透き通った煙草 傑の部屋に、パソコンでプリントされたゴシック体の手紙が届いたのは、俺たちが二年に上がるころ、ちょうど高専の花々が花霞にある昼時のことだった。
最初のうちはラブレターかと思った。だが宛名もパソコンでプリントされ、差出人の名前もなく、中身もパソコンでプリント、となると、デジタルなのかアナログなのか分からないそれは、よく読めば不幸の手紙であったのだった。今時メールじゃないのがまた強い効果を呼びそうで、俺はそれに舌を出して嘔吐物をこぼす格好をした。正論吐いて呪われてちゃ世話ねぇな。それは傑に対するからかいだったのだが、通じたのかは分からない。
「傑も隅におけないなぁ。こんな熱烈なラブレターをもらうなんてさ」
俺が打って変わってそう言うと、傑は怒るでもなく考え込むように、俺が言うラブレターを何度も読み返しているようだった。そして宛名書きを見つめる。しかしそこには切手が貼られておらず、『呪術高専 夏油傑様』としか書かれていない。郵便で届いたのか? こんな適当な宛名書きで切手もなくて? それとも誰かが傑の郵便箱に紛れ込ませたとか? だとしたら相当な悪意がないか?
「確かに熱烈なラブレターだね。近所のトンネルに日本兵の幽霊が出るらしいんだけど、一週間以内に同じ文面で三人に手紙を送らないと日本兵の呪いで不幸になるらしいよ。私が」
「俺と硝子、夜蛾先生で三人だなぁ……」
「本気で言ってるの? 私をからかってるの?」
「さぁ、どっちだと思う?」
不幸の手紙を机の上に置いた俺たちは、その近所にあるトンネルに出る日本兵の幽霊とやらが本物なのかしばし悩み、軽口を叩きながらこれからどうすべきか考えた。俺たちに残された期限は一週間。それを過ぎたら恐ろしいホラー映画みたいに、テレビから幽霊が出てくるんだろうか? いや、不幸になるってだけだからそこまでは分からないか。タンスの角にすねをぶつけるくらいのよくある不幸かもしれないしなぁ。ここまで散逸してしまった不幸の手紙なら、呪いの濃度も薄いように思えるし。
「でもこれ、残穢も何もないのが不思議だね。普通こういう呪いの手紙には、書き手の恨みなんかが残ってるものだけど。パソコンで書いたら消えるのかな。不思議だねぇ……」
俺はそんなふうに悩み出す傑に、ため息をつきながら「近所のトンネルってどこだよ」と言った。
そう、近所。近所って、誰にとっての近所なんだ? この差し出し主の近所か? でもそんなの分かるはずがないじゃないか。あぁ、そうか、文面を変えたら呪いが変化してしまうから、わざと分かりにくいふうにしたのか。そして呪いが薄まるようにしたのか。けれどまぁ、ここら辺で言えば山近くのトンネルだろうか? ここから東京の中心に向かう途中にある、うす暗い短いトンネル。日本兵の幽霊がいたとは聞いたことがないが、夜蛾先生なら何か知っているかもしれない。と思ったが、先生はとある任務で出張中だった。この仕事は俺たちに勝手に任されたってことか。タダ働きは嫌なんだけどなあ。でもまぁ、傑が一週間後に呪われると気分が悪いし、手紙を開封した時俺もいたのだから乗り掛かった船だ。あのトンネルに行くことにするか。
「どうしたの、ジャケットなんて羽織って」
「トンネルに行くんだよ。さっさと祓って不幸の手紙を撲滅してやる」
そこまで言うと、傑は口を閉じて何も言わなくなった。そうしてため息をついて、そこまでしても不幸になる時はなるし、ならない時はならないよと傑は言った。呪いと戦っているくせに、彼は時折とても現実的になる。呪術師はこういう細かな呪いにも普通気を揉むものだが、非術師の家で育った彼はそうではないらしい。
「俺に不幸の手紙が届いちゃ困るからな」
「私は悟には出さないよ」
傑が笑う。優しく、俺を咎めるように。そうして傑と俺は、買い出しって名目で高専を出て、くだんのトンネルに行くこととしたのだった。
トンネルは夕方近くになると、ぼんやりと薄暗かった。そのせいなのかどうかは分からないが、そこには低級の呪霊がたくさんいて、俺たちはそれをちまちまと祓った。もう夕暮れ時で呪いが活発に動く頃だったが、日本兵の幽霊はまだ見ていない。傑を呪う予定の幽霊は、ちょっと怖がりなのかもしれない。それか自分のテリトリーに入ってきた人間を警戒しているか。俺にとっては、そのどちらでもいいのだけれど。
そしてすっかり呪霊を祓ってしまうと、やっぱり無駄足だったね、と傑は言った。それでも、傑といられたのだから悪くはなかった。こうやって小さな思い出を重ねてゆくのは、決して悪いことじゃあない気がした。今は俺たちは二人か硝子とともに任務に出ることが多いが、三年に上がれば、一人での仕事も増える。そうしたら、傑と過ごす時間も目減してしまう。俺はそれが悔しく、けれど呪術師とはそう言うものだと、ぼんやりと思った。
「煙草、いい?」
珍しく傑が言った。チェーンスモーカーの硝子を咎めるくせに、自分は仕事が終わったら吸いたくなるものなんだろうか?
俺はがさごそと自分の制服の中から煙草を取り出し、トンネルによりかかって、傑に放り投げる。すると彼はそれを上手く受け取って、セブンスターに百円ライターで火をつけた。俺はそこから漏れる白い煙を見て、そして焦げ付くようなキスを思い出す。あぁ、キスがしたいな。こんな辺鄙なところ誰も通らないんだから、キスだけでいいから、いや、抱き合うくらいはいいんじゃないか? 俺はそう思って、けれどすぐに恥ずかしくなって、こんな時くらい俺も吸ってやるかとセブンスターを口に咥える。銀のオイルライターをカチ、といわせてほの赤い火がともるのを見ると、耳の横から声が聞こえた。
『火、いい?』
「はいはい、もう一本終わったのか? って、え?」
がさがさと焦げたような声だった。それでも俺はいつの間にかオイルライターを差し出していて、それは顔の横に煙草を差し出した透き通った手が持つ古臭い煙草に火をともしていた。
『あぁ、うまい……』
その声は、傑のものでも、夜蛾先生のものでも、もちろん硝子のものでもなかった。傑も異変を感じたのか、俺の方を見つめている。透き通った手。茶色い制服。細い煙草。よく見れば、俺たちは枯れた、小さな花束が置かれた場所にいた。普通気づくはずなのに、きっとその手が見えなくしていた。そしてその透き通った手のひらは、俺が火をやったことで段々と消えてゆく。
「……これで祓いは終わりかもね。悟もなかなか気が置けないじゃないか。煙草の火で成仏させてやるなんてさ」
傑が笑いながらセブンスターを飲む。俺はそれが様になっているのが悔しくて、まだ火もつけていない煙草を噛んで、それを足で踏みにじった。そんな俺が面白かったのかどうかは知らないけれど、傑は俺が立ち上がると、煙草を握ったまま、腕を引いてキスをしてくれた。俺はその甘さにくらくらとしながらも、煙草の苦い味、焦げた味に夢中になって、傑の肩に腕を回した。ここは辺鄙なところだから誰も来ない。俺たちがキスをしているのだって、あの幽霊、日本兵かどうかは分からないけれど幽霊が見ているだろうだけで、別に嫌じゃなかった。そしてその幽霊は、俺が火をやったことで、成仏してしまったのだった。祓われる前に、自分からこの世から消えることを選んだ。
俺たちはキスをする。花が散らばる足元には、小さな地蔵があった。これはあの幽霊を慰めるためのものなのだろうか? それとも関西によくある、単なる子どものためのものか。俺はそんなことを思ったけれど、傑には言わなかった。ただ傑はキスを終えるとその地蔵に手を合わせて、花を片付けて不幸の手紙に火をつけた。ゴシック体で夏油傑様と書かれた手紙は燃えてゆく。それがこれ以上の不幸の種にならないように、傑は燃やすことを選んだのだろう。俺はそんな傑の一連の行動を見て、彼にこの手紙を送った誰かのことを思った。その誰かは、傑に助け手欲しかったのか。それとも自分を捨てていった(これは俺の想像だが)男に、復讐がしたかったのか。
「悟、行くよ。そろそろ門限だ」
傑がトンネルの口に向かって歩き出す。彼の背後からは夕陽が漏れていて、俺の目にとても眩しく映った。手紙の焦げた匂いの炎が鼻をついたが、それすら美しく見えるくらい、眩しい風景だった。
恋人と夕陽。それは何も知らない俺に、表現出来ない苦しさと、愛おしさを残したのだった。