眠れぬ夜も悪くないとぅるっとぅ。
トゥニャの持つ携帯電話が、そんなメッセージ着信の音を立てた。
「ん?」
トゥニャはゲームをポーズ画面に切り替えると、椅子を軋ませながら携帯電話に手を伸ばす。
音に機敏なトゥニャが通知音を入れたままにしている相手というのは、そう多くはない。研究所からの緊急マークの付いたメッセージか、余程仲の良いヌビアの子か、のどちらかだ。トゥニャが携帯電話を取ると、そこには後者を示す名前が表示されていた。
「【記憶】男」
トゥニャは表示された『エルベ』の代わりに、その男が持つ物の名前を呟く。ボタンを一つ押して、メッセージ画面を開いた。
『トゥニャ、今起きてるか?』
トゥニャはそのメッセージを読んでから、時計を見上げた。指し示している時刻は既に2時を回っている。なるほど、ヌビアの子は、普通は夜型になどなりようがない。研究員身分の基本出勤時間が9時から17時なのだから、当たり前だ。とはいえ、ネットゲームの世界に身を投げることを趣味としているトゥニャにとっては、今はまだまだゴールデンタイムだ。
『起きてる』
トゥニャはそれだけ返信した。既読になったことを示すチェックマークが表示される。
『遊び行っていい?』
エルベからの返信を見て、トゥニャは首を傾げる。もちろん、同じ居住区内に住んでいるわけだし、お互い男の一人暮らしなことも承知している。一緒に飯を食べたこともある。エルベの部屋になら行ったこともある。だが──────と、トゥニャが思案するその間に、エルベから続けざまにメッセージが二つ届いた。
『悪い。部屋行くのはやめとくわ、遅いし』
『電話してもいい?』
トゥニャは少し考えてから、『電話なら』と返事した。
トゥニャは【感覚】の子だ。感覚が過敏すぎるゆえ、普段はイヤーマフに視界を遮る布に手袋に……と完全防備で生きている。とはいえ、部屋の中はもちろん別だ。居心地の良いようにカスタマイズしたその場所に他者を踏み入らせることは、大きなストレスを伴う。
(【記憶】男だから悪い、ってわけでもなくて)
実家にいた頃、親を立ち入らせることさえ拒んだのだ。悪いな、と心のなかでトゥニャは詫びた。
『電話なら』
トゥニャは返信する。部屋へ他人を上げる憂慮がなくなった今、続くのは(何の用事だろう)という疑問だった。
とぅるっ、とぅっ、とぅっ…
電話の着信を告げる音がなる。トゥニャはためらいなく通話のボタンを押した。
「【記憶】男?」
『……………』
トゥニャの言葉に、電話の向こうから返事はない。かと言って無音というわけでもなく、息遣いの音がする。トゥニャは眉根を寄せた。
「……おい?エルベ?」
『…………』
「イタ電のつもりか?ダセェしお前らしくねぇな」
トゥニャは悪態をつきながらも、電話を切ることはしない。しばらくの間の後、大きく息を吸う音が電話の向こうからトゥニャに聞こえた。
『……………悪、ぃ…』
それは囁くような呟くような声だった。深夜ゆえに周辺の部屋を憚っているにしても、覇気がなさすぎる。少なくとも、トゥニャにはそう取れた。トゥニャは先程とは違う理由で眉根を寄せる。
「………お前、大丈夫か?」
『……ぁ゙…』
「おい、体調悪いならちょっと待ってろ、今行ってやるから」
『…ぃ゙…、や……平気…だ』
「平気には聞こえねぇって」
トゥニャは急いで目隠しとイヤーマフを手に取る。人嫌いの傾向があり深い付き合いを好まないトゥニャとはいえ、比較的仲の良い友人、それも5つも年下の友人が苦悶混じりの声で呻いていれば助けたいと思う程度の人情は持ち合わせている。いつでも外に出られるように身支度をしながら、エルベの言葉を待った。
『……ゔぁ……、平気…だ。むしろ………っ、…このまま…話をしてくれないか、なんでも……良いから』
「何でも、って」
『昨日見た雑誌でも……この際お前のラサ可愛いトークでもいい…』
「……って、言われてもな…」
トゥニャはひとまず椅子に座り直すと、項を掻いた。何故そんなことを、という言葉を口にしかけて、噤む。代わりに「ええと」と続けた。
「……先週出てたフリーペーパーで喫茶店特集があってさ。ちょうどオレの地元のあたりが扱われてて、よく知ってる喫茶店が載ってたんだ。別に通ってたわけじゃねぇけど、毎日デカデカと店頭の看板にコーヒー豆の名前書いてて、しかも朝からすげーコーヒーの香り立ててるからさ、オレその店のお陰でコーヒー豆について詳しくなったなぁっていうの、思い出して…」
『………うん…………』
まだ、エルベはトゥニャの言葉を持っている。それを感じたトゥニャは、やけくそ気味に続けた。
「昨日さぁ、ラサと話ししたんだよ。しかもゲームの話だぜ、ゲーム。『トゥニャくん、ゲームするって聞いたんだけど…』って言うからマジかよ!って思って。するって答えたらラサも割とゲームするんだってよ、これ運命じゃね?いつかゲーム一緒にしてぇな…って思ってるんだけどさ、ラサって恋愛ものばっかりやるだろ、オレあんまりあぁいうタイプやってなくて……でも共通の話題は合ったほうが良いよなぁ?もし【記憶】男のオススメがあったら教えてくれよな」
『……恋愛ものって、エロいやつ?』
「は!?いやラサはそんな……そんなのやってねぇと思……いや分かんねぇけど、いや、でもラサは18歳だからやって無……えっ、あぁいうエロいゲームって18歳になったらソッコー出来んの?高校出てから?」
『知らねぇよ、やったことねぇし』
「そりゃお前16歳だもんな」
『興味がねぇわけじゃねぇけどー』
「熟女モン?」
『当たり前だろ』
電話口の向こう、やっとエルベの声色が明るくなる。トゥニャがそれを感じて安堵の息を漏らすと、エルベが『ありがとな』と呟いた。その声を聞いて、トゥニャの中に一瞬の迷いが生まれる。
(何で…)
こんな夜更けに電話をしてきた理由を聞いて良いものかどうか。それを一瞬思案したが、わざわざ遠慮する仲でもねぇか、と決断した。
「なぁ、【記憶】男」
『ん』
「体調戻ったとこで聞きてぇんだけど、何があった?」
『ん………』
電話の向こうのエルベが少し言葉に詰まったようだったので、トゥニャの中に僅かの後悔が湧く。しかし、エルベはしばらくの間の後、『まぁ…』と声を漏らした。
『トゥニャになら言ってもいいか……絶対他のやつには言うなよ』
「……おー」
トゥニャは、エルベの言葉にどう返して良いか分からず、曖昧に答えた。勿論言いふらすつもりなど無いので『他のやつには言うなよ』の部分は遵守できるのだが、『トゥニャになら言ってもいいか』の部分に惑いを覚えたのだった。
トゥニャの困惑を知ってか知らずか、エルベはまた妙に間を開ける。それから、ぽつっ、と呟いた。
『…………ヌビアの記憶が、頭の内側に貼り付いて、剥がれなくなったんだ』
「、」
トゥニャは言葉を差し込めなかった。聞いているトゥニャのほうがゾッとするような、妙な気迫と悍ましさがある。
『時々、あるんだ。寝ようとした時に、頭の内側に、べたっとヌビアの記憶が貼り付くような感覚。明日何をするかって思った時に、あれ、第2地区の裁判所から上がってきてた書類を見なきゃいけなかったっけ、とか、会議に同行するのは右大臣だったか、左大臣だったか、とか、そんなことを考えちまって。違う、これは、俺じゃない、って』
トゥニャは黙って耳を傾ける。ぽつぽつと紡がれる言葉は、どこまでも弱い。
『………怖くなるんだ。眠って、目が覚めたときには、もう、俺が俺じゃなくなってる気がして。ヌビアが復活したとか何とか、受け入れられちまったら、俺は、エルベ・ヴァルトシュレスヒェンは、そのまま消えちまうのかな、って思ったりして………ますます寝れなくてさ』
電波を通じて、ぐずっ、と鼻を啜る音がトゥニャに届く。敢えて、聞かなかったふりをした。只管、最後まで聞ききらないといけない、と思った。
『だから………俺を……エルベをよく知ってて、気を紛らわせて、頭ン中に貼り付いたモンを取っ払ってくれるやつと話がしたくてさ。トゥニャならこの深夜でも起きてるだろうと思ったんだ。本当、ありがとな』
「……オレはラサが可愛いって話と下世話な話したくらいだぜ。大したことはしてねぇし、感謝されるほどのことじゃねぇよ…」
『はは、そうだな。感謝して損した』
「お前が肯定すんじゃねぇって」
けらけら、と、どちらからともなく笑う。
その胸の内を知っているトゥニャとしては、ハンザにでも頼ればいいのに────と思わないわけではなかった。とはいえ、ハンザは健康優良児然とした生活を基本としている。深夜に眠れずに電話をかけるには不都合だろう。
「……何かあったら、また電話しろよ。3時くらいまでなら起きてっから」
『……ん。ありがとな』
感謝して損したと言いながら、エルベは感謝を繰り返す。
(……オレなんかは【感覚】で困ると、【記憶】男に愚痴っちまうけど)
トゥニャはぼんやり考えた。
エルベは、ヌビアの【記憶】を抱えて生きている。それは言い換えれば、かつて【カリスマ】【パワー】【博愛】【感覚】【記憶力】【器用さ】エトセトラ総てを抱えて生きていたことを覚えているということだ。故に、【感覚】で困ったことや辛いことがあれば、エルベに共感を求めることが出来る。
(でも、そうか。エルベだけは、誰にも共感してもらえねぇんだ)
もう一人の生きた記憶が常に自分の中にある人生など、トゥニャには想像がつかない。けれど、エルベは確かにそうして生きているのだ。
『トゥニャ?』
「ん、あー、悪ィ。ぼーっとしてた」
『何してんだよ……まぁいいや、本当にありがとな。助かった』
「気にすんなって」
『ん、ありがとな。おやすみ』
「おやすみ」
入眠の挨拶を最後に、電話は切れる。トゥニャは、ずっとポーズ画面のまま放置されていたゲームを、しばらくじっと見詰めていた。