「へいらっしゃい!」
茜色の暖簾を潜って来店したモクマを威勢の良い大将の声が出迎える。ここは店内10席ほどの小さなうどん店だ。メイン通りから一本外れた細い道のどん詰まりに構えているこの店は知る人ぞ知る名店らしかった。らしい、というのはモクマがこの街へやってきて手にした雑誌に小さく書かれていた記事のキャッチコピーを目にしただけだから。
今日は街の偵察がてら、美味しいうどんを求めてやって来たというわけだ。店内は清潔感があり、奥にはテーブル席もある。これで味が一級品であれば、チェズレイを連れて行きたいなと思った。
カウンター席の木製椅子に座ったモクマは、テーブル上の小さなお品書きに目を通した。
定番のぶっかけから、たぬき、きつね、かきあげ……と色々な種類がある。
モクマは一通り悩んだ後、「月見うどん」を注文した。
「お水とおしぼりどうぞ」
脇から水の入ったコップと熱々のおしぼりがやって来る。見上げると、看板娘の黒髪の女性がにこりと笑いかけた。
「どうもね」
家族経営なのだろうか、店内は調理担当の大柄な大将とホール担当の女性しか姿が見えない。
「あいお待ち!」
カウンターに丼が置かれる。モクマは両手で丼を包み込み、そっと持ち上げる。鰹節で丁寧に取った出汁の濃い香りがモクマの食欲を刺激した。
「うーん、うまそう!」
黄金色の汁の中に沈む真っ白な麺。その上に正円の黄身が乗っている。周りを彩るのはサクサクの天かすとしっとりわかめ。
モクマは顔の前で両手を合わせた。いただきますと呟き、お盆に備えられている漆塗りの箸を手に取る。
左手に持ったうどんの杓子を汁に付ける。
瞬間、モクマの箸は頭上から降ってきた刀身を摘み上げていた。二本の細い棒で白刃を受け止められた不届き者の息を飲む音が聴こえる。
モクマは小さくため息を吐く。箸を握る腕を素早く曲げて後ろへ振り抜く。肘鉄がモクマの背後に立つ男のみぞおちを打つ。
「がっ……!」
床に倒れ込んだ刺客の顔を確認しようと腰を捻ったところで、今度は左側から風切り音。
「フッ!」
モクマは咄嗟に左手の杓子を横へ凪いだ。うどんのつゆが弧を描いて飛び散る。アツアツの汁がもう一人の仲間の目にかかった。
「ぎゃッ!」
目潰しされよろめく男の手からナイフが落ちる。
モクマはすかさずそれを草履で蹴り飛ばした。厨房の床へ飛んだナイフを拾い上げたのは、大柄な大将。
穏やかな食事時間に闖入者が現れてしまったことを謝ろうとしたモクマは、目の前の光景に目を見開いた。
「きゃああーー!」
大将が、拾い上げたナイフを女性店員の首筋に押し付けていたのだ。
「動くなよ、モクマ・エンドウ」
「……………」
女性を引きずって厨房から出てきた大将がモクマと相対する。
「もしかして、おじさん誘い出されちゃった?」
「そうさ。この店はてめえを誘い入れる為の檻。名店のうどんをダシにされた気分はどうだ」
「ははは、上手いこと言うねえ」
モクマの背後で二人の男がゆらり立ち上がる。先程倒した男たちに取り囲まれた。
「さあ、俺たちと来てもらおうか。断われば、……分かるよな?」
大将のナイフが女性の首に押し付けられる。女性は恐怖に顔を引きつらせ、声も出せなくなっていた。
モクマは女性の栗色の目をじっと見つめ、安心させるために微笑んだ。
「……――」
息を吸い込み、眉間に力を入れる。
相手が警戒するよりも先にモクマが動く。
下げた腕を素早く羽織にしまい、目的の物を掴んですぐ、親指を弾く。
「がっ……」
モクマから弾丸の如く飛んできたモノがナイフを掴んでいた大将の指を弾いた。ナイフが宙を舞う。その柄を狙って、もう一発。モクマは裾から指はじきで弾丸を飛ばした。
モクマの羽織から飛び出た飴玉(『おろしにんにく焼肉味』)がナイフの柄に当たる。さらなる推進力を得たナイフは天井へ向かってまっすぐ飛び上がった。
カンッ!と高い音と共にナイフの刃が天井の木目へ突き刺さる。
モクマは女性の腕を自分側へ引き、大将を足で蹴飛ばす。大柄な男は簡単によろめき、倒れた。
大将の仇とばかりに二人の男が飛びかかってくる。
一人は刀を振り上げてきた。女性を背中へ庇い、寸前で身を翻す。刀を床に叩きつける格好の男へ、モクマは足を振り降ろす。踵落としが男の背中に決まる。
「ぐえっ……!」
「どりゃああ!!」
もう一人が太い腕を振り抜く。モクマは咄嗟に右腕を曲げて受け止めた。パンチが重い。肘がビリビリと痺れる。
硬直するモクマへもう一発パンチが飛んでくる。
避けたいところだが、後ろには女性店員がいる。自分が盾になるしかない。
「おらっ!」
「セイッ!」
モクマはカウンターにおいてあった一味の瓶を男目掛けて投げた。空いた瓶から赤い粉が降る。
辛味成分たっぷりの粉が目や口に入ればどうなることか。針を刺すような刺激と熱にやられることだろう。
痛みを想像した男が恐怖にのけ反る瞬間をモクマは見逃さない。自分より大きな腕を片手で捻り上げ、床へ叩きつける。
男の背中に乗り、首を締め上げる。
「ぐっ……、うっ…………」
気絶した男がぐったりと床に伏せたのを見届けて、モクマはようやく深い息を吐き出した。
「……怪我はない?」
カウンターの前で縮こまっている女性へ尋ねる。見たところ大きな怪我はなさそうだ。
「は、はい」
モクマは「そう」と笑って、自分の座っていた席へ戻った。
丼の中はすっかり水分を失っている。その代わりふやふやになってしまった白い麺と黄色い天かすが存在を主張していた。
「あーあ、奴さんだけじゃなく麺ものびてら」
モクマは眉を下げ、女性店員へ丼を指さした。
「作り直してよ、チェズレイ」
チェズレイと名指しされた女性は、ぱちくりと瞬きをした後に肩を震わせ始めた。
「フフフ、いつからお気づきに?」
黒髪の女性の喉から聞き慣れた男の涼やかな声が聴こえる。顔に細い指を持ってきたと思えば、とたんに女性の皮から長身の男性が現れた。性別も背丈も誤魔化せてしまうチェズレイの秘技はいつ見ても圧巻だ。
「なんだっけ。うどんをダシに誘き出した〜とか言ってたとこ。俺がそもそもこの店を見つけたきっかけって、お前が持ち込んだ雑誌記事だったんだよねえ」
「フ、ご明察。あなたを囲い込むための偽の記事をでっち上げたのですよ」
モクマはくるりと後ろを向き、床に寝ている男の顔を撫でた。顎のあたりをくすぐり、ペリペリと樹脂を剥がす。口元の変装を解いてやった。
「そんで、最初に俺を襲ってきた男の目に見覚えがあった。……ああ、やっぱり。ヴィンウェイでスカウトした構成員だ」
となれば、大将も残りの男も自分の組織につく構成員たちなのだろう。いったい何と唆されてモクマを襲う役目を引き受けたのだろうか。
「唆したなど人聞きの悪い。彼らはみな、あなたの実力を見たいと息巻いていたのですよ。まあ、丁度いい訓練にもなりましたかね」
そう言いながらチェズレイは菫色のエプロンを身につけ、厨房へ入っていった。
「ありゃ、本当に作り直してくれるの」
「ええ。茶番に付き合って頂いたお礼です」
チェズレイが頭に巻いた白いタオルを力強く左右へ引っ張る。何だか気合が入っている。
「では、私の修行の成果をお見せしましょう」
「え? お前さん、俺に隠れてなに修行してたの」湯切りてぼを構えたチェズレイが誇ったように笑った。
「モクマさんを倒すのは私の役目。圧倒的に美味しい月見うどんであなたを打ち負かしてみせましょう」
かくして今度は美食バトルが始まったのだった。