真珠採りと猫足と人魚 ああ、今日は最悪の誕生日だ。
とはいえ、レオナが生きてきた限りでは、この日が何事もなく済んだことは滅多にない。何度巡ってもこの季節は蒸し暑く、運の回りが悪い。
両脚を狭い車内に折り曲げたレオナはサイドガラスを苦々しく見つめていた。列をなしたタクシーは一向に進む様子がなく、世間話にも飽きた運転手がミラー越しに欠伸を嚙み殺す。耳障りなクラクションが鳴り響き、苛々と手元の液晶を確認するも、青白く光るそこにはひとつの通知も表示されていなかった。
深く皺の刻まれた眉間を揉みこむと、再びサイドガラスの外に目を向ける。盛大に吐き出したため息がガラスを白く曇らせた。涙のように絶え間なく流れ落ちていく雨の向こうに、夜の街の光が淡く溶けていく。本来ならば、今頃はこの夜景をふたりで見下ろしている頃だったのに。
ヴィルと恋人になってから、レオナの生まれ落ちた日には必ず最高級スイートの一室を取り、ふたりで夜の街に出てバルなりダイナーなりで乾杯するのが決まりになっていた。誕生日の主役は堅苦しいディナーよりも気兼ねなく酔える酒を好むことをヴィルが知っていたからだ。そして特別な夜はふたりきりで過ごしたいという想いがいっしょであることも。今回の宿はヴィルがひときわ気合いを入れて選んだ格式高いグランドホテルだった。彼好みのレトロモダンな装飾が美しく、VIP専用の室内プールも完備されているらしい。鏡の前であれこれと水着を品定めする機嫌のいい笑顔を思い出すと、少しだけ気持ちが軽くなる一方、肩の重みがずんと増したようだった。
王宮の末端の末端に身を置きつつ書類の山に忙殺される日々の中、ただでさえわずかなヴィルと過ごせる時間が減っているのは明らかだった。スーパーモデル兼俳優としてさらに脂がのってきている彼のプライベートが貴重であることは言うまでもなく、半年先まで詰まったスケジュールに調整に調整を重ねてのひと月ぶりの逢瀬であった。
暗闇の中、小さな液晶には当初のチェックインの予定時間をとうに過ぎ、深夜に差し掛かった時刻だけがちかちかと輝いている。
今頃ヴィルはどうしているだろうか。怒り心頭でホテルのバーでひとり飲み明かしているのかもしれない。もしく全てを諦めてキングベッドを占領してふて寝しているかも。
あるいは脳裏に浮かぶ、薄衣の水着を胸に抱いた白い背中の後ろ姿。
「おい、ここでいい」
レオナは鋭く舌打ちをすると、長財布から乱雑につかみ出した紙幣を運転手に押しつけ、釣り銭も受け取らずに大雨の中に踏み出した。
あっという間にオーダーメイドのスーツがずぶ濡れになり、磨いた革靴が泥にまみれたが、不思議と気分はみるみると爽快になっていった。漆黒の空の下、汗でべたついた肌がごうごうと洗い流されて心地よい。
気がつけばレオナは石畳を蹴って駆け出していた。つめたい皮膚の下をあつい血潮が巡り、硬く凝った筋肉が解れ、力強く躍動する。
何度も確認した愛しい獲物の居場所は、獣の脚をもってすればそう遠くはない。
無意識に牙をむき出して笑いながら、レオナはおのれの中の野生を久方ぶりに感じていた。
振り乱した髪から泥水を滴らせて回転扉から現れたレオナを見て、若いベルボーイはぎょっと目を見張ったものの、紳士然としたチーフコンシェルジュは落ち着き払って清潔なタオルを差し出してきた。抜かりなく足拭きマットを歩かされた後、「ヴィル・シェーンハイト」の名前ひとつで流れるようにホテル最上階へと連れられる。ベル付きの古風なエレベーターにぼんやりと運ばれながらレオナの頭はすっかり冷えていた。
深々と会釈を残してチーフコンシェルジュが去ると、真紅の天鵞絨張りの長い長い廊下にひとり取り残される。どこからともなくクラシックが流れる中、目の前には優美な装飾を施されたドアが静かに佇んでいる。レオナはドアベルに指先を伸ばしかけ、逡巡し、結局フロントで受け取ったキーカードをかざした。
重々しく扉を開くと、一面に広がる夜景が目に飛びこんできた。広々としたスイートの窓際はガラス張りとなっており、眼下でこうこうと輝く高層ビルや光の尾を引いて行き交う車が銀河のようだ。サイドテーブルの側には銀製のカートが留められており、少し乾いてしまったサンドイッチが手つかずのままバスケットに納められていた。銀皿に盛られた緑色のゼリーも虚しげに揺れている。
明るい部屋の中にはヴィルの姿が見当たらなかった。しかしスイートの中心にどっしりと構えたベッドのシーツには抜け殻のようにモードなサマードレスが広げられており、足元には氷のように尖ったピンヒールのミュールが転がっている。
レオナが黙りこんでベッドの枕元にこぼれ落ちた真珠のネックレスを指ですくい上げたとき、ぴちゃ、と何かが跳ねるかすかな音が鼓膜を揺らした。
ぐっしょりと重くまとわりつくスーツにも構わず、足早に水音の元へと向かう。奥まった薄暗い浴室に入ると、ふわりと柔らかなミルクの香りが鼻先をくすぐった。
立ちこめる湯気をまとい、金の猫足に支えられた巨大な白いバスタブの淵から、さらに白くしなやかな脚がのぞいていた。
虹色に泡立つ水面にゆらゆらと薄衣が波うち、毛先から菫で染め上げた金糸が浮き草のようにただよっている。
その妙に艶めいた光景にレオナの心臓がどくりと脈を打った。
「あら、ずいぶん遅かったのね」
ぴちゃ、とまたひとつ雫とともに水中に沈みかけていた美貌が露わになり、バスタブに詰め寄ったレオナに不敵に笑いかけた。
たっぷりと湯の張られた泡風呂に浮かぶ肢体は裸体ではなく、光沢のあるビキニに包まれていた。襟足で蝶結びされたヴェールが魚の鰭のように揺らぎ、淡く透けるパレオがぴったりと張りついた剥き出しの太腿がやたらといやらしい。
「……お前、プールは」
茫然とレオナの口から出たのはそんな的外れな言葉で。
「やめたわ、ひとりじゃつまらないもの」
ぐる、と獣の喉が鳴ったきり、甘いミルクの膜に包まれた浴室には沈黙が落ちる。
ヴィルはぺったりと力なく垂れたレオナの両耳をじっと眺めていたが、やがて満足そうに吐息をこぼし、ぱちゃぱちゃとレオナに近付くとバスタブの淵に顎をのせて上目遣いに子犬のように見上げてくる。
「とうとう愛想つかされたと思った?」
うっとりと頰を上気させ、薄桃色の唇が意地悪く弧を描いた。
しとどに濡れそぼる両腕が招き入れるように差しのばされる。
「いっしょに泳ぎましょうよ」
レオナのシャツを性急にまくり上げる細い指先はしっとりと潤み、ぬるく湯冷めしていた。あのドレスの下にこの水着を着こんでいたのだろうか、と思うとどうしようもなく愛しさと劣情がこみ上げる。
ああ、今日は最高の誕生日だ。
謝罪の言葉を唇ごと吸い取られながら、レオナは従順にバスタブの人魚に引きずりこまれた。
2021/7/25 Happy birthday, Leona