1.溺れて閉じる(やっぱり肉体労働の方が性に合っている)
衛生対策の安っぽいヘッドキャップを外すと、つんつん撥ねた黒髪は、一日抑えつけられていたことをちっとも感じさせない力強さで元の方向に立ち上がった。
ベルトコンベアを流れてくる箱の中に、食べ物を整形して詰める。単調作業は無心になれて悪くなかったが、一日が過ぎるのがどうにも遅くて困ってしまう。
べつの仕事を探すべきだろうか。思案しながら休憩室のドアノブをひねると、
「あ、帰ってきたー! お疲れ様でーす!! ねえエンドウさん、今日お誕生日なんですかぁ?」
「え」
瞬間飛び込んできた声が、小鳥の囀りみたいに高くって、鮮やかで。
小さな声をこぼしたっきり固まってしまったモクマに、けれど新入りの働き者の寡黙さは既に皆のよくよく知るところだったから、帽子のせいでへこたれた巻き毛を揺らした同僚は気にした様子もなく「リーダーが言ってた!」と人懐っこく笑った。
「お、エンドウくん今日早番? あたしも! おっつ~」
「お疲れ様です。……リーダー、個人情報勝手に明かさないでください」
引き止める声を宥めるのが大変だった。やっと解放されてヨロヨロ外へ出ると、通り道の喫煙所から別の明るい声に呼び止められた。振り向いた眉が寄っているのを見て、短くなった煙草を摘んだ表情が「あっ」と苦くなる。
「ごっめんごめん、ふと思い出してポロッと言っちったんだよねー! ほら、ゾロ目で覚えやすい誕生日だから! でもセリちゃんにしか言ってないから~ってあの子に言ったら広まるわね……」
ごめんごめん。重ねて謝られて、「べつにいいですけど」と返す。苦言は呈したが、なにも本気で怒っているわけではなかった。もう波は去ったし、仮に広まったところで明日にはもう終わっている話だ。
「そ? エンドウくん優しい~。で、何歳になるの?」
「……二十です」
「えー! わっかい! まだまだ青春じゃん! ってかアタシ前にミカグラ出身のオトコと付き合ってたけど、ハタチが成人じゃなかったっけ?」
「……確かに、そうですね」
喋りの速さに圧倒されつつ頷いたら、ぱっと目が輝いた。煙草を吸い殻入れに押し込んで、そのまま勢いよく肩を組まれる。
「えーじゃあお酒飲めんじゃーん! 飲も飲も! 今日これから!」
「……え、今日ですか?」
「そーそー、オネーサンが奢ってあげるからさ~」
「いや、酒は……、っ!」
酒、は。
口にした途端、がん、と、脳が揺さぶられた。
フウガがうまいうまいと呷りながら、しきりにお前はまだ飲めぬものな勿体ないと絡んできた時の、あの香りが。
巫女として清めた酒を捧げながら、匂いだけで酔ってしまいそうなの、と、困ったように笑ったやわらかな柳眉が。
おおきな三日月を眺めながら盃を傾け、いつか共に酌み交わそうと笑った主の、まっすぐ伸びた背筋を見上げた記憶が、周りを染める夜の色が。
「……っ、……」
一息に脳裏に蘇って、たちまち心臓が暴れ出す。
「…………」
突然背を丸めて胸元をぎゅうと掴んで荒い息を繰り返すその姿は、明らかにふつうじゃないのに。四十近いとは到底思えぬ若々しい見た目をした女は静かに見つめるのみで、僅かに落ち着いたタイミングを見計らうように、背中を叩きながらひときわ明るいひまわりみたいな声を出した。
「お酒はいいよー! 嫌なこと忘れられるし、よーく寝られるよー!」
……ひまわりみたいな声で、すべてを見透かしたようなことを言われた。
「……。嫌、なことを、忘れられる……?」
「そーそー! 酔っ払ってね、フワ~ってなると、その時だけ全部無くなっちゃうの!」
繰り返した声が、じっとりと湿って、そして、震えていた。
どくん、と、また心臓が跳ねる。
(――忘れる、だなんて、そんな)
罪を。この許されざる罪を。この世界の誰が裁いてくれずとも、せめて自分だけは、一秒たりて、忘れていいはずがなかった。
だけど、眠れていないのは事実だった。この仕事は特にほとんど身体を動かさないから、体力をゼロにして気絶するようなことができなくて。
眠れないで死ねればいいが、むだに身体だけは丈夫で、そうすると頭が働かなくなって、結果仕事で迷惑をかけるのは避けたかった。働かないと金がない。金がないと食事を摂れず、餓死は後追いに入らない。前の職場を追い出されて路頭に迷っていたのを拾ってくれた彼女に恩義もある。
……そんなもっともらしい理由付けが、この誘惑に乗る言い訳であることを、モクマが誰よりも一番よく知っていた。
ごくり、唾を飲む。
「じゃあ……、今日……だけ」
「えっマジで!? 嬉しい! 飲も飲も!」
カーテンを引くことすら忘れていた。
飲んで飲んで、吐いて吐いてまた飲んで、何を語ったかも覚えていないまま明けた夜は。
「……っつ……」
強烈な頭の痛みと共に、おそろしいほどに、まっさらだった。
久々に全てを忘れて泥のように眠った果ての、東から昇る太陽のひかりが部屋全体を染め上げる、強烈にまっしろな、朝だった。
(非番で、よかった……)
緩慢な動きで起き上がる。洗面台で顔を洗うと、鏡に映るのは疲れ果てた、落ち窪んで隈だらけの目をした、みじめな男の姿だった。これなら眠れていないと悟られるのも当然だろうという、酷いものだった。
「……は……」
喉からこぼれる声が掠れて、燃えるように熱い。熱くて、痛くて、笑えてくる。
いけない。罪を忘れてはならない。だって俺は罪人なのだから。
だけど――、……幼馴染が誉めそやした酒は、確かに恐ろしいほどの、甘美な毒の味であった。
おしまい