悪魔はイタズラもお菓子もお好き「お菓子か、いたずらか。選んでいいよ、ディミトリ」
一節ぶりにフェルディアへやってきた灰色の悪魔は、菓子を山ほど盛った籠を下げて大真面目にそう言った。何のつもりなのか、頭には悪魔の角を模した髪飾りをつけいつも短剣を下げている剣帯の背面には悪魔の尻尾までくくりつけられている。
待望の待ち人の来訪に無理矢理に時間をつくって謁見したディミトリは、そのなんとも愛らしくも奇妙な姿に目を瞬かせた。
「ええと……ベレス。俺には状況がよくわからないのだが」
「とりっくおあとりーと、と言うらしい。この間立ち寄った村で、そういうお祭りを今の時期に行うのだと聞いたんだ」
「とりっくおあとりーと」
「お菓子をよこせ、さもなくばいたずらするぞ、っていうんだって。仮装した人たちが村を練り歩いて、いろんな家を訪ねてそう言うんだ。お化けの来た家は、いたずらされないようにお菓子を用意しておいて、やってきたお化けに配るんだよ」
だから、はい。と籠を差し出されてディミトリはますます困惑する。
地方にはその土地ならではの風習があるものだ。だから、お化けが菓子をせびる祭りがあってもおかしくはない。久しぶりに会いに来てくれたベレスがすっかりその祭りにかぶれてしまったのに、理解が追いつかずディミトリは困惑を隠せなかった。
「あなたは、もしかしてその祭りを俺と楽しむために?」
「うん、そう。お菓子をくれるなら一緒に食べたいし、くれないならいたずらする」
「あ、ああ……そうか。趣旨は理解した。だが生憎と、今すぐに菓子を用意するのはなかなか難しいものがある」
「じゃあ」
きらり、とベレスの緑色の瞳が輝いてじりじりとにじり寄ってくる。人払いはしてあるとはいえ公務中にいかがわしい行いは憚られ、ディミトリは慌てて首を振った。
「ま、待ってくれ。まだ日のあるうちにイタズラだとかそういう、その、アレなことをするのはどうかと思う」
「アレなこと?」
「イタズラとはアレなこと……ではないのか?」
きょとん、と目を丸くするベレスと、頬を朱に染めて恥じらうディミトリ。お互いの勘違いを理解しているのはディミトリの傍らに控えていたドゥドゥーだけで、慎ましい従者は微かに眉を寄せたものの鉄壁の沈黙を保っていた。
「ちなみに、あなたはどんなものを想像していたんだ」
「くすぐるとか、顔に落書きするとか……」
「……そうか。すまない、俺の思い違いだったようだ。忘れてくれ」
「うん……? うん、君がそう言うなら忘れるけど」
あらぬ想像をした己を恥じて、ディミトリは耳まで赤くなっている。ベレスはひたすらに不思議がっているが、やはりドゥドゥーは黙して何も語らない。なんとも言い難い微妙な空気を振り払うように、ディミトリはわざとらしく咳払いをした。
「あなたの意図していることは理解した。生憎とこの後も少々謁見が残っているので、その後でよければ喜んでつきあおう」
「本当?」
「ああ。だが、そういうものこそ傭兵団の皆と楽しんだほうがいいのではないか? 俺だけではつまらないのでは」
「君がいいんだ。団のみんなには、シェズがお菓子を配ってくれてる」
「そ、そうか」
断固として揺るがないベレスにやや怯みつつも、ディミトリは内心の喜びを抑えきれなかった。なにせ子供の頃から王族だからと遠巻きに貴賓席から祭りを眺めることしかできなかった身だ。こうして自分と一緒がいいのだと気軽に誘ってくれる相手など初めてで、それが愛する人であるなら喜びは何倍にも増す。
ディミトリだって本当はもっと気軽にベレスを遠乗りに誘ったりして逢引したい。未だ彼女は秘した恋人だから、それも大層な理由をつけなければならないのだけれど。
(それにしても、シェズは何をしているかと思ったら……そういうことだったのか)
戦後も私兵団の隊長を続けてくれている友人が、最近やけに足繁く城の厨房に通っていたのを思い出す。アッシュやドゥドゥーだけでなく、王都にいるメルセデスやアネットとも額を突き合わせるようにしてなにやら考えているようだったからそう心配はしていなかったが、まさかジェラルト傭兵団に菓子の差し入れをしていたとは。
シェズにはベレスと連絡を取り合うときの使者も任せていたから、きっとその時に相談されたのだろう。自分が頼んだことではあるが、ほんの少し嫉妬してしまう自分に自己嫌悪を覚える。
(シェズに嫉妬するのは違うよな。俺がベレスのところに行くよう頼んでいるんだから。こうしてわざわざ会いに来てくれるベレスにも悪い)
ディミトリは内心のざわつきを押し殺すと、傍らのドゥドゥーに頷きかけた。心得たドゥドゥーが予定を調整するべく謁見の間をするりと出ていく。
「では、執務が終わるまで別室を用意しよう。そちらで待っていてくれ」
「それでもいいんだけど……ただ待っているだけというのもつまらないし、このまま君の近くにいては駄目?」
「俺の?」
「護衛とか、そういう感じで。もちろん、聞いた話は誰にも漏らさないよ」
「それは、構わないが……面白い話ではないぞ?」
ベレスの意図はわからないが、謁見陳情にやってくる人々の中には耳を塞ぎたくなるような話も少なくない。そうした話に動じるベレスではないとしても、平民を軽んじる貴族や女性をもののように扱う商人の話などは聞いていて心地いいものではないだろう。
だがベレスは全く動じることなく、けろりとした様子で答えた。
「いいよ、そういうのは期待してない」
「あなたがいいと言うのなら、断る理由もないな」
戦争中も、軍議や会議にベレスや父親のジェラルトが参加するのは珍しいことではなかった。国の運営に関わるような重要な謁見ならともかく、陳情や挨拶のための謁見にベレスが同席しても問題はない。
「じゃあ決まりだね。こっちに立てばいい?」
「ああ、そうだな……ええと、その耳と尻尾は、外したほうがいい」
「あっ、忘れてた。君の分も用意してあるから、後でつけてね」
「あ、ああ」
やけに楽しそうなベレスはついディミトリが口元を綻ばせてしまうくらい可愛らしい。きっと世の人は灰色の悪魔と恐れられる彼女が、こんなにも可愛いなんて知らないだろう。彼女の可愛らしさは自分とジェラルトだけが知っていればいい。
その優越感は、簡単に先程の些細な嫉妬など吹き飛ばしてしまって。ディミトリはいそいそと傍らに立つベレスの気配に心なしか表情を和ませ、次の謁見者を呼ぶよう衛兵に指示を出すのだった。
全ての謁見が終わり、いつもならば夕食に誘う時分。仮装したディミトリを前に、ベレスは満足そうに頷いていた。
「うん、上出来」
「そう、だろうか……俺のような大男がこんな格好、奇妙に映るのでは?」
「とても可愛いよ。大丈夫、私しか見ていない」
恥じらうディミトリがつけているのは狼を模した耳と尻尾だ。ふさふさした尻尾を腰帯にくくりつけ、耳の付いた髪飾りをつけた姿はディミトリ自身には奇異に見える。だがベレスは大変にご満悦で、何度もディミトリの周りを回っては観察し、感嘆の声を上げていた。
「鏡、見てみる?」
「いや、遠慮しておこう。それで、菓子だったな」
「イタズラは嫌かな」
「あなたはどちらがいい?」
ベレスの考えるイタズラはきっと健全で可愛らしいものだろう。それならそれで構わないが、普通は菓子を配るものと聞いたから謁見の間にドゥドゥーに山ほど用意してもらったものがあるので、どちらにしても彼女に食べてもらうつもりでいた。
ベレスはいたずらっぽく目を輝かせ、それから可愛らしく鼻をひくつかせる。
「うーん。やっぱりお菓子かな」
「だろうな。安心してくれ、たくさん焼いてもらった」
「でもイタズラもちょっと興味あるかも……」
「本当に、何をするつもりだったんだ?」
「ふふ、気になる? じゃあ、後でね。せっかくだから焼き立てのお菓子を先にいただこう」
ベレスはひらりと身を翻し、作り物の尻尾を器用に捌いて椅子に腰掛けた。ディミトリもそれに倣って、細長い尻尾を捌いてから恐る恐る腰を下ろす。腰から下になにやら引っ張られる感触があるのはどうにも馴染まないが、ベレスが喜んでくれるのは純粋に嬉しかった。
「いただきます」
ベレスは早速焼き菓子に手を伸ばし、サクサクと小気味良い音を立てて菓子をかじっている。その様子は小動物を彷彿とさせ、自然とディミトリの眦は緩んでいた。
「……ん。うん、やっぱり、おいしいね」
「あなたに気に入っていただけたなら、ドゥドゥーも喜ぶだろう。どんどん食べてくれ」
「君は食べないの?」
「もちろん、いただくさ」
本当は、あまり積極的に食べるつもりにはなれない。ダスカーで父や友人らを亡くし、失った味覚は戦争が終わった今も戻らず、過去の思い出を頼りに美味しいというふりをしなければならない。もう美味しそうな素振りを見せるのにも慣れてしまったが、ベレスの全てを見透かすような眼差しにさらされるといつか本当は味がわからないのだとわかってしまうのではないかと不安になる。
「すごくいい体格をしているのに、ディミトリは少食だよね。ジェラルトとは大違いだ」
「冬のファーガスは食料に乏しいからな。王族の俺たちが率先して食料を節約できるよう、少ない量で満足できるように教えられるんだ。もっとも、父上は食べられる時にはもっと食べていたように記憶しているから……俺の体質かもしれないな」
「そうなんだ……王様は大変だね」
「まったくだ。だが、あなたの食べている様子を見ているだけでも俺は十分だよ。一緒に食事をしていて、こんなに楽しい相手はいない」
「流石におだてすぎだね」
「本心だぞ? あなたは本当に美味しそうに食事をするからな」
普段は表情に乏しいベレスも、食事時となれば話は別だ。目を輝かせ、一口頬張っては嬉しそうに微笑む様子は大変に愛らしく、ろくに味の分からないディミトリにも食事の楽しさを教えてくれる。特にベレスは普段との落差の大きさもあいまって、ディミトリにとっては最も楽しい食事の時間だった。
ベレスはぱしぱしと目を瞬かせ、それから残りの焼き菓子を一口に頬張った。もぐもぐと咀嚼をし、飲み込むまでをたっぷり見つめるディミトリに微笑を浮かべる。
「私も君との時間は好きだよ。たくさん食べても、笑って許してくれるでしょう? それに」
「それに?」
「君の色んな顔を見るのが好きなんだ。さっきも、謁見の間ずっと君を見てた」
「俺の? そ、そんなにおかしな顔をしていただろうか」
「逆だよ。ふふっ、今の君は可愛いけど、謁見中の君はかっこよかったなあ」
かっこいい、と言われてディミトリは赤面した。外見を褒められることは多いけれど、ベレスの言うそれはなんだか響きが違って聞こえる。立派な王としてやっているのだと背を押されたような気がして、赤面したまま手元の焼き菓子をかじる。
「ありがとう、あなたにそう言ってもらえるのは嬉しい。俺も、もっとあなたの色んな表情を見たい」
「つまらなくないかな?」
「とんでもない! あなたのどんな表情だって、俺は好きだよ」
ベレスの目が一瞬丸く瞠られ、それから彼女は少しはにかんで俯いた。それは照れているようでもあり、困惑しているようでもあり。思わず見惚れるディミトリに、彼女はぽつりと言った。
「もう一回、言って欲しい」
「もう一回?」
「うん。もう一回」
何を、と聞こうとしてやめる。この空気で、この雰囲気で、ベレスが求めている言葉なんて朴念仁のディミトリにだってすぐ分かった。まだ籠のなかの焼き菓子は残っているのにベレスの手はただ卓の上に置かれているだけで。それも察して、こわごわその手に自分の手を重ねる。
「……好きだ」
ベレスが顔を上げ、彼女の美貌に喜びをにじませた笑みが広がっていく。どうやら自分は答えを間違わなかったらしいと知って、ディミトリは重ねた手に指を絡めた。ベレスの方もそれに応えてきて、卓の上で甘やかに指が絡み合う。
「君の色んな表情が好きだけど……私に好きだって言ってくれるときの顔が、一番好きかもしれない」
「そう、なのか」
「かっこいいけど可愛くて、君のいいところが全部詰まってる。ねえ、もう一度言って」
「何度でも。好きだ、ベレス。もっとずっとあなたといられればいいのに」
「じゃあ、君が傭兵になればいい。きっとすぐに二つ名がつく」
「ははは、そうできれば……どんなに幸せだろうな」
王でない自分を、王族として生まれなかった自分を、想像したことは何度もある。けれど、それは空想に過ぎず一人きりで夢想するのは虚しさを伴っていた。
ベレスの想像は夢物語に過ぎず、ディミトリの立場を深く理解していないからこそのあり得ない話ではある。だが、そうしてベレスと無邪気に架空の未来を想像するのは楽しかった。
王と傭兵。まるで立場は違うけれど、だからこそ噛み合うものがある。まるで違う自分たちの間に共通するものを見つけて嬉しく思う。
本当はそこに未来なんてないのかもしれない。傭兵として自由に生きる彼女を、王妃にして王都に閉じ込めるのは忍びなかったし、彼女もそれを望むとは思えなかったから。
(ああ……だが、それでも……俺は、あなたが欲しい)
いつか、自分が年を経て退位したら一緒にいられるだろうか。そもそも、彼女がそれまで待ってくれる保証はなかったしあまりにも身勝手すぎる願いだったから口にしたことはない。今のように気ままに訪ねてくる彼女と褥を共にするこの距離感が適切とも思えず、しかし彼女を束縛するような男ではありたくないと願うゆえにディミトリはずるずるとこの関係を続けていた。
ベレスはしばらくディミトリと指の戯れを続けていたが、ふと片眉を上げて彼の顔を覗き込むとクスリと笑ってディミトリの鼻をつんつんと突いた。
「ベレス?」
「おなか、いっぱいになったね。じゃあ、イタズラしようか」
「菓子を出せばイタズラされないのではなかったのか」
「だって、今度は君の番だもの。私は自分のお菓子を持っていないからね」
きょとんと目を瞬かせるディミトリに、ベレスが浮かべた笑みはどこか艶めいている。視線にはある種の色が含まれていて、そこでディミトリはようやく彼女の意図を察したのだった。
「……菓子が冷めてもいいのか?」
「ドゥドゥーのお菓子は冷めても美味しいよ。でも、私は冷めたらまずいかも」
「今が食べ頃、ということか?」
「多分、ね」
椅子を立ち、伸ばされた腕の中に身を滑り込ませる。顔を近づけると、ベレスからは先程食べた菓子の甘い匂いがした。口の端に小さな菓子のくずを見つけて、ぺろりと舐め取るとわずかに甘みを感じる。菓子の味ではないだろう、これは。
(ベレスの、味だ)
身体を重ねるようになって数節、どんどん彼女はディミトリを誘うのが上手になっていく。もうすっかりその気になってしまったディミトリに抱え上げられても、楽しげに笑って首に腕を絡めてくるくらいには、余裕に見えた。
大股に寝台へ向かうディミトリにすっかり身を預け、ベレスはディミトリの頬に自分の頬を重ねてくる。なるほど、食べ頃とは言い得て妙でその頬は少し熱かった。
「ディミトリ」
「もう、食卓に戻るとは言わせないぞ?」
「お菓子は、もう十分だよ。そうじゃなくて」
すり、と甘えるように頬が擦り付けられる。どれだけこのひとは自分を煽ってくれるのだろう。寝台がやけに遠く感じて、ディミトリの歩幅は更に広くなった。
「来年も、一緒にこうして君とお祭りを楽しみたいなって」
「……あなたが望むのなら、いくらでも」
「本当に?」
「ああ、約束しよう。王国の、蒼き旗に賭けて」
「大げさだなあ。でも、君のそういうところ、好きだよ」
薄青の敷布に、ベレスの鮮やかな緑の髪が広がる。褥に横たえられた彼女は期待に目を輝かせ、ディミトリが覆いかぶさってくるのを待っていた。
「ええと……とりっくおあとりーと、だったな」
「うん。美味しく食べてね」
「もちろん。大事に大事に、いただくとしよう」
ひとたび同じ寝床に身を投げれば、ディミトリが抱える憂いも何もかも熱に溶けてなくなってしまう。ぞくぞくするようなその瞬間にごくりと喉を鳴らし、互いの着衣に手をかけて。
王と傭兵は、そのひとときだけただの男と女になって寝台に身を沈めるのだった。