眼鏡を外して、目頭の辺りを軽く揉む。視力が落ちて眼鏡の度が合わなくなってきたような気がする。僕が選んだ大きめの丸眼鏡でフレームは細目だ。事故の後遺症で視力が落ちたので買ったものだがこれまた自分の中ではよく似合っている。
「お前眼鏡なんかしてたのか?」
「あの時は着けてなかったから。眼鏡がなくても今の距離ならKKの顔は見えるけど」
「そりゃ向かい合って座っているからな」
テーブルに眼鏡を置いて、KKと目を合わせる。たまたま街中でKKとあってお茶にしようと僕から誘ったのだ。オープンテラスの席で自然の音を聞きながらコーヒーを飲むのって良いよね?シュガーポットから砂糖を山盛り一杯掬ってコーヒーに入れる。
「甘党か?」
「別に」
別に苦いのが苦手なわけではない。ただ単に甘い方が好きなだけだ。僕はスプーンでかき混ぜると一口飲む。うん美味しい。僕の表情を見てKKもコーヒーを口に含む。
「そういえばお前さぁ、この間の件だけどよぉ・・・」
「あーあれか。後片付け手伝ってくれてありがとう」
部屋の中でポルターガイストが発生してガラスや陶器の破片を片付けていたのだ。おまけに麻里が買ってきたお守りやお札も全部ダメになってしまった。
「ああいった物って効果合ったのかな?麻里が僕の記憶が戻りますよーにって、でも関係ないものばっかだけど」
「そのために買ったやつなのか」
「そう。まあ、事故起こして記憶喪失になって唯一の家族である妹のことを忘れるなんて最低だよな」
「その妹さんが可哀想だな」
「そうだね。だから早く思い出したいんだけど」
カップを持つ手に力が入る。この話になるとどうしても気持ちが沈んでしまう。そんな様子を見かねたのかKKが話題を変えてくれた。
「この前、絵梨佳が無くした猫のキーホルダー探してくれてありがとうな」
「そんなに感謝しなくても良いよ、ただ当たり前の事をしたまでだし」
「その事で凛子と喧嘩してたんだよ。俺が探しに行ったかが見つからなかったが暁人が見つけてくれたお陰で仲直り出来たんだ」
「それは良かったね」
コーヒーを一口飲んでから話題を切り替える。
「KK、最近さ、不思議なことが起きたんだよね」
「またポルターガイストか?」
「違うから、前に花屋に行った時・・・」
先週辺りに散歩してたときに花屋に立ち寄って、まだ蕾だったカサブランカを手にした途端、開花したのだ。まるで僕が持つことを待っていたかのように。
「ってことが本当にあって、その証拠に」
さっき買ってきた花束を手してKKの前で揺らすと白い百合の花が咲いた。
「うおっ!どうなってんだそれ!?」
「僕にも分からないけど、こんな経験は初めてだよ・・・」
僕は笑みを浮かべて空を見上げる。雲ひとつない晴天だ。
「・・・綺麗な空だな」
「そうだな。そういえば明日は雨らしいぞ」
「そっか。じゃあ今日はもう帰ろうかな。また連絡するよ」
僕は椅子から立ち上がると、荷物を持って歩き出す。会計を済ませてKKと別れる。
「おう、またな」
「じゃあね」
俺は見逃さなかった。暁人が歩いた跡に草木が生えていたことを。そして、彼の背中が見えなくなった後に、草木が成長していることも。あいつはそんなことも気づかずに歩き、花が咲いて、草木は枯れた。
****
「ただいま~家に迷わずに帰って来れたよ~」
兄が家に帰ってくる。手には紙袋を提げて花束を抱えている。花束には白い百合の花が咲き乱れていた。眼鏡が少しずれて鼻の上に乗っかっている。花瓶に水を入れると、花束をばらして茎を切って長さを整えてから花瓶に飾った。
「紙袋開けて良いから」
私は言われるままに紙袋を開ける。中には鉢植えの観葉植物が入っていた。
「これ、何の植物?」
「アロエだってさ。ほらサボテンみたいな形してるでしょ?」
「へぇー、何か育てるの初めてかも」
「大丈夫、育て方は店員さんにバッチリ聞いたし!」
眼鏡を頭に乗せてサムズアップをする。なんだろう、記憶喪失になってからお兄が前向きになっている気がする。最初は自分が誰だから分からないって感じでオロオロしていたけど、最近はこうして積極的に行動するようになった。
兄はリビングのソファに座ってスマホを手に取る。画面をタッチして操作しているみたいだけど、指の動きが速くてよく見えない。急に手を止めたお兄ちゃんが顔を上げた途端、頭を抱えた。
「行った時に墓参り用の花まで買えばよかったぁ!あの時完全に部屋に飾る花の事しか考えてなくて父さんと母さんの墓参りのこと完全にすっぽ抜けてたぁ!今から買いに行っても間に合うかなぁ!?」
突然早口で喋り出した。しかも内容が支離滅裂だ。
「ちょっと落ち着いて」
「あーごめん、つい取り乱しちゃったよ」
「別に良いよ。私も一緒に行くから」
「・・・」
「どうしたの?」
「・・・ちがつ」
突然、兄の口から出た言葉に一瞬呆然とした。
「いや、何でもない。うん、何でもないから、うんうん。行こう」
「・・・?まあ、いいけど」
どこか様子がおかしいような気がするが、今は気にしないことにした。
****
「お兄ちゃん、これ似合いそう」
「そうかなぁ」
「うん、試着してみようよ」
「わかったよ」
麻里に言われて試着室に入った僕は鏡を見ながら服を脱いで、渡された服に着替える。Vネックの薄緑のトップスにカーキ色のハーフパンツだ。
「お兄ちゃん、開けて良い?」
「えっ!?」
「ダメなの?」
「ダメじゃないよ」
「じゃあ開ける」
カーテンが開かれる。
「どうかな?」
「似合ってるよ!あと家帰ったら髪の毛ウェーブにしていい?似合いそうだから」
「・・・?いいけど、別に」
服を購入して帰宅すると、腰まで延びた長い髪をヘアアイロンで巻く。内巻きにしたり外ハネさせたりして遊んでいるうちにあっという間に時間が過ぎていった。
「できた!可愛いよ、お兄ちゃん!!」
「そ、そうかな・・・」
「照れてるところも最高だよぉ!!写真撮っても良い!?」
「ダメだよ!恥ずかしいし」
記憶を失う前の僕だったらどんな風に返事をしたんだろう。と、ふと思った。
「まあいっか」
****
それから数日間、僕は毎日のように出掛けていた。最初は一人で街を歩いていたのだが、心配を理由に途中から麻里が付いてくるようになった。今日は公園に来ている。
「・・・」
ベンチに座って空を見上げていると麻里が缶を頬に押し付けてきた。
「はい、飲み物」
「ありがとう」
受け取って中身を見ると、コーヒー牛乳だ。一口飲むと、喉の奥がシュワッとした感覚に襲われる。
「どう?」
「美味しい」
「良かった」
二人で並んで座っていると、肩をトントンと叩かれた。振り返ると、頬を指先で突かれる。
「うわっ!」
「あはは、ビックリしたでしょ!」
悪戯っぽい笑みを浮かべて麻里は笑った。その表情を見てドキッとする。
「びっくりさせないでよ」
「ごめんね、そんなつもりは無かったんだけど」
彼女の笑顔に思わず見惚れてしまう。こんなに可愛かったけ?
「お兄ちゃん、私の顔に何かついてる?」
「何も」
記憶を失ってから自分の気持ちが分からなくなることがある。今まで妹の事をこんなに意識したことが無かった。でも、最近になって胸がドキドキして仕方がない。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何?」
「記憶、早く戻るといいね」
「うん」
もし、このまま戻らなかったら、僕はどうなってしまうんだろう。そんな考えが過って不安になっていた。
「別にいいや」
「どうしたの?」
「なんか自己解決しただけ」
「そう?」