からくりだらけの天守を越えたら、渡り廊下を越えてまた次へ。
捜査の末に辿り着いた『元城住みルート』、水の天守のかつての主は、何十年越しの恋の残り香を自室に置いて飛び立っていた。
(すこしくらいは足が鈍るかと思ったが――)
罠を飛び越え、足音ひとつ立てずに、風のように、走る、走る。前を行く黒装束の背に、迷いはひとかけらも伺うことはできなかった。
(本当に、『覚醒』した、と……)
追いかけて走りながら、ふと見上げれば真っ暗闇の夜の書き割りをくり抜くように、針のような三日月が輝いている。
そっと胸に手を置く。仮面のかたちのピンの向こうで、心臓がやかましく鳴っている。
――あァ、昂る。
復讐のために十年、執念深く準備をしてきた。
ようやっと現れた『期』に、影からベットしてやろうと思っていたら空の真ん中から引き摺り出されて。それだけならまだしも、何度も何度も計画を邪魔されて、本当に、目障りだった。
この里は根から腐り落ち、生まれ変わる時だ。フウガは救い難い下衆だし、襲撃計画は止めねばならぬし、なによりファントムへの手がかりを何として吐かせないと。
総ては、復讐のために。同じ痛みを、苦しみを与えて、計画を台無しにされた恥辱に這いつくばらせながら、じわじわとなぶり殺してやるために。そのために十年、生きてきた。
(そう、思っていたんですがねェ――)
心音に混じるノイズ。自分しか気づかないだろう変化。
まるで浮気をしているような、濁った調子外れの音。
今、チェズレイは確かに見たいと思っている。復讐の行く末のみではなく、この男が、過去と決別するさまを。
時折見せた、怒りの気配。昨日この肩を貫いた、冴えた一閃。下衆の素顔と守り手の矜持。
いつの間に、こんなに頭を占めるようになったのだろう。初めは目に入れるのも嫌だったのに。
「昨日さ、お前さんが鍾乳洞で気合入れてくれた後、俺は身を隠したじゃない」
「ええ」
「それでうつらうつら、仮眠だけ取ったんだけど……」
埃っぽい土の天守。コンコンと壁の声を聞きながら、モクマが話す。
「起きてさ、驚いたよ」
ここではないらしい。振り向いて、足元の小さな行灯のひかりを見る亜麻色の目が、記憶をたどるようにやわらかに細まった。
「木の影から上がってくる朝日がさ、真っ赤で、びっくりするくらいきれいに見えてさ。
碌に寝とらんっちゅうのに、頭の中は不思議なくらいスッキリしてて。
指先がびりびり震える。目が逸らせなくて、からからに乾いた喉に、唾を飲み込む音がおっきく響いて……、その時、気付いたんだ」
ああ俺、生まれ変わったんだ……って。
「…………へェ」
しみじみとした声だった。
心の底から出たとわかる、気取らぬ色だった。
沈黙をその名に刻まれて、これまでのらくらと上辺のことばかりを語っていた彼とは違う、真実のみで組み上げられた雄弁であった。
けれどすこしの間の後でチェズレイは微笑みをくずさぬまま簡潔にそう返しただけだったので、モクマはあははと少し照れたように笑って、それから目を閉じて……、
「チェズレイもきっとわかる日がくるって、まだまだ若いんだから」
「その言い方、おじさんぽいですねェ……」
そんなことをいうものだから。
眉を下げて、あわれっぽいいつもの顔で返してやったら、おじさんだもん……と肩を落とす姿がおかしくて、まだミッションを終えてもいないのに生まれ変わったとはずいぶん気が早いとか、突っ込むのも忘れてしまった。
……かくして、それからほんの数時間後。
浅い眠りから浮上したチェズレイは、ぼんやりと天井を見つめていた。
伝統的なマイカの木組みの……たしか竿縁天井と言ったか。真ん中からぶら下がる明りには和紙が張られ、ちいさな豆電球の光だけが部屋を照らしている。おなじく和紙張りの障子戸の外には、まだ陽の気配はない。
気を遣ったのか、モクマはおろか、ルークもアーロンもシキもこの部屋にはいなかった。幸いなことだ、近くで野獣のいびきなど聞こえていたら今日ばかりは我慢が出来なかったかもしれない。まあ、チェズレイの鋭敏な耳は布団の下の畳を伝って、その片鱗を感じなくもなかったけれど……。
だけど。今ばかりは、そんなこと、どうでもいいと断じられた。
だって、そんなことよりも――、
(……確かに、まるでスイッチが切り替わったようだ)
ひとのこと、気が早いとか、笑っている場合ではなかった。
制御できるようなものではなかった。カチリと、脳の中の回路がひとつ車線変更されたみたいに、いままで十年似凝らせてきた、あの燃えるような復讐の炎が、驚くことに、すっかり行く手から消え去ってしまっていたのだった。
「……みず」
声が掠れている。枕もとに水差しがあるのは、飲み過ぎで動けなくなったチェズレイを見かね布団を持ち込んで寝かせたモクマが何度も繰り返していたから知っていた。身体を起こそうとして、しばし固まる。まるで水の中にいるように怠い。それでも無理して動けば、
「ッ!」
次にやってきたのは刺し貫くような頭痛だった。ととのった眉毛が不快にゆがむ。笑ってしまうほどの時間をかけてコップに注いだ水を呷れば、清涼感より先におりよく昇ってきた太陽が和紙越しでも強く目を焼いて、また頭が痛んだ。
「……、」
一杯、二杯。飲んでいるうちに少しずつ身体が動くようになってくる。本当は少しでもアルコールの分解を促すため、ぎりぎりまで寝たほうがいいのは分かっているのだけれど。
這うようにして、誘蛾灯に誘われる虫のよう、光の方へと向かう。
だって、ほら、ね。こんなの、もう二度もないことかもしれないから。
……見ておかないと、いけないじゃないか。
震える指で、障子戸を開く。
広い庭先に植えられた木々の、その張り巡らされた枝の隙間からこぼれるものは……、
「……なァんだ」
ふ、と、唇が三日月を形作って、笑い交じりで飛び出た声は、やっぱり酒に焼けてかさついて。
ああ、頭が痛い。っていうか、吐きそう。
身体もだるいし、朝陽なんかただ眩しいばかりで、故郷で父を手伝って明かした夜の果てに見たものとも、ピアノもないから眠れぬ列車の横で、腹心の部下と小声で話すトンネルの先から現れたものとも、ひとりきりでひとを騙したその帰り道に昇るものとも、違いなんかわからなかった。
まったく、最悪だった。それもあの下衆な守り手が、ほんとうに嬉しそうな顔して、空になるたびにあの濁った白を杯に注いでくるものだから。
飲み干した濁りは、たいして美味しいものでもなかった。つまみになるピアノすらもなくって。
なのに、なんとなく、終わりを告げられなくって。
そうしてチェズレイは、まるでどろどろに溶けた未完成のさなぎみたいな最低の気分で、生まれ変わるはめになってしまったのだ。
縁側に腰かけて、開いた障子戸に背中を預けて、むりやり着替えさせられた寝間着の浴衣の合わせ目はらしくもなくゆるんで、見えた肩の上で疼くのは真新しい傷。
水を一口。そっと手を当てる。ずきずき、鼓動に合わせてあらたな命が脈打っている。
(……今日がもし、生まれ変わった日だと言うならば)
「腹から出た赤ん坊が泣く気持ちも、わからなくもないですねェ……」
なんて。珍しく情緒的なことをチェズレイは口の中だけで呟いて、おかしそうに肩を震わせて――、
「…………」
そのまま頭痛で、ふたたびかたまったのだった。
おしまい