「う〜〜〜ん」
大きく開いた足の間、フローリング床に広げた紙を見下ろしてモクマは唸り声を上げた。羽織の裾に引っかかっていたちびた鉛筆を摘み、鼻の下と上唇でそれを挟んで天井を仰ぐ。
紙には黒鉛の線で走り書きされたいくつかの単語が並ぶ。その上にはマルやバツ印が散っていた。まるで競馬新聞を広げて投資する馬券に悩むおじさんの思案模様に思えるが、モクマの悩みの種は馬ではない。いや、じゃじゃ馬という意味ならばそうかもしれない。
数日前、長毛種の馬の毛並みに似たサラサラとしたプラチナの髪を月夜に靡かせて、モクマの相棒が放った言葉にモクマは頭を悩ませている。
――次の滞在地でのホテル選びをあなたへお任せします
チェズレイと同道して半年。渡り歩いた街はそろそろ両手の数では足りなくなるというところだった。
その半年間すべて、二人が滞在する拠点を用意していたのはチェズレイだった。
ある時は彼が使用していた一軒家タイプのセーフハウス、ある時は高級感あふれるラグジュアリーホテル。
それまで薄汚れた安宿で寝泊まりしていたモクマには一生縁のないタイプの建物ばかり。
今滞在しているここも最上階ワンフロアまるごと貸し切りのプラチナスイートルームである。モクマが座っているリビングの後ろには寝室が2つ。そのうちの1つでは、チェズレイがタブレットを駆使して次の国で行う仕事の下準備をしている。
モクマは準備のうちの1つ、滞在拠点選びを任されたわけだ。
「あ〜」
尖らせた唇を大きく開き、大の字に寝転がった。モクマの口元から転がり落ちた小さな鉛筆が床を転がっていく。綿埃ひとつ見つからない綺麗な床の上に仰向けになって、モクマは唸った。
任された以上、チェズレイのお眼鏡に適う場所を選びたい。失敗出来ない。
(しくじったら「あなたとは一緒にいられません」って約束を破棄されちゃわない? 仲の良い夫婦もいざ新居選びとなると意見が合わなくて離婚危機 みたいなことも良く聞く話だし。いや、俺とチェズレイは新婚夫婦とは訳が違うが、寝食共にしてるって意味じゃあ、そこいらの夫婦と同じであって……)
夫婦と違うのは二人を繋ぐものが法的拘束力をもつ婚姻届けや契約書などではないこと。二人を繋ぐのは小指に結んだ同道の誓いのみだ。
(失敗したら小指詰めるとか言わんかね)
嫌な想像をぶんぶんと首を振って払う。
試されていると思った。モクマがチェズレイにとって有用で有益で日常生活から任せられる男かどうか。よくて、ゲームとしてからかわれているといったところか。
いずれにせよ、チェズレイはモクマがどのような拠点を選ぶのか楽しみにしている。モクマがズボラでだらしない性格なのは出逢った当初から知られているので、今更見栄を張れるほどの期待値は残っていないだろうが、幻滅はされたくない。好きな子にはカッコつけさせて欲しいのだ。年上の矜持として。
そんなわけでモクマは、床に広げた紙と数時間にらめっこをしている。これまで過ごしてきた拠点の特徴をかき集め、チェズレイが気に入りそうな高級感あふれるホテルや別荘地を候補に上げて紙に書き連ねる。しかし、そこから絞り込めない。一長一短、決め手にかけるのだ。
悩むのも面倒だし、六角形の鉛筆に選択肢を彫って転がしてサイコロのように決めてしまうか。
「いいや……」
モクマは上体を起こし上げた。
「もういっそ、あいつに3択で選んでもらっちまお」
「チェズレ〜イ、休憩にしない?」
ノックと同時に寝室へやってきたモクマに声をかけられ、チェズレイは顔を上げた。鼻をすんと鳴らす。薫り高い豆の香りに目を眇める。
モクマは両手にトレイを持ち、こちらへ近づいてきていた。
「ホットコーヒー淹れてきたよ。ここらでほっと一息、なんつて」
「……お気遣いをどうも」
モクマの戯けた「ホットコーヒー」と「ほっと一息」の駄洒落を無視し、チェズレイはトレイを見下ろした。
コーヒーが注がれたカップの脇に、スティックシュガー、ミルクが添えられている。
モクマと出逢う以前ならばブラック一択だったが、今は砂糖やミルクを混ぜて甘さと濁りを楽しむことも覚えた。その日の気分で味をかえる楽しみを知った。
今日は甘みが欲しい気分だった。下準備のための脳内会議で頭を使ったので糖分を摂取しようと思い、チェズレイはシュガースティックを破ってブラックコーヒーへ注ぎ入れた。
「ところでモクマさん、次のホテルは決まりましたか?」
砂糖のみを入れたコーヒーを一口含んでから、チェズレイは尋ねた。そろそろ目的地である次の国へ移動してしまいたい。
見上げるとモクマはにっこりと笑っていた。
「うん、今お前さんのおかげで決まったところ」
「……そうですか」
チェズレイがコーヒーに何を加えるか、または加えなかったかで、モクマが拠点を決めていると知ったのはもう少し後のお話し。