昼下がりのキッチンから、香ばしい匂いが漂ってくる。
「へえ、いいじゃない。あれだよね、お店の看板にあった。きっと素敵だと思うよ。うん、……えっ。俺が? ……いや、いいけどもさ……、めでたい席なんでしょ? そういうのはちゃんとプロに頼んだ方が……」
ごり、ごりごり。……ごり。手挽きのミルが奏でる不揃いのテンポは、ハンドルの握り手の動揺を表しているようだ。盗み聞きするチェズレイの唇が、ゆるりと弧を描く。
長電話の相棒の姿は見えないが、声だけでも表情が手に取るように想像できる。この声の調子からして、おそらく相手は旧い知り合いで、昔取った杵柄がらみの……無茶なことを頼まれている。
(そうして、たぶん……)
挽かれた豆をフィルターに移しているだろう音の合間に、はああ、と、観念したようなため息が聞こえた。はい、ビンゴ。
「仕方ないなあ……。いや、いいっていいって。やるよ。うん。腕は錆びついちまってるだろうから、せいぜい練習しとく。……え? ああ、それは大丈夫。しばらくはのんびりできそうなんだ。うん、はいはーい、じゃ、またね」
「……」
そんな軽い調子の挨拶を最後に、声は途切れた。気配を探るけど、動く様子はない。コーヒーの抽出が終わるまでその場で待っているつもりなのだろう。『頼まれごと』について、ブランクがあるようだから調べているのかもしれない。
「……しばらく、のんびり、ねェ……」
だから、リビングのソファでタブレットの画面に指を走らせながらのチェズレイの低いつぶやきは、ひとり言のまま宙をただよって消えた。
人生二度目の『世界征服』をはじめて最初に踏破した西の大陸に構えた一軒家。そこが当面のふたりのセーフエリアであった。
故郷でのひと騒動を終えて、相棒の母の住む南の島で療養して、さらにミカグラ島で懐かしい面々と束の間の再会を果たして、ようやくここに戻ってこれた時には年の瀬は間近に迫っていた。
ヴィンウェイにひとり飛んだのはチェズレイの独断と意地の結果であるし、療養という名目で病院に、退院してもホテルの部屋に……軟禁されるのも仕方のないことだと納得できた。が、どうせ仕事するからとタブレットを触るのは一日三時間まで、などという子ども相手みたいな制約を出されるのはさすがに予想外だった。自慢の交渉術はすべてむなしく却下され、かといって本気のニンジャさんの目を掻い潜れるわけもなく、結果としてだいぶん、情報収集の手が鈍ってしまっていた。だから今、チェズレイは日がな一日こうやって、タブレットと睨めっこするはめになっているわけである。
レースカーテンから降り注ぐ陽光は柔らかで、チェズレイの指の下に通る細い血管をうすく透かす。整った形の眉がぐっと寄せられて、目が素早く画面の文字を追っていく。
(『次の手』を……)
考えるとして。最重要懸念であった犯罪シンジケートは今回の一件でかなり弱体化した。タチアナは後進を育てるタイプには見えないし、頭を挿げ替えて即元通り……とはならないだろう。よってすぐに叩く必要はない。東の大陸に向かうならばイチから計画を練り直さないとだし、なにより今いるこの場所も、踏み均して終わりではない。その後どう『正しく』支配するか、不在時にも領土を保てるか、油断せず目を光らせないとならない。……南の国ではこのことだけでだいたい『三時間』を使い切っていた。
……つまり。晴れて自由の身とはなったが、差し当たっては頭脳労働が主体なのだ。となると守り手殿にはパフォーマーか『お掃除』くらいしかやることはなく、未だ甲斐甲斐しく上げ膳下げ膳、家事だのなんだの一手に引き受けてくれているのは助かっていたけれど……、その実『しばらくのんびり』、それが狙いだったらしい。
この男がものぐさなことは知っていたが、まんまと策に嵌まってしまったようだ。やっぱりタブレット取り上げは悪手でしかなかった……ぶつぶつ。今更過ぎたことを蒸し返したりはしないが、日記には思いきり悪口を書いてやろう。
……などと心に決めたところで、こちらに歩いてくる足音が聞こえて、ほどなくして視界に落ちたゆるいフォルムの影に目を上げれば、相棒は器用にも片手にふたつ、なみなみと濁ったモカブラウンの注がれたマグを持っていた。
「チェズレイ、カフェオレ淹れたけど飲む?」
「……もうふたりぶん淹れているんですから、飲まないと無駄になるでしょう。……ありがとうございます。そちらに置いてください」
なぜ纏めているかといえば、もう一方の手にはさきほどまで仲良くしていたタブレットが握られているからだ。つまり横着。やっぱりものぐさ。
そちら。視線で示すと、ここでいい? と、ローテーブルの真ん中にマグをひとつ置いて、タブレットも横に並べて。残ったひとつのハンドルだけ指に引っ掛けて、モクマはチェズレイの隣に座った。それで下から覗き込みながら、
「チェズレイさんさ、よーく切れるハサミ持ってない?紙相手のやつ」
尋ねたことといえば……この詐欺師相手に、よく切れるハサミ、だって? さっきより更に、ぎゅっと眉根が寄る。
「……モクマさん、あなた、私のこと何でも屋さんだと思ってないですか?」
「うーん、実は思ってたり……」
「……」
が、モクマは動じない。どころか真顔で返されてしまった。
……チェズレイのすることを、モクマは基本、邪魔しない。仕事であれば、なおさら。だけどこうして割り込んで話しかけてきたということは、たぶん、『休憩』させたいのだろう。
南国で過ごした数週間で、彼の過保護さは嫌というほど思い知らされていた。この分じゃ、飲み終わるまでは離れなそうだ。諦めてタブレットを置いて、カフェオレをひと口。
そちらが、その気ならば。空いた手をそっとひらめかせて、優雅な動きで胸ポケットに忍ばせて、
「まァ、ありますけどね。こちらに……」
「胸ポケットに!? 常によく切れるハサミを!?」
節目がちに含みのある声で言ってやれば、予想通りのツッコミが飛んできたので、はい、これでコントはおしまい。ぱ、と、むきだしの指が種明かしのように開かれる。
「……さすがにないです。大体胸ポケットに入るサイズではないでしょう」
「ははは、だよねえ……。でもほら、変装といい、お前さん時々魔法使いみたいになるからさ」
「残念ながら、どれも種も仕掛けもありますよ。……ハサミでしたら、私の部屋の引き出しに揃っています。そうですね……、紙を切るのであれば、二段目の……青いベルベット張りのケースに入ったものがよろしいかと」
「さっすが! ありがとね。いやあ実はさ、昔の知り合いのやってるお店がこの辺にあるんだけど……、久々に連絡したら、今年で創業五十周年らしくって。それをお祝いするために作った品の、箱飾りの切り絵頼まれちゃったんだよね。お店の看板の鳳凰の絵切って、だって! 人遣い荒いよねえ、確かに昔手慰みでやってたことはあるけど、あんなの真似っこなのにさ〜」
揃いのカフェオレを飲み飲み、モクマは表情豊かによく喋る。
お喋りそうに見えるこのひとが、元来はそこまで多弁ではないことを、チェズレイは知っている。その上で、極北の地で目の当たりにした双方の感情のズレを埋めようと、以前より更に直截に、気持ちを伝えようと努力してくれているのも。
だけど、その実どんな言葉よりも雄弁に彼の想いを伝えるものは、南国で手持ち無沙汰に窓を見つめる相棒を飽きもせず見つめる、その目だった。
今まで壁を作って、知ろうとしなかったのはこちらなのだ。受け容れること覚えてからは、その視線の中に宿る雄弁な感情の色にあてられて、なんだかすわりが悪いというか、むずむずするというか、そんな気持ちになる。
……話がずれた。だから、この雑談は、彼の本質がそうさせているというよりは、チェズレイの意識を束の間、仕事から切り離す為の方便だと、そういうことだ。そんなけなげなニンジャさんの気遣いには、仕方ないので乗ってやろう。……それに実際、相棒の過去というのは彼にとってもかなりの関心だったし。
「鳳凰に、五十周年……、隣町の菓子店でしょうか。老舗の。以前こちらに来た時に買ってきてくださいましたよね」
「そう! さすが、よく覚えとるな。あそこねえ、先代がミカグラで修業してたらしくって、懐かしい味がするんだよね。放浪してた時に食べて、そりゃあもう美味しくって……」
「……それで、店主が転んで怪我したところを見かねて助けた結果いたく気に入られて、ちょうどその時住んでるアパートが浸水で追い出されたからってご厄介になって修業したら見込みがあるって跡取りにされそうになったんですよね」
過去を拾うような穏やかな声の後を継いで言えば、モクマは目をぎょっと丸めて、それから「よ、よく知っとるね……」と、ちょっと引き攣った笑顔になった。
が、チェズレイの物知りなんて今更のこと、とばかりすぐに立ち直って、しみじみと思い返すように目を閉じる。
「……ま、その時に何にも手伝えないのも申し訳ないからさ、せめて箱の包みに何か、って切り絵やったりしてたんだよねえ。お世話になった先代は亡くなって……、グレ気味だった息子が結局なんだかんだいって継いでさ、ちゃんと続けてて偉いよねえ」
「……そうですね。未来に繋げるということは、意義深く、簡単ではないことですから……」
思い出すのは、母の手紙。届くことなく握り潰された、彼女の最期の願い。いいや、父親に届いたところで、結末は変わらなかったかもしれないけれど……、
遠い故郷の、夢の本筋からは離れた外伝の、最後のあの日に、美学を翻して母の格好で問うた彼女の人生についての疑問に、モクマは愛すること、愛を繋げることだったと答えた。
それは、残された者によるエゴにまみれた、正しく本質を突いたものではなかったかもしれないけれど、確かにチェズレイの心の中でまたひとつ、新たな方位を示すコンパスとなった。
会話はそこで途切れた。こくり、濁りの最後のひと口を飲み干すと、モクマは「ん、ちゃんと飲んだね。えらいえらい」と満足げに笑って、マグを受け取るとキッチンへ向かって、水の流れる音が聞こえて、それからおそらくハサミを取りに、階上へと消えていってしまった。
それを、じっと見送って……、
「……あなたの方が、よっぽど何でも屋さんか魔法使いでしょうに……」
今度のひとり言は、ただしく、零れてしまった、という音をしていた。
さて、休憩は終わりと公認をもらった。タブレットを持って、今度こそ頭を仕事モードに切り替えて……、
「……引き出し……」
その時、はたとチェズレイは気づいた。
……自室の、引き出しの二番目、と言えば……。
(……いや……、そんなに容易には見つかるはずはない。
仮に見つかったとして……焼失したとしてもバックアップもとってあるし……)
「……」
……うん。考えすぎだ。だいたい今から追いかけるのも明らかにおかしいだろう。相棒は基本的にずぼらな性分だ、きっと気づきもしまい……。
そう結論付けて、またタブレットに目を落とす。
仮面の詐欺師は、理解していなかった。
そういう嫌な予感というのは、往々として当たるということに……。
「~♪」
ところ変わって、セーフハウス、二階。モクマは軽やかな足取りで階段を上がっていた。
これまでは、別れた相手にふたたび連絡を取ることなどほとんどなかった。が、モクマだって変わりたいのだ。ちょうど近くに来たからと、電話を掛けてみたのもその一環。何年振りかわからない声はそれでもあんまり変わっていなくって、まるでその時に巻き戻ったような気持ちになった。
「代わりに面倒なことは押し付けられちまったけど……」
強引さは先代譲りか。頭を掻きながら、けれど浮かぶ笑みも声も、満更じゃないという色をしている。
階段を上りきると、部屋に続く扉が廊下に向かい合わせで計四つ。そのうちの一つずつが寝室として宛がわれている。
やたらと大きなこの一軒家は、出会う前からチェズレイの持ち物だったらしい。
ファントムと居た頃に使っていた訳ではないらしく、ということは、誰も近くに寄せなかった時代に買ったということになる。
こんなだだっ広い家に、たった一人で。チェズレイは一体、何を想って過ごしていたのだろう。復讐の炎か、怒りか、哀しみか、郷愁か……、わからないけれど、楽しい気持ちではなかったことは確かだ。その分今は、穏やかに笑って過ごしてほしいと思う。
まあ、案の定こちらに戻ってからは仕事ばっかりだけれど……モクマとしてはもう少しくらい休んでいて欲しかったが、あのワーカホリック気味のまじめな相棒じゃそうもいかないだろう。南国ではよく耐えたと、そちらを褒めてやりたい。
別にモクマだって、彼の道行きを邪魔したいわけでは決してない。頭脳労働という意味でいえば、あんまり手伝えることのない自分を歯痒く思う。
(……けども……、)
「っと。ハサミハサミ……、あっ、これかな……って、意外と重いな」
ごちゃごちゃ考えているうちにお目当ての場所に着いてしまった。上から二番目の引き出しの部屋に、青い箱はひとりっきりで静かに鎮座していた。見た目よりだいぶん重いそれをよいしょと持ち上げたところで、ん、とモクマは違和感に首を捻った。
「……ん? あれ、なんか、斜めってない……?」
引き出しの底板が、なぜか斜めに傾いているのだ。げ、と内心声が出る。モクマとしては丁重に扱ったつもりだったけれど、引き出すときにレールから外れてしまったのだろうか。力はあるほうだし根が雑なもので、こういうのは割とままあることだった。まずい。明らかに高級品の見た目だし、壊したりしたらどやされる。下手したら下剤盛られるかも。慌てて箱を机の上に置いて、引き出しを嵌めなおそうと持ち上げながら引っ張る。と、
「え、重っ!?」
引き出しの中は空っぽなのに、さっきのはさみ入れなんかメじゃないくらい、やたらと重い。え、なんだ!? 思わず身体がよろけて、足がもつれて、やばい引き出しだけは落として壊すわけにはいかないとなんとか抱え込んで転がって……、
「セーーーーフ……」
受け身を取って、半回転。床に転がって天井を見つめながら安堵の息を吐く。と……、
目の前で、ひっくり返された引き出しから、ちょうど底板のような厚みのベニヤ板が落っこちてきた。
「えっ、……うおっ!?」
なんだ? 理解する前に、立てつづけに……、
今度は、どさり。重い……さきほど持ち上げた引き出しの重量に見合うような音を立てて、ふたたびモクマのお腹の上に、見慣れぬものが降り注いだ。……けっこう痛かった。
「え、え……、え?」
なんだなんだ。いい加減起き上がって、まずは抱えたままの木枠を見る。と、そこには……底板が、ある。
「えっ、じゃあこれ、何……?」
床を見る。転がるベニヤ板。どう見ても、底板のサイズぴったり。……え、何で一杯の引き出しに、底が、二枚……?
目を白黒させながら、視線を横に。
情報を統合するに、おそらく二枚の底板……つまり二重底というからくりめいた仕掛けの中に、だいじに隠されていたのは……、
「……ノート……?」
隠し金庫の鍵でもなければ、形見の宝石でも、情報機器ですらなく、
……うす緑のシンプルな表紙のついた、分厚いノート……に、モクマの目には見えた。
「今時アナログな……、いやまあ、逆にハッキングとかの心配はないだろうが……」
持ったままの引き出しを置いて、そっと取り上げて、まじまじ見つめる。
つるりと平滑な表紙には、どう見ても几帳面なチェズレイの字で、こう書かれていた。
「組織……拡大……展望……?」
その文言を、読み上げた瞬間。
――計画上では、相棒と再会できるのは、およそ一年九ヶ月後。……あァ、しんどいなあ、と。
雪深い彼の故郷で、心身ともに傷ついた彼が、痛覚麻痺を解いて、痛くて仕方ないだろうに、強がった声で明かした勝手な未来地図が。頭を過って、ドクン、と心臓がわなないた。
散々あれについては怒った。そんなことされても嬉しくないと。約束も大事だし、違えるつもりはないけれど、それだけで傍に居るのではないと。あの夜見せてくれた涙は、きっと、伝わったゆえだと信じている。
……だけど。
(また、無茶な計画立てとらんよな……)
あの騒動のお陰で、ようやっとわかりあえはしたけれど。でも未だ、スタートラインに立てた段階なのだ。
チェズレイには思ったよりずっとこちらの気持ちが伝わっていなかったし、自分の過去しでかしてきたことの大きさと、彼の察しの良さに甘えていた事実を痛感させられた。
もっと、注意して見ないといけないと思った。もっと、伝えなくてはいけないと知った。
そして、同じくらい、彼のことを知らなくてはならないとも。彼の美学は、愛は、時に自らの身を焼こうとも、死にさえしなければお構いなしに脚を進ませてしまう。その美しい身体に、心に、火傷の跡がついてからでは遅いのだ。次こそは、尻尾を掴んで引き留めたいから。
そっと手が伸びる。下衆な相棒でごめんね、チェズレイ。隠したい理由も、きっとあるのだろう。後でちゃんと、見たことは言うから。だから……、
……そして、もうひとつ。明確なプライバシーへの侵入へとモクマを駆り立てたのは、本当は、その使命感だけでもなく……。
(世界征服が終わったら、その後、俺たちは……)
『約束を破るとなれば、最早私に同道を望む資格はない』
チェズレイが、約束を破ったらこの関係が終わりだと思っていたように。
モクマの今の杞憂といえば、この壮大な計画の、終わったその後のことだった。
指切りをした時は、あんまり突飛な夢過ぎて実感が持てなかったけれど、あの賢い相棒はめまぐるしく綿密かつ大胆な計画を立て、根回しをし、時には実力行使に出て、瞬く間に大陸をひとつ手中に収めてしまった。今回の騒動で大国ヴィンウェイを牛耳る犯罪シンジケートも弱体化したし、この調子で彼が本気を出して歩みを続ければ、そう遠くない将来に闇社会はすっかり彼のものとなり、そうなれば彼のターゲットたりうる下衆すらいなくなってしまって、となるともう、彼にひっついての守り手としての仕事も、どころか不殺を見張るという口実すら、なくなってしまうのではないか……、と。
「素直に聞きゃあ、いいんだけどね……」
……というか、告げればいいのだ。あの時、山小屋で伝えたように。約束のみではなく、情として、感情でもって、モクマはチェズレイの傍にいたいのだと。
「でも、その時、チェズレイが同じ気持ちとは限らないし……」
彼が、約束をとてもとても、大事にしてくれているのは知っている。幸せのために生きろと偉そうに諭したあとで、選んでくれたのが自分と歩む道であることも。
でも、でも。『夢』を叶えるまでにあと何年掛かるかわからないけれど、その後も同じ感情でいてくれる保証はどこにもない。これまでずっと復讐やらに縛られていた彼が、違う道に羽ばたいていきたいというなら、縛りたくはない。
そんなどうしようもない相反する欲求に苛まれていた中で、突如目の前に降って湧いた『未来計画』は、モクマにはまさに渡りに船だった。
本当に、下衆だと思う。下衆の上に臆病なんて、救いようがない。
どきどきと心臓が高鳴っている。
節くれだった太い指が、そっと厚紙の表紙を捲る。
そこに、現れたのは……、
『計画を台無しにされた。
最初から軽薄で粗雑で聞くに堪えない軽口が耳につく、気に食わない男であった。
なぜか身だけは軽く、そのせいでルーク・ウィリアムズにニンジャの印象を与え、ハイジャック目撃まで無駄な手数を増やす羽目になった。濡れた手は上着で拭く、傷があるから素敵だとか、何も知らない癖して0点の口説き文句を言ってくる、言葉選びは最悪なのに、その癖その親しげな空気はどこか、私のファントムを思い出させる。
いけない。求めてやまぬ仇とこんななまくら、重ね合わせるなどおぞましい。
極めつけは脱出だ。ハイジャック犯と飛び降りた空のただ中まで、奴はこの身を追いかけてきた。
お陰ですべての計画は台無しだ。背後から操ってやろうと決めていたのに、よもや表舞台に引きずり出されるとは。まあいい、プランニングに支障はない。身体能力は予想外ではあったが、やはり私のファントムとは比べられるものではない。
だが、彼の空中で抱かれた時の心臓の音。あの音はおそらく……』
「ん……んんっ?」
……そこに、あったのは。
モクマが藁をも掴む思いで拾い上げた、これからの世界征服の計画でも、その後の未来についての記載でもなく。
むしろ、どう見ても……、
「日記……?」
彼が、そんなものをしたためているとはついぞ聞いたことがなかった。まあ、あの律義さと几帳面さであれば、特に意外性はないけれど……。
そうか、なんだ、日記。……ならば尚更、プライバシーの塊だ。心の露呈、秘めたるひとり言、黙ったまま無遠慮に踏み込んではいけない、そう思うのに。
……だけど、書いてある内容が、内容だったから。
そうか、出会った頃、こちらも大概苦手には思っていたけれど……、彼は、こんなことを思っていたのか。
『濁りを風味だと言った。悪食にも程がある。
私の演奏を情念たっぷりだと評す耳は意外に悪くはないが、もっと聴きたいという感想は理解しかねる。
あまつさえつまみに酒を飲みたいなどと言い出して、本当に酒を持ってくる始末。
せいぜい胸焼けでもすればいい。
早く暴かねば』
一枚。
『時を止めていた城は、狭い世界で栄光を求める暗愚の王自らの手により、炎の中に陥落した。
いかめしい一閃が夜闇を貫き、
三日月の下に立つあの人は、目を潰されて尚、王者の風格を纏っていた。
夜半、誘われて月を見上げて水の盃を交わした。
彼は、濁ったまま、幸せのために生きろと言った。
幸せとは、何だろうか。
深く考えたいのに、久しぶりに飲んだ酒のせいで頭が回らない。浅い眠りから醒めても尚、まだ身体の底が重く沈み、だるい。
しばらくはいい』
また一枚。
『手術が終わるまで、想像より長い時間がかかった。最後は意識が飛び飛びで、終わったと聞いた瞬間力が抜けて、看護師の手を借りることになってしまった。
奇跡的に急所はすべて外れており、今日か明日には意識が戻るだろうという話だった。ベッドに戻ったが、頭が冴えて眠れない。結局、机に向かっている。
あの人はやはり守り手だった。放っておけば自分を蔑ろにする。母と同じだ
指切りをしておけばよかった
私が殺さないだけでは足りなかった
命を共にする約束を交わすべきだった
目を覚ました。容体は安定している。奇跡のようだと言われた
よかった』
その一枚は珍しく、走り書きのような字だった。
しばらく見つめて、ようやく彼もひどい傷を受けていて、身体が痛むから字が震えているのだと気付いた。
……あの救出劇のあと、メモ書きひとつ残すのみだった彼は、実際はずっと、手術室の前にいたのだろうか。こんな想いを抱えながら、激痛に耐え、涼しい顔をして笑っていたのだろうか。
……この想いが、あの海の指切りの、ため息が出るような笑みに繋がったのだろうか。
重い息が鼻から零れた。捲る。
『誓いは交わされた。拍子抜けするほどにあっさりとした了承だった。
もうすこし渋られるかと思ったのだが。
ラクできるかもしれない、と言われた。想像通りの台詞で、笑い出しそうになってしまった。
そんなことは言っているが、彼は心底の守り手だから、私が他で殺しをするかもとちらつかせれば、見過ごせはしないだろうと踏んでいた。見立ては正しかった。
時期についてはあやふやで誤魔化されると思っていたから、踏み込まれたのには驚いた。断る口実かと思ったが、そういうわけでもなかった。
だけど、彼はどんな理由で同道しようと、結局、守り手として必要に駆られれば、簡単に命を投げ出してしまう。
覚醒させた者の責任だ。
この指をなんとか、掴める内は、離さないようにしなければ』
……。
「……チェズレイ……」
小指が熱い。胸が焼けるように痛む。
『来世の約束をした。よくよく、新しい考えを持ち出す人だ。
私にとって死は終わりだ。それは揺るがない。生きていなくては意味がない。
彼だって、そう信仰深いわけではないから、なんだかんだ言って、結局は酔いの戯言なのだろう。
酔っている姿が本性だなんて、都合がいい話だ。きっと明日になれば忘れているにちがいない。
別に問題ない。私は忘れないと、それだけの話だ
ただ酒は
ひとりよりもふたりのほうがいい』
この字もまた、ゆらゆらと揺らいでいた。酔っていたのだろう。
つぼ押しをしたときの、きゃらきゃらと子どものような笑い声が、不意に耳の奥で反響した。
『「一生のお願い」などと口に出してきたので、あなたの一生は何度あるのかと聞いたら、「今生は一回だけど、お前と居る生って言ったら数えられないかなあ」などと返してきた。
来世の話だ。忘れていなかったのか。
それにしても都合のいい話だ。
何度分の来世まで前借りするつもりなのか。
そんな風だからギャンブルで勝てないのだと思う』
もう、ここまで来たら止められなかった。
日付が、現在に近づいていく。
『予定通りに大使と接触した。想像より単純そうな男で、一芝居打つ必要すらなかったかもしれない。
しかしボスの五度のつたないウインクがとても愛らしかったので、結果的には正解だったと言えるだろう。本当に可愛かった。録画しておきたかった。
もう少しゆっくり話す時間があればよかったのだが。情報を吸いつくした後で、たくさんお詫びとお礼をしなくては。
それにしても、寝しなに歌を歌えと言って、あんなに調子はずれの蛙の鳴き声を聴かせる人間がどこに居るだろうか。思い出すだけで頭痛がする。
それで眠ってしまったのはこちらだから、文句も言えないのが腹立たしいが』
……ああ、ついにここまで来てしまった。
この日から、あと、一月後には。
どきどきと、先ほどまでとは違った理由で胸が高鳴っていく。
『遂に犯罪シンジケートから接触があった。まだ解析しきれていないが、メールはヴィンウェイから送られているようだった。
あまりいい予感がしない』
簡潔な内容で、そこから先は記載がなかった。きっと故郷には持ち込まなかったのだろう。
そして、もう一ページ。捲った後は、ずいぶんと日付が遠くへと飛んでいた。
『南の島に着いてからというもの、モクマさんは過保護だ。何をするにもうるさい。もう傷も塞がったし、大丈夫だと言っているのに。
私が逃げ出さないよう、常に目を光らせている。
約束を破ったわけでもないから、そんな心配は無用だ。
そう繰り返しても、何も言わずにじっと見つめてくる。
その目の中にある炎の意味を、私は正しく理解できているのだろうか。
この人はいつも、こんな目で私を見ていたのだろうか。
それとも、この一件で変わったのだろうか。
わからない。すべて分かっていると思っていたが、そうでもなかったのかもしれない。
タブレットがあると仕事をするからと一日三時間という制限を付けられて、持ち込んだ本も読み切ってしまい、手持ち無沙汰だ。南国の太陽は私には眩しすぎて、窓から差し込む光だけで体力を奪われて、このままでは遠からぬうちにモクマさんの自堕落が移ってしまうだろう。それでは困る。
今日も母の手紙を読み返した。読み返すたびに、胸がいっぱいになって、何も考えられなくなる。
のびのび生きる。自由に、笑って生きる。
モクマさんはできていると言ったが、本当だろうか。
私を幸せにするもののために生きる。情念を使う。報われるたびに濁るような。
幸福との出会い。母御の前で告げられたあの言葉を、私はまだ咀嚼しきれていない。
他人と生きることは、思いのほか、単純ではないのかもしれない』
「……」
……それが、最後だった。
結局全部、読んでしまった。
モクマの胸も、またいっぱいになる。ふう……、と、長い息がこぼれるけれど、ちっとも苦しさは収まらない。
知らなかった。もとより自分は、相棒のように読心術など使えないけれど。
でも、彼はいつも、ずっと、こんなことを、心の中に抱いて……、
「――!?」
瞬間。
モクマは弾かれたように振り返る。この気配、殺気……!?
「……あ」
一瞬で守り手モードに入った男は、視線の先に立っていた男の姿をみとめて、間抜けな声を出した。
……いや、まあ、こんなセキュリティのかたいセーフハウスに、やたらと強いふたりの目を掻い潜って昼日中から侵入できる人間なんてそういるはずもなく……、
ということは、消去法的に……、
「ちぇ、チェズレイ……」
どっと冷や汗が背中を濡らす。かすれた声で名を呼ばれた相棒は、ゆらりとこちらに向かって歩を進めながら、
「なぜあなたのお手元にそれが……むりに二枚底を剥がせば引き出しごと燃えるはずなのに……」
「デ、デ〇ノート!?」
「あなた、ここにこれがあるの、知っていたのでしょう……、ハサミを借りるところから全て作戦だったのですね……? ク、ククク……そう何度も詐欺師を謀って、無事に済むとお思いで……?」
「顔怖い!! ち、違うって!!」
「言い訳無用……」
ゆらり。また一歩、こちらへ。
ああ。もうなんか顔半分、物理法則も光源も無視して影が覆って、その中から目がぎらぎらと光っているし、声も地を這うように低くって、いますぐにでもドレミって歌い出そうとするのが読心術などなくてもよくよくわかる。
違う! 確かに日記を覗き見るなんて最低を働いたのは事実だけれど、ここに至るまでの経緯としてはぜんぶ偶然なんだって!
「たまたま引き出しひっくり返しちゃったら出て来ちゃっただけ! けども組織の展望って聞いて気になっちゃって見たのは事実! 日記だと分かっても読んじゃったのも! スマン! 全面的におじさんが悪い! だから……っ」
「?」
そっと、机の上にノートを置いて。それからおとなしく手を上げる。
降参のポーズだ。受けてチェズレイの目から少し怒りの炎が立ち消えて、かわりに困惑が揺らめいた。
「……ドレミ、して、いいよ。俺、お前のこと、もっと知りたくって。だから、その、読めて良かった、って、思う、けども……、そんなことよりも、お前さんが思っていることを、存分に吐き出せる場所がある方が重要だから……。俺に話してくれるんなら願ったりなんだが、うまく返せる自信もないしさ。とにかく、感情を、自分の中にだけ収めておくのは良くない」
ゆっくりと、言葉を選んで。たどたどしく告げる。
本心だった。この記憶を失うのはいかにも惜しいが、だけど、むき出しの感情を土足で踏み荒らしたのは事実。そのせいでその遣り場がなくなってしまうのは、絶対にいけない。
「……、だから、あなた、下衆なんですよ……」
……だけど。チェズレイは困ったように眉を下げるだけだった。
「え……」
むしろ、さきほどまでの怒りの炎はいつの間にかすっかり鳴りを潜めている。その変化の理由が、モクマにはわからない。
見つめる先で、フ、と、困惑を感じ取ったように、
「そんなふうに言われたらやりづらくなると、申しているでしょうに……」
「……ご、ごめん、そんなつもりじゃ……、俺、本気で……」
付け加えられて、あ、と気づく。手紙を読みたいといった時にも、同じように指摘された記憶が蘇る。
あの時よりも今の方が、更に含みはなかった。でもそれは理由にならない。慌てて否定するけれど、チェズレイはふう、と息を吐いて、それから「いいです」と呟いた。
肩の力が抜けたような、やれやれという、柔らかな声だった。
「……あなたにならば、別に。何が書いてあるわけでもないですし」
「えっ、でも、こんな厳重にしまってあるし……」
「……闖入者には見られたくないという話です」
「けど……」
「くどい」
びしゃりと切り捨てられる。もう取り付く島もない。
チェズレイの意思は固いらしい。
それはわかった。彼が決めたのなら否やはない。
(だけど……、)
モクマはぎゅっと、手のひらを握り込む。
……胸が、今日の中で一番、あつい。
「……チェズレイ」
「なんです」
こちらがせっかく折れてやったと言うのに、なんだ、うじうじと。見せてやると言ったのだから、いつも通りずかずか人の感情に割り言って、むちゃくちゃに踏み荒らしていけばいい。何を今さら日和っているのか。むしろそっちのほうが羞恥プレイだとなぜ気づかない。
性懲りもなく名を呼ばれて、いらいらと顔を上げて――、
「!」
チェズレイは、はっと息を飲んだ。
「ねえ、チェズレイ……。お前の、日記……、お前の、むきだしの感情……、
俺なら、見ても、いいの……?」
「……っ、」
……ああ、もう!
そんな、心の底から、その特別を喜ぶような、嬉しくてたまらない顔、しないで。
だって、深い雪の中からむりやりに掘り起こされて、幾重にも重ねた曇り硝子すら全て取り払われて、今はもう、その熱をはっきり直視できるようになってしまったのだから。
せめて下衆めいた笑みでも浮かべていたら、お望み通り容赦なく、記憶を吹き飛ばしてやったのに。
……まったく。あまりに戻りの遅い相棒に、いい加減嫌な予感が高まりすぎて、言い訳を考えながら階段を上って。ドアを開けた瞬間転がる引き出しを見た瞬間、頭の血管が切れるかと思った。一心にページを捲る男の真剣な目が髪の隙間から覗いた時には、今度は羞恥と驚愕と恐怖で、心臓が張り裂けそうになった。
……なるほど、こちらから開示されたわけでもない内心に無遠慮に踏み込まれるというのは、あんな気持ちなのか。
なるほど、それは随分……悪いことをしたかもしれない。
だけどもう、今更だった。なにせこれが初めてではない。あの雪深い山小屋で、みっともなく泣き喚いた自分では、約束の反故を取り戻しに、無茶な計画を断行しようとした自分が、なにを取り繕ったところで……、
「ええ。……ですが」
だけど、はいそうですかと飲み込むのはちょっとまだ、負けず嫌い心が残っているので。見惚れる目をむりやり剥がして、こほん。なんとか体裁を整えて、それからへにゃり、眉を下げて哀れっぽい声を出す。
「モクマさぁん……こんなに私の心に土足で踏み込んでおいて、あなたの気持ちも詳らかにしてくださらないと……フェアじゃありませんよねェ?」
「あっそんな顔しないで……、そりゃいいけども、残念ながらおじさん日記なんて書いてないんだけど……」
心底申し訳なさそうな顔。ええ、そんなの知っていますとも。
……あなたのことなら、その内心以外は、過去だって、ぜんぶ。
「そうですか。では、これから書いてください。今日あったこと、感じたこと。そして私に見せる。それで等価です」
「なるほど……、で、俺はお前さんの日記を見れるわけで……、あれ、なんだかそれ、交換日記みたいだねっ」
「……交換日記……?」
「うん。その名の通り、交代交代で日記書いてくんだよ。帳面を毎日交換してさ。里はネットなんちゅうもんはなかったから、女の子たちがよくやってた」
見慣れぬ響きのことばを繰り返すと、解説が返ってきた。なるほど、確かに思春期の少女であればいかにも好みそうだ。だけど待ってほしい、こっちはアラサーとアラフォーの男なのだけれど……、
「モクマさん……それはさすがに」
「いいよ、やろう。俺たち、コミュニケーションあんま得意じゃないからさ。文面で見てこそ伝わることもあるだろう。俺、自分の為だと三日坊主だけど、チェズレイに読んでもらえるなら書けそう」
制止の言葉は遮られて、話は決まったとばかりまとめに取り掛かられる。
いや、本当、いい年した男二人が今日の分書けたよ♡なんてノートを渡し合うの、結構ぞっとしないんですけど……、
……そう、思うのに。
じっとこちらを見る目が、温かく、柔らかく、だけど有無を言わさぬ強さで、めらめらと燃えている。
「ねえ、チェズレイは知りたくない? ……俺のこと」
「……っ」
そんなことを言われてしまったら、首を横には振れない。っていうか、三日坊主、めちゃくちゃ有り得そうだし。彼の感情は、そりゃあ、まあ、ものすごく、見たいし……。
ああもう、どうしていつの間にか主導権を握られているのだか!
まったく……惚れた弱みというのは本当、厄介なものである。
深夜。チェズレイが眠るのを確認して自室に戻り、モクマは机に座ってペンを握っていた。
二人で選んだ新しいノート。交換日記の記念すべき一日目は、こちらからのスタートだった。
さて、何を描こうか。
庭の木に、花が咲いたこと。
今年の冬はよく冷え、来週には初雪が降るかもしれないこと。
おまえがカフェオレを持って行くと、手を止めておとなしく休憩してくれるのが嬉しいこと。
「……ふ、」
だけど、なにはともあれ、最初に書くことはきまっていた。
お前と初めに出会ったときから、いままでの感情の変化について、つまびらかに、丸裸に、赤裸々に語って。
そしてそれから……、この先の未来も、ずっとそばにいたい、ということを。
文字に起こそう。心をひらこう。お前を知りたいだけ、俺もお前に、知ってほしいから。
そうして二馬力になったノートはみるみるうちに溜まっていって、いつまでも見開きの片方にはあっちこっちに飛んでいく元気な字と、もう片方には几帳面な筆記体が並び続けるのでありましたとさ。
おしまい!