピアノを初めて教えた日に、今と同じような状況で彼を抱き上げたことがある。
     小さい子を抱っこするのが初めてだった僕は、恐る恐るシンちゃんを抱き上げていた。思ってる以上に、軽くて小さくて柔らかいので、少しでも力を込めると壊れてしまうんじゃないかと思ったぐらいだ。
     幼児とは、こんなにか弱い生き物なのか。カヲルやナギサは、もう少ししっかりしていた気がする。手を繋いで歩いたことしかないが、シンちゃんとは比べ物にならないぐらい、力もそれなりにある(特にナギサは落ち着きがないから、手を引っ張られてあちこち振り回された事もしばしばある)。小さい子にとって、一歳の差は大きいものなのだなと、そこで実感した。
     ほんの数秒の間だったが、誤って落としてしまうなんてことがないように細心の注意を払う。持ち上げた腕は、緊張で強張っていたかもしれない。まさに、おっかなびっくりなんて表現がぴったりだったと思う。
     シンちゃんはというと、僕に持ち上げられた途端に驚いたような顔を僕に向け、ふっくらと丸みを帯びた血色の良い頬を、更に紅色に染めていた。小さく柔らかい手は僕の服をギュッと握り、恥ずかしそうに縮こまっては、隠れるように僕の肩に顔を埋める。
     その時にふと鼻をくすぐった、柔らかで微かに甘い香りに、僕は、彼がいかにして周りから愛情を注がれて育ったのかを一瞬で察した。この時は、まだお会いしたことはなかったのだけれど、彼の母親の匂いが移っているのだと思ったのだ。きっとたくさん抱きしめて、抱きしめられて、めいっぱい家族に甘えながら孤独なんて感じることもなく、今まで生きてきたんだと。
     それが僕にはなぜか酷く嬉しくて、か弱いと不安を感じたはずの彼に対して、一瞬で掌を返したように安堵したのだった。この感情を幸せと呼んでも過言ではなかった。 
     実は最近、シンちゃんが抱っこを嫌がっていると碇君から聞いていた。反応を見るに、きっと恥ずかしいから嫌なのだろう。欲を出すと良い結果にはならないと僕の本能が言っている。でも、嫌がっているだろう彼に申し訳ないと思いながらも、この多幸感を味わう数少ない機会を逃したくはなくてやめられずにいた。
     僕は多分、この感情に酷く飢えていたのだ。

    「ごめんね」

     毎回下ろしたあとに言うこの言葉は、形だけの謝罪のようなものになっている。申し訳ないと本気で思ってはいるが、やめようとも思っていない。しかも、本人が毎回力強く、目が回ってしまうのではないかと心配になるほど、ぶんぶんと首を横に振って許してくれるのだから、僕はつい調子に乗ってしまう。
     真っ赤なままの耳が愛らしくて、そのまま彼の頭を撫でていると、カヲルが呆れたように「顔がだらしない」と言い、白けた顔で、じっとこちらを見ていた。そんなにだらしなかっただろうか……と顔に手を当てて確かめようとしてみたら、大きくため息まで吐く始末だった。
     名残惜しさを感じつつ、シンちゃんの頭から手を離して、行っておいでと言うと、こくりと頷いて、カヲルと一緒に防音室から出ていく。
     相も変わらず、あの二人は仲が良い。僕に話を聞かれたくなかったのか、わざわざ部屋の外に行ってしまったのは少し寂しかったが、誰にでも秘密にしたいことの一つや二つはあるだろうから、無理に彼らの輪に入ることも出来ない。引き合わせた当初は、ここまで彼らが仲良くなってくれるとは思わなかった。最初は小さい弟がいて、自身も双子だという碇君に、彼らとどう接すれば良いのかアドバイスでも聞こうかと軽く考えていただけだったのだが、結果的にカヲルとナギサを、碇君たちに紹介したのは正解だったようだ。

     一人になってしまった防音室は、空調の音以外何も聞こえない。この部屋のドアのすぐ前で、二人が話をしているのがドアの窓越しに見えるが、よほどの大声でも出さない限りは、彼らの話の内容もこちらに届くことはないだろう。
     音が届かない室内に一人、という状況に、なんとなく寂しさを感じてしまった。いつもはそんな感情を抱くことなどないし、外界からシャットアウトされるこの空間は、嫌いではなかったので首を傾げる。
     まあいいかと深く考えることはせず椅子に座り、先程までシンちゃんが練習していた教本を眺めた。この教本は、碇君が家にあったからとシンちゃんに持たせたものらしい。まだ小さいから、僕と同じような難解な曲は弾けないだろうし、僕の家にある楽譜は初心者には向いていないものばかりだったのでありがたい。
     以前、何故この本を持っているのかと尋ねたら、碇君たちの父上がピアノを嗜んでいるという話をしてくれた。そして過去に父親にピアノを習おうとしたけれど、諸事情で挫折してしまったのだと言っていた。これはその時に買ったが、ほぼ使われることのなかった幼児用の教本らしい。
     シンちゃんも碇君たちと同じように、父親に教えて貰おうとしてすぐにやめてしまったらしいのだが、僕がピアノを弾けると知って再び意欲が沸いたのか、教えてほしいとシンちゃん本人から頼まれた。自分の好きなものに興味を持ってくれるのは、とても嬉しいし、一生懸命に小さい手で鍵盤を叩く姿は、見ていて微笑ましい。あまり幼い子の面倒を見ることは得意ではなかったが、彼には懐かれているからなのか、全く苦ではなかった。
     すうと息を吸って、ピアノの鍵盤に手を置く。先程までシンちゃんが練習をしていた、初心者用に編曲された有名な童謡の楽譜を、ざっと最後まで目を通す。並ぶ音符からコードを拾い、軽く鍵盤を叩きはじめる。本当はもっとテンポが遅い曲だが、多少アレンジを加えながらも、軽快に伴奏部分を即興で弾く。小さい頃に指導してくれていた、堅物の師が聴いたら、おそらく呆れてしまうほどに身勝手な音だったが、自分はこうして気ままに、自分にとって気持ちのいい音を出すのが好きだった。
     ああでも、シンちゃんがこの曲を弾けるようになったら、もう少し今のアレンジを抑えて、一緒に演奏するのも楽しいかもしれない。目を閉じて彼と並び、一つのピアノを弾いているような想像を巡らせる。なんだかまたとても穏やかで幸せな気持ちになった。
     僕は今まで誰とも連弾なんてしたことはないのに、不思議なことにその空想は何の違和感もなかった。さらにいうと、今の季節は冬で、ここは密閉されていて空調のやわい風しか吹いていないというのに、スッと爽やかな春の風が、顔の横を吹き抜けるような感覚さえした。

    (楽しい)

     そう感じた瞬間、ふと隣りで鍵盤をたどたどしく叩いていた想像の中にいたシンちゃんの手が、僕のよく知っているあの小さくまあるい幼子の手ではなくなっていて、僕の手とあまり大きさが変わらない少年の手になっていた。
     そこでハッとして目を開ける。
     自分の手もそれと同時に止めたので、ピアノの音もぴたりと止んだ。徐に左側を振り返るも誰もおらず、側面の白い壁しかそこにはなかった。
     当たり前だ。大体、先程までいたシンちゃんは僕の右側に座っていたのだから、そこにはなにもない。ある筈がない。
     眉間に皺を寄せ怪訝に思いつつも、ふと視線を感じて反対の右側を見てみると、ドアの側で目を輝かせて、こちらを見ていたシンちゃんと目があった。いつの間にか、カヲルとの話を終えて戻ってきていたらしい。

    「すごい!」

     小さい手でぱちぱちと称賛の拍手をする彼に、気恥ずかしくなって少し首を傾げて笑う。興奮しているのか、頬を赤らめて、ピアノの椅子によじよじと登って座り、楽しそうに僕の目を見つめた。

    「さっきのってこのおうたでしょ?」

     シンちゃんが教本を指差して言う。

    「……、……よくわかったね? メロディもなかったし、楽譜通りには全然弾いていなかったのに」

     まさか気付くと思わなかったので、驚いて反応が少し遅れてしまった。それぐらい、好き勝手に弾いていた自覚もあった。元々の音楽のセンスが良いのだろうが、それ以上に彼と僕の波長やセンスも合うのかもしれない。

    「ぼくもはやく上手になりたいな」
    「なれるさ、シンジ君は筋がいいから」

     その僕の言葉を聞いて、ぱぁと嬉しそうな顔をしたのは一瞬のことで、シンちゃんは何かに気がついたように目をパチリと瞬いたあと、不思議な顔をしてこちらを見る。そして、小さく「しんじくん?」と独り言のように呟いた。
     そういえば先程、ついいつもとは違う呼び方をしてしまったような気がする。はてと口元に手をあてた。出会ってから一度も彼をそう呼んだことはなかったのだが、言われなければ自分では気が付かなかっただろう。そのぐらいに、自然にそう言ってしまっていた。

    「……あとはいつも通り反復練習だよ、シンちゃん」

     「シンジ君」という呼び方をしたことは無意識だったので、何事もなかったかのように呼び方を戻すと、彼は少し俯いて、うんと大きく頷く。俯いた顔は寂しそうにも感じたが、こちらを向いた時には、既に笑顔で嬉しそうに「がんばる」と言ってはピアノの練習を再開していた。
     呼び方のブレなら、大して珍しくもないだろう。僕自身も、特に気にすることはそれから一度もなかった。





     時計を確認すると、そろそろシンちゃんのお迎えが来る時間だった。

    「そろそろ終わりにしようか」

     そう言いながら立ち上がる。流石に一日に何度も嫌がっているだろう抱っこに付き合わせるわけにはいかないと思って、今度は一人でも降りやすいようにシンちゃんの椅子を引いてあげる。シンちゃんが帰る準備をしている間に、片付けをしようと教本を座っていた椅子に置いてピアノの譜面台をしまい、屋根を下ろしていると、椅子から降りたシンちゃんが、そわそわした様子でこちらを見ていた。

    「どうしたんだい?」
    「あのね、」
    「うん?」

     服の裾をつかみ、今度はもじもじと手を動かしている。シンちゃんの目の前に行き、しゃがんで目線を合わせると、僕を遠慮がちに見つめ、口を開いた。

    「あまいの、すき?」
    「甘い……? お菓子かい?」
    「うん、すき?」
    「そうだな……。嫌いではない、かな? 今のところは食べ物に好き嫌いを感じた事は特にないんだ」
    「渚おにいちゃんはきらいなものないの?」
    「うん、ないと思うよ」
    「すごい! ぼくはね、ピーマン食べられない……」
    「ピーマンは苦いからね。小さいうちは味覚が発達しているからしょうがないよ。そのうち食べられるようになるさ」

     いつものように僕が頭を撫でると、嬉しそうに目を細めていたが、すぐにハッとした顔になった。大きくかぶりを振り、真剣な表情で僕に向き直る。

    「じゃ、じゃあ! チョコレートもへいき?」
    「食べられるよ。ミルクチョコレートよりはビターを食べる事の方が多いけどね」
    「びたー……」
    「普通のやつより少し苦いチョコのことだよ」
    「にがいほうがいいの?」
    「そうだね、チョコは甘さがひかえめな方が好きかな」
    「びたー……、わかった!」

     シンちゃんは「びたー」と確認するように呟くと、晴れ渡るような清々しい笑顔になった。くるりと踵を返して、椅子に置いてあった教本を手に取り、ショルダーバックに入れる。
     何だったのだろうかと首を傾げる僕をよそに、シンちゃんは機嫌よく、帰り支度を始めたのだった。







    1/23(土)
    【An K side】


     二月と言えば旧正月や節分、あとは立春などがあるだろうか。
     しかし、今、僕が一番注目すべきは十四日の聖バレンタインデー、恋人たちが愛を祝う日だ。
     去年まではバレンタインデーなんてイベントはどうでも良く、僕にとってはただの日常で、ちょっと周りがうるさくなる日にすぎなかった。
     ああ、そういえば両親も世間の例に漏れず、毎年律儀に父が母に花束を贈っていたかな。日本とドイツでは、やることが違うらしい。両親とは違い、子供の僕たちは生まれも育ちも日本なので、日本のバレンタインしか経験したことがない。
     しかしながら、僕は周りから敬遠されていたし、僕自身も極力他人とは関わってこなかったので、例え貰ったとしても弟づてに、二人で食べてねと言われて貰うものばかりだった。いわゆる義理チョコというもので、僕は直接受け取ったことはないし、くれた相手のことなんて何も覚えていない。
     ただ、興味もなかった僕とは違い、カヲルはたくさんお菓子が貰える日だと毎年喜んではいた。中には物好きもいるもので、カヲルに好きと言いながらチョコを渡している女の子も見たことがある。カヲルはそのことには全く興味を示さずお菓子ばかりだったが。
     ちなみに、ホワイトデーのお返しは、母が気を利かせて用意してくれたものを、カヲルが不満そうに返していた。食べたかったらしい。

     さて、そういう事で今までは全く気にしていなかった日だけれど、今年は違う。何故なら、今年はシンジ君がいるからだ。今までシンジ君がどのようにバレンタインを過ごしていたのか気になるし、僕はシンジ君からのチョコレートが確実に欲しかった。
     なので、いつも通りにシンちゃんから情報を聞き出すことにしたのだ。
     思い立ったが吉日、今日はシンちゃんが渚兄さんにピアノを教わる日だったので、ちょうどいい。本当は少しでも二人きりの時間を邪魔してしまうことに罪悪感はあったが、シンジ君に知られずに情報収集を済ませるにはこの日が最適だった。

    「どうしたの、カヲくん」
    「少しききたいことがあってね」
    「? お兄ちゃんのこと?」

     シンちゃんはすぐに察しがついたようで、そう言った。シンちゃんはカヲルと違って話が早くて助かる。まあ大体僕らの話題は、今のところシンジ君か渚兄さんの事だから、というのもあるのかもしれないが。

    「もうすぐバレンタインだろう?」
    「チョコもらえる日!」
    「そう。シンジ君はいつもどうしているのかなって」
    「どう……?」

     僕の言葉にこてんと首を傾ける。言葉が足りていなかっただろうか、と続けて「今までに何かをもらった事とかあるのかな?」ともう一度たずねた。「ああ」とシンちゃんは合点が言ったように頷く。

    「いつもおかあさんがぼくたちにチョコをくれるよ」
    「なるほど……」

     シンジ君たちはお母様からいつも貰っているのか。それならば警戒するまでもない。親から貰うのは一般的にもよくあるらしいから。
     顎に手をあてて今後の計画を考えていると、シンちゃんは「あっ」と思い出したように声をあげた。

    「あのね、お兄ちゃんは前にアスカおねえちゃんにおねがいされて作ってた。またアスカおねえちゃんとこうかんこするのかな?」
    「アスカ……? 誰だい、それは」

     シンちゃんの言葉に、一気に穏やかじゃなくなった僕の心を隠すように、微笑みながら平静を装って問う。そのおかげか、彼は僕の様子を特に気にすることもなく説明してくれた。
     どうやらシンちゃんが言うには、アスカという人物は、シンジ君たちと同じマンションに住む、同じ歳の幼馴染みの女子の事らしい。そういえば前にシンジ君から、そんな人物がいるという話を聞いたことがあった。同じマンションに住む幼馴染みという割に、自分が今までに遭遇したこともなかったので、そんなに頻繁に会うような仲ではないのだと、勝手に考えていた。

    「カヲくん?」
    「ああ、いや……」

     同じ年齢ということは、学校では頻繁に会っているのかもしれない。何故、その事を考えていなかったのだろう。
     いつの間にか眉間にシワが寄っていたようだ。黙りこんで難しい顔をした僕を、シンちゃんが不安そうに見つめていた。慌てて笑って誤魔化す。

    「教えてくれてありがとう」
    「う、うん……」

     シンちゃんは戸惑うそぶりを見せて頷いた。少し恐がらせてしまっただろうか。
     カヲルにも、最近よく恐いと言われるし、感情が表情に出てしまうことが多くなった気がする。これは僕の問題だし、どうするかは後で考えよう。
     それにシンジ君が、そのアスカとか言う女子にバレンタインの贈り物をあげたとて、しんちゃんが言うように『おねがい』をされてようやくあげただけで、シンジ君がその女子を特別に想っているとも限らないのだし。
     アスカというシンジ君の幼馴染みの事を考えていると、あまり気分は良くないから、話を少し変えることにする。

    「……そういえば、シンちゃんは、渚兄さんに何もしないのかい?」
    「え? なんで?」

     シンちゃんは心底不思議そうな顔をした。
     ……おや?

    「……バレンタインだよ?」
    「……? お母さんからチョコもらえる日でしょ?」
    「ああ、ちゃんとは知らないんだね」

     どうやらシンちゃんは、バレンタインが本来恋人たちの日だとは知らないようだ。僕らぐらいの年齢ならば、男の子はとくに知らなくてもおかしくはないだろうが、シンちゃんが知っていなくては、渚兄さんをシンジ君から引き離す計画もままならない。

    「日本ではね、大好きな人やお世話になっている人にチョコレートをあげる日なんだよ」
    「そうなの!?」

     ぽかんとした顔のシンちゃんに、わかりやすく説明をしてあげると、彼は目を見開いて驚いていた。

    「だいすきな人…」

     何かを考えるように、僕から視線を外しぽつりと呟く。
     二人きりの時間だというのに、今日のように突然僕が割って入っても、特に不満に思うこともなく、笑顔で僕の用に付き合ってくれている。そんなシンちゃんを見ていると、彼の兄さんへの想いはもしかしたら恋愛ではなく、ただの憧れなのかもしれない、と思うことも何度もあった。例えそうだとしても、小さい頃に抱きがちな、年上の存在への淡い憧憬で終わらせてもらっては僕が困る。彼には、しっかり渚兄さんを引き留めておいてもらわないと。
     だが一方で、こうして渚兄さんのことになると一生懸命になったり、顔を赤くしながら、自分の服の裾をぎゅうと力いっぱい握りしめるシンちゃんの緊張した様子に、いらぬ心配ではないのかとも思う。
     本当に彼が渚兄さんに対して本気なのだとしたら、先程のような、渚兄さんの曖昧な態度は、少し気に食わない。脈がありそうだが、どうも煮え切らない態度ばかりを取る。確かに彼には、引き留めておいてもらわないと困る。……のだが、もし渚兄さんが、その気もないのに、あんな思わせぶりな態度ばかりとっているのだとしたら、シンちゃんに対して酷い事をしているし、確実に彼は傷付くことになるだろう。そうなったら僕は兄さんを軽蔑するかもしれない。
     きっと情が移るというのは、こういうことなのだろうなと最近気付いた。シンジ君に対する気持ちとはまた別の感情だ。利用しようと近付いたくせにとは、自分でも呆れてしまうのだが、確実に僕は彼の健気な様子に絆されているのだろう。純粋に応援したくなってしまうのは、すでに僕の中でシンちゃんが大切な友人になっているからなのかもしれない。

    「渚兄さんにあげてみたらどうだろう?」
    「う、うん……! 教えてくれてありがとう!」
    「こちらこそ、ありがとう。助かったよ」

     僕の言葉を聞き、慌ててシンちゃんは防音室に戻っていく。ドアを開けると、渚兄さんのピアノの音が漏れ聴こえてくる。その音に目を輝かせながらも、ドアを閉める直前に僕に向かって、小さくバイバイと手を振ってくれたので、僕もニッコリと手を振り返した。
     扉が閉まり、背を向けた彼を見届けたあと、ふぅと一息吐いて踵を返す。

    「さてと……、僕はどうしようかな」







    1/25(月)
    【Sada S side】


     チャイムが鳴り、放課後になった途端、教室内がざわつき始めた。僕は保育園に弟を迎えに行くために、いつも通り急いで帰り支度をする。カバンを背負い、「じゃあな碇」と挨拶するクラスメイトに軽く手を上げて「また明日」と返事をしながら教室を出た。
     生徒は基本的に、やむを得ない事情がない限りは部活や委員会に入っている。強制ではないが、僕のように何にも所属をしていないのは珍しい方だ。

    「シンジ」

     教室を出た瞬間に、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。顔を上げ、声がした方を見ると、そこには壁に寄りかかって立っていた兄がいた。
     兄さんは隣のA組で、僕はB組。双子だからか、同じクラスになることはなかったが、偶然か否か、いつも隣のクラスではあった。ついでに言うと、今年はアスカが兄さんと同じクラスで、綾波が僕と同じクラスだ。

    「兄さん、どうかした?」
    「一緒に帰ろうと思って」
    「え、部活は?」
    「今日は先生の都合で休み。自主練はして良いみたいだけど」

     綾波は、兄と同じ管弦楽部に入っている。先程、彼女がそそくさと部活用の楽譜を入れたファイルを手に、教室を出ていったから、てっきりいつも通り部活があるのだと思ったが、自主練のためだったらしい。

    「シンちゃん迎えに行ったら、そのまま皆で買い物行こ」
    「うん。今日の買い物面倒だなって思ってたから兄さんがいて良かったよ」
    「ふふ、そうだと思った」

     今日の買い物のメモに書いてあったものは、特売の醤油とか、大根とか、とにかく重いものが多くて気が乗らなかった。最近はシンちゃんが抱っこをせがまないからいいものの、前のように抱っこまでさせられてたら大変だったろうな。一度帰って荷物を置いてから買い物に行くしかなくて、二度手間にもなってしまってたかもしれない。
     悪戯っぽく笑う兄さんに、いやいやあの買い物のメモしたの兄さんでしょと言うと、ごめんねと流れるように軽く謝罪してきたので、呆れて笑った。口癖なのは解ってるけど、ごめんねを便利な相づちだと思ってないかな兄さん。

    「……あれ?」

     昇降口を出て、校門に向かって歩いていると、中学生にしては小さい人影が校門の辺りにちらりと見えた。不思議に思っていると、兄さんが困惑したような「えっ?」という声を上げて立ち止まり、すぐに小走りで僕を追い越して、校門の方へ行ってしまった。
     なんだろう? とまた校門の人影を目を凝らしてよく見れば、その人影は帽子を被っていて顔が見えずよく判らなかったが、校門の影からもう一つ人影が出てきたのを見て、ようやく僕にも、あれが誰なのかが判った。よく見たら、近くにある私立の小学校の制服だし、陽の光で反射する銀色の髪で確信する。

    「カヲル君っ……どうしたの!? ナギサ君も学校まできて……」
    「シンジ君!」

     兄さんを見たときのカヲル君の顔は、それはもう花が周りに飛び散るような笑顔だった。その表情とは裏腹に、渚は顔を顰めながらカヲル君を見ている。多分、僕も今、兄さんの顔を見て、同じような顔をしているのだと思う。
     下校中の生徒(特に女子)は、好奇な眼差しをチラチラとカヲル君や渚に向けては、「かわいい~」とか「おとうと?」とか「私立校の子じゃん」とか、キャッキャしながら通り過ぎていっているが、二人は特に気にしていないようだった。まあどちらも、渚先輩同様に人目を引く外見だし、慣れているのかもしれない。
     しかし小学一年生って、もっと帰る時間早いんじゃないのか?
     カバンや格好を見る限り、家に帰えらず直接来たようだし、よく見たら二人共鼻が赤くなっている。もしかして、ずっとここで待っていたのだろうか。

    「どうしても、今日シンジ君に会いたくて……、迷惑だったかな……」

     あからさまに面倒臭いと思いながら二人を見ていたせいか、カヲル君がちらりとこちらを見てから申し訳無さそうに兄さんに言った。
     僕じゃなくて兄さんに言う辺り、カヲル君は兄さんをわかっている。迷惑だなんて本当に思っていたとしても、そういうふうに言われた兄さんが素直に、はいそうですなんて言える訳がない。案の定「そんなことないよ」と答えているし……。
     まあそれは良いとして、ここで無駄に時間を潰すわけにはいかず、校舎の時計を確認する。余裕を持ってはいるので、普通に歩けばまだ間に合うが、この二人がいるなら話は別だ。延長保育になってしまう前に、シンちゃんを迎えに行かないと。

    「兄さん、やっぱりお迎え僕だけで行こうか?」
    「えっで、でも……」
    「……保育園に行くんですよね? 僕はシンジ君に話があるだけなので、道中話しながら一緒に行ってもいいですか? 終わったらすぐ帰りますので」
    「……まあ、別に僕は良いけど。兄さんは?」
    「あ、うん。じゃあ二人も一緒に行こっか」

     そう言って兄さんが立ち上がると、カヲル君はとても自然な動きで、まるでそうするのが当たり前かのように、兄さんの手に自分の手をスッと絡ませた。ぎゅっと握られた手に驚いたのか、兄さんは手をびくりと跳ねさせたあと、カヲル君を凝視している。
     言うまでもないが、兄さんの顔は真っ赤だしカヲル君はとてもいい笑顔で、そのまま兄さんの手を引いて歩き出してしまった。
     僕は一体何を見せられているのかと、少し頭が痛くなって、思わず片手で頭を押さえる。ちらりと横を見たら、僕と同じく兄たちに置いていかれた渚がこちらを見ていて、目が合うと思っていなかった僕は、少し狼狽えた。
     なんとなく気まずくなって、小さく咳払いをする。
     改めて渚の格好を見ると、コート以外の防寒具はなく、マフラーをしているカヲル君よりも寒そうな格好をしていた。

    「……君、もしかしてカヲル君の付き添いなだけ?」
    「うん」
    「こんな寒い中、ただの付き添いでそんな格好で待ってたわけ?」

     何も用事がないなら帰れば良かったのでは……と思ってそう言うが、渚はずずっと鼻をすすりながら「だって……」と不満そうに言った。

    「加持サンに一人で登下校するなって言われたんだよ」
    「なんで」
    「怒られた。帰ってくるのがおそいって」

     渚から目を離すと、寄り道をしたりふらふらといろんなところに行ってしまって大変だというのは、僕もこの半年彼らと付き合ってきたのでよく知っている。渚先輩もその事をよくぼやいていたし、仕事で保護者代わりを任されている加持さんもさぞかし手を焼いてるのだろう。
     やれやれと思いながら自分がしていたマフラーを外し、渚の首にぐるぐると巻いて、さっさと歩き出す。キョトンと立ち尽くしている渚に向かって「置いてくよ」と言うと、ハッとして慌てて僕の後ろをついてきた。
     前を歩いているカヲル君は何かを言いたげにこちらを横目で見ていたが、僕と目が合うと特に何を言うでもなく、前を向き直して兄さんに話しかける。

    「シンジ君、聞きたいことがあるんだ」
    「なぁに?」
    「その……もうすぐ二月になるだろう?」
    「うん、そうだね」

     渚は大人しく僕のコートの袖を掴んでちゃんとついてきているようなので、ぼうっと前の二人の会話を聞きながら歩いていた。
     他愛もない会話の切り出し方だけど、カヲル君はどこか緊張しているようにも見える。

    「……バレンタイン、シンジ君はどうするんだい?」
    「え?」

     兄さんの方をじっと見上げて、カヲル君が問う。
     バレンタインデー。
     買い物にはよく行くので、嫌でもこの時期はそういうものが目に入るからか、イベントごとを忘れるなんてことはすっかりなくなった。「ああ、そろそろかあ」とぼんやり考えながら買い物をしていたのも記憶に新しい。
     特に自分がなにかする訳では無いが、義理チョコは毎年何個か貰えている。個人的にこのイベントに対する羞恥心の方が強く、友人らのように楽しみとは大っぴらには言えないし、別に好きな女子がいるわけでもないので、期待でそわそわしたりとかはないけれど、嫌いというわけではなかった。毎年ミサトさんや母がくれるチョコも少し良いものを奮発してくれるので楽しみではある。
     そういえばこの前の土曜日、シンちゃんは家に帰ると真っ先に兄さんの元に走っていき、チョコの作り方を教えてと興奮気味に言っていた。バレンタインデーに渚先輩にチョコをあげたいとか、びたーがいいとかなんとか。
     兄さんは、帰ってきて自分にいきなり飛びついてきたシンちゃんに驚いた顔をしながらも、どんなチョコを作りたいか後で調べようねと落ち着かせて、まず手を洗うように促していた。
     土曜日以前にも、保育園の帰りに一緒にスーパーでバレンタインコーナーを通り過ぎたりしたが、シンちゃんは見向きもしていなかったし、先日の今日でカヲル君がこの話だ。あれは、カヲル君の入れ知恵だったのだろうか。

    「どうって言われても……」
    「……実は、シンちゃんから聞いたんだ。シンジ君、手作りチョコを誰かにあげたことあるんだろう?」

     ……などと考えていたら、早速答え合わせがきた。やはり想像通りだったようだ。
     確か去年は、兄さんがアスカに作れと脅されていたのを覚えている。前日に無茶振りをするものだから、お菓子を作るのは初めてだった兄は、ろくに準備もできずに、簡単にチョコを溶かして固めたものを作っていたはずだ。
     結局バレンタインデー当日は、アスカもきちんと僕たち兄弟三人分の市販のチョコ(兄さんと僕には丁寧に義理と大きく雑な字で書かれたメッセージカード付き)を用意してくれてはいたのだが、アスカは兄さんの作ったチョコをしょぼいと文句言ってたっけ。ただ固めるだけではなく、上にドライフルーツやナッツとかを乗せていて、それこそ初めてにしては工夫されてたと思うが、彼女はお気に召さなかったらしい。

    「え? ……あ、もしかしてアスカの事?」
    「……アスカ……さん、って誰だい?」

     兄さんは一瞬考えてそう言う。カヲル君は笑顔のまま、出てきた人物の名前にニッコリと笑みを深くしながら首を傾げてたずねた。
     そういえば、この二人は意外にもまだ彼女と会ったことがなかったか。チラリと斜め後ろにいた渚を見ると不思議そうな顔をして、同じように「誰?」と兄さんに訊いている。

    「そっか、君たちはまだ会ったことなかったね。アスカは僕たちの幼馴染みだよ、同じマンションに住んでて……、」
    「兄さんは尻に敷かれてる」
    「シンジ……!」
    「本当のことじゃないか」

     さっきからただ二人の会話を聞いているだけの自分の状況が、なんだか盗み聞きをしているようで少し居心地が悪かったので、多少強引に会話に混ざってみた。兄さんは僕の言ったことに、いち早く反応して、眉を吊り上げながらバッと振り向く。
     すると僕たちの会話を聞いていた渚は、神妙な顔で首を傾げた。

    「……お兄さんがアスカって人のおしりにしかれるの? 強いってこと?」
    「ほら、ナギサ君が変なこと覚えちゃうじゃないか……! もし聞かれでもしたら、アスカに怒られるの僕なんだからね……!?」
    「あはは、やっぱり尻に敷かれてるじゃないか」
    「もぉ……シンジだって、アスカには言われっぱなしの癖に……」

     笑う僕に対して、兄は不本意そうにむすっとして睨んでくる。確かに僕もアスカにはあまり頭が上がらないというか、彼女に勝てる気はしない。頭も良いし口も達者、運動神経もよければ、女子だけど喧嘩もそれなりに強かったりする。この間、ナンパしてきた不良の高校生と喧嘩して勝ったという話を綾波から聞いていたので、渚の言うこともあながち間違ってはいない。
     まあ、やはりよく解らなかったのか、頭にハテナを浮かべていたので、渚には「そのうちわかる」とだけ言っておいた。
     一方カヲル君だが、先程から僕たちの会話を俯いたまま何も言わずに聞いていた。その彼が、キュッと兄さんと繋いでいた手を握り直すと、その手は繋いだまま、ととと……と小走りで兄さんの目の前で立ちふさがった。突然の行動に驚いて兄さんも立ち止まり、それに続いて僕たちも立ち止まる。
     カヲル君は、まっすぐ兄さんを見上げながら、繋いでいなかった反対の方の手で兄さんのもう一方の手を取り、口を開いた。

    「僕、バレンタインにシンジ君のチョコが欲しいな」
    「へ」

     ああ……、まあ、そうだろうな。
     なんて。この話の流れなら、兄さんの事をいたく気に入っているカヲル君なら、そう言い出すと思っていた。というか、バレンタインの話が出た瞬間にそうだと思っていた。
     なのに、兄さんは思いもしなかったみたいな顔で、ぽかんと口を開けてマヌケな声を出している。驚きで他に何も反応できずにいる兄さんに、カヲル君は表情を曇らせた。

    「だめなのかい……?」
    「え、あ、い、ダメってわけじゃないんだけど……」

     悲しそうな声色で問われると、兄さんが慌てて首を横に振って否定する。
     僕はカヲル君の兄さんへのおねだりが失敗したところを見たことがない。カヲル君が凄いのか、兄さんが甘いのか、多分どちらもだろう。だが毎回見る度に、こうも思う。何だこの茶番は……と。
     シンちゃんのお迎えの時間が押しているので、できるだけ早くしてもらいたい。渚なんてもう飽き始めてそっぽを向いている。目を離すと、また一人で何処かに行ってしまいそうだったので、首に巻いたマフラーをこっそり掴んでおく。早速ふらふらと歩き始めた渚は、見事に犬のリードさながらにマフラーでグイッと引っ張られ、軽く首がしまったようで「うえっ」と小さく声が漏れる。僕にマフラーを掴まれていると気がついた渚は、むすっとしながら、再び僕のコートの袖を掴み大人しくなった。
     ふと兄さんを見ると、両手はカヲル君に握られたままだったけれど、いつの間にかしゃがみこんでいる。何をしていた(話していた?)のかは知らないが、兄さんの顔は真っ赤になっていた。
     小さく不安そうに「シンジ君……」と名前を呼ぶカヲル君に、兄さんはおずおずと顔を上げて、言いにくそうに口を開く。

    「……あ、あのね、カヲル君」
    「?」
    「その、僕まだそんなにお菓子作ったことなくて、カヲル君に食べて貰えるようなちゃんとしたもの、作れるかわからないんだ……だからその、それでも……いい、なら……」
    「! 僕は君が作ったものならなんでも嬉しいよ!」

     それは本日二度目の、ぱあっと効果音が出そうなほどの花が飛び散るような良い笑顔だった。
     カヲル君は兄から色好い返事を貰えたことに、わかりやすく喜んでいる。

    「き、期待はあんまりしないでね……?」

     あまりの喜びように、気後れした兄さんはそう言ったが、カヲル君は数秒黙り込んだ後、深刻そうな顔をした。

    「シンジ君の頼みでも、それはむずかしいかもしれない……」
    「か、カヲル君~……」

     最後の兄のあまりにも情けない顔と声に、あーあ……とこっちまで力が抜けていく。
     今回も兄さんの負けみたいだ。

     結局、あの後ちょこっといつもより浮かれたカヲル君とつまんなそうな顔をした渚は、彼らの家の分かれ道に差し掛かったあと本当にそのまますんなりと別れた。
     僕に深々とお辞儀をして、兄さんに手を振るカヲル君。そんなカヲル君をぼーっと見つめながら、手を振り返す兄さんを肘で軽く小突いて、僕たちは早歩きでシンちゃんの待つ保育園に向かった。







    1/26(火)
    【An S side】

     トリュフチョコ、ブラウニー、マドレーヌ、生チョコ……は駄目だ。生チョコはシンちゃんが作るチョコだし。

    「大丈夫かい? 碇君……」
    「うーん……」

     昨日、カヲル君にお願いされてしまったバレンタインの件で、僕は非常に悩んでいた。
     渚君が、雑誌とにらめっこしている僕を、心配そうに見つめている。昼休みにわざわざ二年の教室まで来てくれて、僕の相談に乗ってくれているのだ。
     結局のところ、去年のバレンタインから今に至り、お菓子作りをする機会はなく、自信なんてものは一ミリもなかった。レシピ通りに作れば平気だなんて言うけれど、お菓子のレシピは文字だけでは細かい加減がわからないことが多く、初めてだと失敗することもあるとよく聞くし、早めに何を作るか決めて、事前に練習したいと少しばかり焦っている。
     初めは簡単に作れて無難なものの方が良いのかもしれないと、本やネットで調べていた。中でもクッキーは材料が少なく簡単そうで、初心者の僕にも作れそうだと思って、それにしようとはしていたのだけれど、調べているうちに、どうやらお菓子にも何を贈るかによって意味があるらしい、というのがわかった。
     バレンタインデーやホワイトデーに贈るクッキーの意味を知ってしまうと、カヲル君に贈るのは憚られた。同じ理由でマシュマロも。まあマシュマロは、手作りで作るもしくは材料として使うなんて発想が、元々なかったから良いのだけれど。
     僕の本意ではないものは論外としても、他の意味のあるらしいお菓子も絶妙に恥ずかしい。カヲル君が知っていようがいまいが、とにかくそんな意味があるようなお菓子をカヲル君に渡すなんて、きっと僕には出来ない。
     しかも、調べているうちに、やっぱりカヲル君たちの家はお金持ちだから、お菓子だって良いものを食べてるんじゃないだろうかとか、それならもっと凝ったものじゃないとがっかりさせてしまうんじゃないかとか、迷走してしまってなかなか決まらない。とても楽しみにもしていたから、期待は裏切りたくないし……。
     色々なところに飛躍したり二転三転する思考に、僕が肩を落としながら唸っていると、目の前で机をバンッと叩かれる。いつもなら驚いていただろうけど、今の僕は周りを気にする余裕なんてほぼ無かった。

    「なに見てんのよ」
    「ん、ん~ちょっと…」

     まあこんな乱暴な事してくるのだから、どうせアスカだろうなとは思った。ぶっきらぼうに声をかけてくるアスカに対して、顔もあげずに適当に返事をすると、僕の態度が気にくわなかったのか、もう一度バンッと机を叩く。

    「はぁ? シンジの癖に生返事なんて生意気ね!? 見せなさいよ!」
    「あっ! ちょっとアスカ!」

     そう言って、僕が見ていた雑誌を、アスカに乱暴に取り上げられてしまった。
     アスカは、取り上げた雑誌の開いていたページをじろりと睨みつけ、そこに書いてあるものを読み上げていく。

    「バレン……タイン……、手作りぃ?」
    「返してよ! もう……」

     立ち上がって、アスカから雑誌を取り返して、もう一度自分の席に座り直した。

    「惣流さん、無理矢理は良くないと思うよ」
    「うるっさいわね! なんであんたが二年の教室にいんのよ!」

     横で見ていた渚君は、澄ました顔でアスカの行動を咎めた。渚君に話しかけられた途端に、余計に顔を歪めて、理不尽に渚君に怒鳴り散らすアスカは、いつも通りといえばいつも通りなのだけれど……。
     それにしたって、よく上級生にそんな物言いが出来るなあ。

    「アスカ、渚君は先輩なんだから……」

     そんな言い方は良くないんじゃない? と僕も注意しようとすると、言い切る前に、はっと鼻で笑う。

    「たかが一年違いじゃないのよ」
    「……それに関しては僕も同意見だね。だから僕は碇君に気軽に接してもらっているんだよ」
    「それは、そうかもしれないけど……」

     渚君はあまりアスカを相手にしていないようだから良いのかもしれないけど、彼女は一年違いとか関係なく、自分が気に入らない相手には本当に攻撃的だ。それでも偉い大人の前での猫被りは激しいし、特に加持さんの前では酷い。
     僕がアスカのそういう態度に呆れ返っていると、彼女は「ていうか、そこのキラキラ野郎はどうでもいいのよ」と両手を腰に当て、満足そうな顔をした。
     
    「私が言う前に調べてるなんて、バカシンジの割には準備が良いじゃない」
    「別にアスカにあげるやつ調べてるわけじゃないんだけど……」
    「だったら誰のだってのよ」
    「渚君の従兄弟の子に…頼まれちゃって」
    「コイツのイトコォ?」

     意外だとでも言うような顔になる。カヲル君たち同様、アスカにもカヲル君たちのことはきちんと話していなかったので知らないはずだ。

    「そう、小学生の男の子……。どうしても欲しいってお願いされちゃって。僕お菓子はそんなに作ったことないから…不安だなあ……」

     はあ……と大きくため息を吐いた。アスカは腕を組んで、僕を少しの間黙って見た後、少しだけ眉間に皺を寄せて目線を左下にやって口を開く。

    「別に……、人に出して恥ずかしいような出来じゃなかったわよ。去年の」

     ……去年は受け取ったあと、しょぼいと文句を言っていたくせに、とは思ったのだが、もしかしてアスカなりに励ましてくれているのだろうか? と思って、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
     けれど、やはり去年作ったものを考えたら、そりゃ失敗なんてしないだろうし。僕の悩みが晴れることもない。

    「でもなあ、やっぱり去年のはチョコを固めただけだしなあ」
    「はぁ~~~~??? 何よ、私のときより良いものソイツに作ろうとしてるってこと!?」

     小声でボソリといった僕の言葉に、大げさに反応し、再び僕の机にバンッと両手を叩きつける。あまり大きい声を出すと、他のクラスメイトに注目されてしまう。ただでさえ渚君がいて、クラスの女子はこちらを気にしてチラリと見ては、ひそひそと話しているのに……。
     視線を感じて身体を縮こませながら、雑誌に隠れるようにして、ボソリと「あれは、前日に言うからじゃないか……」と言ったが、幸いこの呟きは、アスカに聞こえていないようだった。

    「まあ良いわ、罰として今年もちゃーんと手作りでよこしなさいよね!」
    「いっ……」

     バチンッと額に衝撃が来た。アスカはさっさとその場から去っていってしまう。クラスで仲の良い女子に話しかけたあと、さっさと教室を出ていった。
     じんじんする額をさする。デコピンでそんな音する?

    「大丈夫かい? 少し赤くなってしまっているね……」
    「うう、絶対罰とか関係なく、今年も頼むつもりだったくせに……」
    「彼女は、昔からああいう感じなのかい?」

     その問いに、まあね……と力なく言うと、気の毒そうに渚君は苦笑した。
     彼女のはっきりとした物言いは一長一短で、良いとも悪いとも言えない。今回のようなことのほうが正直に言うと多いけど、アスカのお陰で助かったこともそれなりにある。さっきのように、素直ではないだけ……で、根は優しいのだと思うし。

    「はあ……、それより、どうしよう……。ねえ渚君、カヲル君って苦手なお菓子ってあるかなぁ……」
    「カヲルか……。見た限りでは好き嫌いをしている様子はないかな? 間食をそもそもしない子だから」
    「そっかぁ……」

     アレルギーの有無も、お泊りをしたときに聞いたし、苦手なものも好きなものもわからないとなるとやっぱり難しい。完全に僕のセンスに委ねられるってことじゃないか……。
     ずっと項垂れながら、うーんうーんと唸っている僕を見て、渚君が微笑みながらぽんと僕の肩に手をおく。

    「きっと、カヲルは碇君が作ったものなら無条件で喜ぶと思うよ?」
    「そうかな……、何にしても変なものはあげたくないよ……」

     それでもぶつぶつと悩む僕を、渚君は少しも呆れずにいてくれる。やっぱり渚君は優しい。シンちゃんが懐くのもわかる。僕も、渚君みたいになれたらなぁと思うことはよくあるし、その上、格好よくて頭も良くて……、僕だけじゃなくきっとみんなの憧れだ。アスカのような例外も、もちろんいるだろうけど。
     もう一度ため息をついて、雑誌のバレンタイン特集にある、煌びやかなお菓子の写真を眺めていると、ふふと渚君の声が頭上から聞こえた。そちらを見上げれば、口元に手をあてながら笑う彼が「カヲルは幸せ者だね」と言った。
     そう? ……そうかな。
     そうならいいなと思うけど、本当に僕で良いのかなという気持ちはずっと消えない。

    『僕は君の一番なんだよね?』
     昨日、僕の耳元で不安そうにそう呟いたカヲル君の声が頭から離れない。その後の『僕の一番は今もずっと君だよ』と念押しのように言われて、約束を守ってくれと言われているような気もした。
     破るつもりなんてない。
     僕はきっともう、カヲル君以外に一番になる人なんて出来ない。だから僕はカヲル君に、自分のダメなところをできるだけ見せたくなかった。
     誰だってそうじゃないの? 好きな人には自分の良いところだけしか見せたくない。
     何を今更って思われるかもしれないけど、でもカヲル君、いつも僕の料理をすっごく褒めてくれるんだもの。きっとカヲル君は優しいから、失敗したり口に合わないものをあげても、怒ったりあからさまにがっかりなんてことはしないだろうけど、気を遣わせるなんて事になったら絶対に嫌だ。

    「碇君、変に気負いするのは良くないよ。元はと言えば、カヲルの我儘なのだから」
    「……」

     あまり役に立たなくて申し訳ない、と渚君は続ける。実は、昨日のうちに本人にも好みを聞いたけれど、カヲル君は先程渚君が言ったように、「シンジ君が作ったものなら何でも嬉しい」としか言わなかったのだ。周りから見たら、何か気付くこともあると思ってたけれど、家だとあまり食事に関心がないそうだ。僕の料理は、美味しいと嬉しそうに食べてくれていたので意外だった。
     だったらバレンタインもお菓子じゃなくて、何かもっと別の、普段使えるようなものとかの方が良いのでは? とも思ったのだが、カヲル君は手作りのお菓子が欲しいと言っていたし……。
     はあ……思わずまたため息が漏れる。そんな僕を見兼ねたのか、渚君はもう一度口を開いた。

    「碇君、これだけは言えるのだけど」
    「なに?」
    「カヲルはきっと、君がそうやって一生懸命に自分で考えて決めた物を貰えるのが一番嬉しいのだと思うよ」
    「…………うん、ありがとう渚君」

     結局、直接的な解決にはならなかったけれど、渚君のおかげで少しだけ前向きに慣れた気がする。
     僕のセンスにかかってる……けれど、失敗するかしないかは、これからの僕の努力次第だ。幸い、時間はまだある。あと約半月の間に決めて、練習するには十分な時間だ。
     そう決意して、僕はまた雑誌に視線を落とした。







    2/13(土)
    【Sada S side】


     家中に、チョコの甘い匂いが充満している。たまにならば良いのだろうけれど、最近は家に帰ると毎日この甘ったるい匂い。正確に数えていたわけでもないが、大体二週間はこれが続いていた。
     今は仕事が忙しくないのか、両親は二人共少し早めに帰ってきて、夕飯も母が作ってくれている。そのおかげもあってか、兄はバレンタインのお菓子作りに精を出しているようだった。

    「毎日毎日……」

     茶色いドロリとした生地を型に流し込む兄さんの後ろ姿を見ながら、ちょっとうんざりして呟いた。
     兄のお菓子作りの練習に、味見役として付き合わされた僕は、口の中のチョコの甘味をリセットしたくて、母さんが淹れてくれた熱い緑茶を流し込む。

    「シンジはお兄ちゃんと一緒に作らないの?」

     母さんは、昨日兄さんが作ったらしいチョコのお菓子を口に運びながら、僕に向かってそう言った。
     これ、なんて言ったっけ。オレンジにチョコがかかってる……。おしゃれなお菓子の詰め合わせに入ってそうなやつ。
     オランジェ……なんとか? とか言う。……まあいいや。

    「僕は別に、あげるような人いないし……」
    「そうなの?」
    「そうだよ」

     普通、中学生の男子がバレンタインに手作りなんて、そうそうしないと思う。
     そう言うと、「海外は男の子からあげるところもあるのよ」なんて言うけれど、あいにくここは日本だし、そもそもの話、あげたい相手がまずいないのだから、僕には関係がなかった。

    「ごめんね、シンジ。でも今日で終わりだから……」
    「……ホントだよ。僕、もう一ヶ月分のチョコ菓子食べた気がする」

     生地の入っている最後の型をオーブンにセットし終えると、兄さんは申し訳無さそうに僕に言う。
     カヲル君に頼まれた時は、えらく悩んでいたみたいだけれど、その数日後には一転して、兄さんにしては珍しくやる気に満ちた様子になり、大量のお菓子の材料を買ってきていた。材料だけじゃなく、いろんな形の型まであったから、お小遣いを殆ど使い切ったんじゃないかと心配になったぐらいだ。
     それから兄さんは、ずーっとお菓子を作る練習をしてる。
     一番最初に作ったのは、バレンタインにはあんまり関係なさそうなプレーンのパウンドケーキ。そこから毎日いろんな種類のお菓子を少しずつ練習しては僕たち家族が味見をしていた。父さんだけはお菓子が苦手だと言ってあまり手をつけなかったけれど。

    「お兄ちゃん、結局何にするの?」
    「ガトーショコラ……、簡単だし」

     目を逸らして、少し気まずそうに母さんの問いに兄さんが答える。

    「シンちゃんは?」

     兄さんの様子には少し違和感があったけれど、母さんは気にせず、今度は自分の横でお菓子を食べているシンちゃんに話を振った。
     兄さんは逸らしていた目を再びこちらに向け、シンちゃんに向かって微笑みながら、代わりに母の問いに答える。

    「シンちゃんは生チョコ。ね?」
    「うん、びたーのチョコがいいんだって」

     生チョコは意外と簡単らしく、湯煎の時の火傷にさえ気を付ければ、一人でも作れるんじゃないかと兄さんがシンちゃんに言っていた気がする。しきりにビタービターとシンちゃんが言っているのは、渚先輩の好みらしい。ちゃっかり好みも調べているその積極性は、素直に凄いとは思う。
     シンちゃんの渚先輩にあげる分のチョコレートは、きちんと日中に出来上がっており、今はラッピングもし終わって、大切に冷蔵庫にしまってある。
     嬉しそうな顔をして「あした早くこないかな」と楽しみにしているシンちゃんとは裏腹に、母さんは少し不満そうにため息を吐いてお茶を飲んだ。

    「今年は気が重いわぁ……。シンちゃんの初めての本命チョコ、お母さん欲しかったなあ」

     また言ってる……、どんだけ悔しかったんだ。
     母さんは、シンちゃんの初恋を渚先輩に取られた事に対して、根に持っているようだった。何かあるとこうして渚先輩に嫉妬して拗ねているが、実際に渚先輩に会うと、とってもいい子なのよね……と、悩ましく呟くのだ。
     もしこのまま母さんが子離れ出来ずにいたら、将来、色々と問題が起こりそうで、僕は少し心配している。流石に本気で言っているわけではないと思いたい。
     まあでも、弟もまだ五才児だし、過保護なのも多少はしょうがないのかもしれない。幼児の言うことなんだから、そんなに大袈裟にしなくても、とも思うけど。

    「だめ、おかあさんは、おかえしのときにあげるの」
    「え~!」

     羨ましそうな顔で見てきた母さんを一瞥して、シンちゃんは無情にもぷいっとそっぽを向く。
     そんなぞんざいな扱いをされてしまった母さんは、目に見えて分かるほどにしょんぼりしてしまって、兄さんが思わず苦笑した。

    「あはは……母さん、僕のは多めに作るから」
    「ありがとう、お兄ちゃん……」

     それでもやっぱりシンちゃんの態度が悲しかったのだろうか、泣きそうな声のままだったが。

    「そういえば兄さん、結局アスカにあげるんだ?」
    「うん、催促されちゃったし。今年は綾波やミサトさんにもあげようかなって」

     多めに作ると言っていたし、確かに今オーブンに入っている生地はそれなりに多い。切り分けるだろうけど、それでもなかなかの量だ。これならたしかに母さんの分も余裕を持って分けられるだろうな。
     しかし、それならますます気になる。

    「……で?」
    「で……ってなに?」

     怪訝そうな顔をして僕の問いを聞き返す兄さんに、あれ? と思った。

    「……カヲル君のは?」
    「え」

     僕は、当然カヲル君の分を、別に用意したのだと思っていたのだけれど、僕の言葉に兄さんはギクリと固まる。
     何故、そんな隠しているのかよくわからないけれど、あんなに目に隈を作ってまで何をあげるかで悩んでたのに、簡単だからという単純な理由で、兄さんがカヲル君に渡すお菓子を決めるわけはないと思ったのだが。

    「別に作ってるんでしょ? 今さら誤摩化さなくてもいいよ」

     練習してる時に一度聞いてみたけれど、ガトーショコラっていうのは、本当に作るのが簡単なのだそうだ。兄さんもこれは最初の方で一回作っただけで、失敗もしていなかった。まあ、基本的には何を作ってもそれなりには成功していたし、失敗していたのはマカロンぐらいか。
     マカロンは、付け焼き刃の技術では自信がないからやめる、と早々に諦めていたから、流石にこれではないだろうなあ。

    「え、なあに、何の話?」

     僕たちの会話に興味が湧いたのか、母さんが目を輝かせ身を乗り出し、僕と兄さんを交互に見た。兄さんは、母さんの様子に、慌てて真っ赤になり怒った顔を僕に向ける。

    「な、なんでもないよ! シンジだってわかってるくせに、やめてよ!」
    「わからないから聞いたんだけど……」
    「気になる~!」
    「なんでもないってば! 母さんもやめて!」

     うーん、なんだか二人のやり取りに若干の既視感がある。と思い、考えたけれど、恐らくこれはクラスメイトの女子たちの会話の雰囲気だ。
     好きな人の話題で盛り上がっていた女子グループを、ちょっとだけ騒がしいなと眉を潜めてチラッと一瞬見たら、運悪くたまたまそのうちの一人と目が合ってしまって「やだぁ! 盗み聞きするなんて、碇君のすけべ!」と冗談めかして言ってきた……という余計なことまでも思い出してしまった。
     内容なんか聞いてなかったし、ましてや興味もなかったのに、目が合うだけでスケベは流石に理不尽過ぎて、言われた時の僕は顔が引き攣ってたと思う。大したことではないけれど、苦い思い出の一つだった。

    「……ユイ、詮索しすぎるのはやめないか」
    「はぁい」

     微妙な顔で母と兄のキャピキャピとした会話を聞いていると、いつの間にかコーヒーのおかわりを注ぎに台所まで来ていた父さんが、母さんを軽く嗜めた。母さんは素直にそれを聞いて、それ以上は兄を問い詰めることはなかった。
     僕も後で冷蔵庫見ればすぐにわかるだろうしと、結局兄さんに無理に聞くことはしなかった。

     明日は彼らが家に来る。
     もちろんバレンタインデーだからだ。渚先輩とカヲル君はもちろんだが、この二人が来るんだから、きっと渚も来るんだろうな。あいつだけ用事ないくせにさ。
     できるだけ面倒なことにならず、すんなりと受け渡しが済めばいいけど、と思いつつ、僕は再び兄の作ったオランなんとかっていうチョコ菓子に手を伸ばしたのだった。







    2/14(日)
    【An K side】


    「いらっしゃい」

     玄関を開けて、最初に出迎えてくれたのは、甘くとろけるような笑顔のシンジ君だった。その笑顔に気分が高揚するも、カヲルの遠慮のない「おじゃましまーす!」という声と共に、僕のテンションはあっさりと元に戻されてしまう。

    「あっこら、ナギサ!」

     颯爽と靴を脱ぎ、勝手知ったる様子でシンジ君の横を通り抜け、中へと入っていくカヲルに、渚兄さんは焦ったように手を伸ばす。だが、その手は虚しく空を切り、がっくりと項垂れてしまった。
     シンジ君は、そんな慌ただしい二人の様子に、虚をつかれたように目を見張っていたが、すぐに可笑しそうに破顔する。

    「あはは、大丈夫だよ。シンジがいるから」
    「すまないね……」
    「渚おにいちゃん!」

     申し訳なさそうに謝る渚兄さんと、気にしないでと笑うシンジ君。早くシンジ君と話したい僕は、そんな二人のやり取りを面白くない気分で見つめていた。
     すると、奥からご機嫌な様子のシンちゃんが軽やかに走ってくる。彼はこちらにくるなり渚兄さんの手を取り、ぐいぐいと引っ張って「こっちにきて!」と急かし始める。

    「シンちゃん、引っ張ったら危ないよ。あ、どうぞ、上がって」
    「ああ、お邪魔します」
    「こっちだよ!」

     渚兄さんはシンちゃんに手を引かれながらも、自分の靴と脱ぎ散らかされたカヲルの靴を玄関の端に寄せた。
     シンちゃんはシンジ君に咎められるのも構わずに、立ち上がった渚兄さんの背中に回って、兄さんの身体を小さい手で押しながらリビングの方へと促す。なんだかいつもと違って、強引で不自然な彼の行動を不思議に思っていると、突然彼はくるりと振り向き、笑顔で僕に向かって手を振った。
     今度は僕が呆気に取られる番だった。もしかしてシンちゃんは僕に気を利かせて、渚兄さんをこの場から連れだしてくれたのだろうか。僕はまだしもシンちゃんは、こんなあからさまに二人を引き離す行動をとることは今までになかったので、少し驚いてしまった。たまたまかもしれないけれど、どちらにせよ、とてもいいタイミングで渚兄さんを連れ出してくれたのには違いない。後でお礼を言わなくてはならないだろう。

    「カヲル君も、上がって」

     シンジ君は玄関先で動かない僕に首を傾げながらも、中に入るよう促す。
     僕は少し緊張しながら、ずっと後ろ手に持っていたものを彼に差し出した。

    「シンジ君」
    「? わっ」

     カサリとビニールのラッピングの音と、ふわりと香る上品な匂いがその場に漂う。シンジ君は、目の前に差し出されたものを見て驚いた。

    「えっ、これ……ば、薔薇?」
    「これを受け取ってほしい」

     シンジ君は僕と薔薇を交互に見て、戸惑いつつも目の前に差し出された花束を受け取る。

    「僕もシンジ君に何かプレゼントしたかったんだ。でも僕はシンジ君のように料理は得意ではないし……、僕が用意できるものはこれくらいで」

     受け取ってくれたことに内心、安堵しながら、その小ぶりな花束を持ったシンジ君を見て、やはりもう少し豪華な花束を作りたかったな、と思う。
     小学生になってから、初めて小遣いと言うものを貰った。今まで欲しいものがあれば、言えば手に入る生活だったので(とは言っても自分から何かをねだった記憶はない)、金銭自体を与えられたことはなかったのだが、加持さんから自由に使って良いお金というのを、月に一回渡されるようになった。
     一般的な金銭感覚を養うだとか言っていたけれど、だとしたら大成功だ。今回、僕は花が意外と高いと言うことを、初めて知れたのだから。何に対しても無関心だった自分の物欲のなさに感謝したのはこれが初めてだ。まあ、今まで使い道がほぼなく、財布に入れていただけの硬貨を全て注ぎ込んでも、自分に用意できたのはこの程度だったが……。

    「わざわざ、買ってくれたの……?」
    「本当はもっとたくさん買えたら格好がついたのかもしれないけれど……」
    「っううん、そんなことないよ、嬉しい、ありがとう……。僕、花束を貰ったのなんて、初めてかも」

     嬉しそうに花束を見つめるシンジ君に、僕も嬉しくなる。喜んで貰えて良かった。来年こそは、もっと立派な花束を用意出来るように頑張ろう。

    「君の初めてを貰えるなんて、僕も嬉しいよ」

     シンジ君は僕の言葉に少し顔を赤くしたような気がするけれど、嬉しさからだと思ってにこにこと彼を見つめていた。


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