クライベイビーのイメソン小説 姉から厄介な頼み事をされた。
その内容は「彼氏のフリをして欲しい」というかなり面倒くさそうなものだった。僕にとっては、高校生になって初めての夏であり、出来ることなら平穏に過ごしたい。妙なことに巻き込まれるの避けたかった。
「なんで僕が?」
「だって、ナオト以外に頼める人がいないんだもん」
姉の橘日向は、現在高校2年生で共学の高校に通っている。昔から何かとモテるし、友人も多い。その姉が頼めば彼氏のフリをしてくれる人間はたくさんいるはずで、僕じゃなくてもいいだろうと訴えたが姉は首を横に振った。
「友達に迷惑かけたくないの」
「弟なら迷惑かけてもいいんだ?」
「そんな言い方しないでよ。ねー、お願いナオト」
色素の薄い柔らかな前髪の下から、上目遣いで僕を見てくる。大きな目に長い睫毛。姉の容姿は弟から見ても可愛いという形容詞がぴったりで、モテるのも理解できる。その外見のせいで通学中によく面倒事に巻き込まれることも知っていた。
詳しく話を聞くと、姉は見知らぬ不良に付き纏われているらしい。僕は姉に横恋慕する男にストーカーでもされているのだろうと予想した。
「それがね、突然校門の前で土下座されたの」
「土下座? 知らない奴に?」
「うん。金髪の高校生。顔に怪我してて不良っぽかった。目とか腫れててゾンビみたいでめちゃくちゃ怖くて」
「ゾンビって……そんな奴いる?」
「いるんだって! その人に突然土下座されて告白されたんだから!」
「かなりヤバそうな奴だね」
「でしょ? だからハッキリ断るだけで諦めてくれるか不安なの……。彼氏が隣に居ればさすがに引いてくれると思う」
姉はその可愛いらしい外見とは裏腹に、気が強い。そのへんの不良くらいなら平気で対応するのだが、今回はちょっとヤバい匂いがするということで僕に助けを求めたようだった。
『彼氏を横に置いて金髪男からの告白を断る』
姉と相談して放課後に計画を実行することにした。姉に告白してきた金髪男は、一方的に思いを告げただけで返事も聞かずに去ったらしい。その男は告白後も姉の周りをウロウロしているそうだ。はっきりと断って、この気持ち悪い状況から脱したい。それが姉の希望だった。
僕と姉、橘直人と橘日向が姉弟ということは地元の中学ならともかく、高校で知る人はいない。だから彼氏のフリくらいはなんの問題もないだろうと思っていた。でも、……と少しは不安はある。
「そもそも、僕が彼氏役で大丈夫?」
自分は飛び抜けて容姿がいいわけでも、悪そうに見えるわけでもなかった。一度も染めたことがない黒髪、シャツのボタンは一番上まで留めていて、制服を着崩すこともしてない。
高校生なんて見た目でジャッジされる。相手は不良だというが、僕は殴り合いの喧嘩なんてしたことないし、格下だと烙印を押されたら不利だ。身長は高校生になってからそれなりに伸びたけど、姉の彼氏役として適任かは疑わしいところだった。
「大丈夫だよ。ナオトのその進学校の制服と優等生っぽい雰囲気はかなりの威力だから」
姉は微笑みながら僕の肩を叩いた。金髪の不良にとってそんなものが脅威になるだろうか。疑問に思いながらも今さら撤回することも出来ず、計画を遂行することになった。
その日は姉の下校時刻に合わせて、学校まで迎えに行った。僕はなんだかんだ言って姉に弱い。姉の横暴に逆らえない弟、という態度を取っているが、結局は姉が心配なのは間違いなかった。
学校に到着し、塀に背中を預けて姉が来るのを待つ。すでに下校し始めている生徒がチラチラと視線を寄越してくる。その遠慮なく向けられる視線に不安になってきた。僕が橘日向の弟だとバレているのだろうか。
「ごめんナオト! 待った?」
息を弾ませて、姉が走ってきた。頬を軽く蒸気させながら走る姿は、彼氏との待ち合わせに急ぐ健気な彼女に見えなくもない。
「遅いよ」
「えー、そこはさあ、全然待ってないよって言うのが彼氏じゃない?」
彼氏じゃないし、と言い返しそうになり口を噤んだ。今日の僕の役目は彼女を守る彼氏だ。
「……それより待ってるとき、すごい見られてた気がしたんだけど」
「そうなの? 他校生が珍しいからかなあ」
姉はそう言ってから、ナオトがかっこいいからかもよ、と笑った。そんな軽口を間に受けるほど馬鹿ではない。でもチラチラと姉と僕を見る生徒は多く、彼氏役として目立つことは成功しているのかと少しだけ安堵した。
僕たちは仲の良そうな雰囲気を演出して歩き始めた。姉は、今度の休みに買い物に付き合ってとか、そこのかき氷が食べたいとか、楽しそうに話してくる。それでもやはり普段の姉とは違って、落ち着かない様子だった。話の合間に後ろを振り返って周囲を気にしている。
「今日は例の奴はいるの?」
小声で姉に尋ねると、静かに頷いて街路樹に視線を向ける。
「そこの」
「ああ……あれ?」
そこで僕は初めて彼の姿を見た。
木の陰にふわふわした金髪が見え隠れしていた。それはまさにストーカーと言っていいだろう。学校からずっと僕たちの後を着いてきていたようだ。でも想像していたより普通の奴だった。背はそれほど高くなく、制服の薄っぺらいシャツから伸びる腕も細かった。もし喧嘩になっても、なんとかなるかもしれない。
背後から男が着いてくる気配を感じながら、僕たちは歩き続けた。最寄り駅まで着くと、姉はぎゅっと僕のシャツの裾を掴んで「行くよ」と言う。駅前は人通りが多い。安全のためになるべく人の多い場所で断る計画だった。僕たちは話をつけるために金髪の元に歩いて行った。
柱の陰に隠れていた金髪は、僕たちが近づいてくることに驚いて、立ち去ろうとする。
「待って!」
姉が咄嗟に呼び止めた。
ぴたりと金髪は立ち止まる。
「あの……! ヒナたちのあと着けるのやめてください」
姉ははっきりと告げた。それは緊張しているのがわかる声だった。
「ヒナ……」
金髪は呟くように姉の名前を呼ぶ。まるで仲の良い友人みたいな呼び方だ。
僕と姉の顔を交互に見てから、金髪は僕のシャツの裾を掴んでいる姉の手に視線を落とした。姉の手は少し震えていた。
「ごめんなさい。ヒナには付き合ってる人がいるの。だから君とは付き合えない。もうヒナのところに来るのやめてもらえますか?」
姉からの拒絶に、金髪はとくに声を荒らげることもなかった。横にいる僕をチラッと見て、ああ、と小さく呟くだけだった。
「そうだよな……周りをウロウロしてキモかったよな」
申し訳なさそうに金髪は言った。
改めて正面から金髪の顔を見ると、ゾンビみたいと言っていた姉の言葉はあながち外れていなかった。殴られた跡なのか瞼の上が腫れ上がり、片目を覆っている。顔は絆創膏だらけだった。
「えっと……隣が彼氏?」
そう言って僕を見上げる目には威圧感は無かった。むしろ傷だらけの顔の中で目だけが青く透き通っていて、あどけない印象があった。
「そうです。僕が彼女と付き合っているので諦めてもらえますか」
もし殴られそうになっても応戦できるように、身体に力を入れた。でも、金髪は殴るどころか力なく笑うだけだった。
「そっか。ゴメン。彼氏いるって知らなかったから」
「君の行動に彼女が怖がってます。もう彼女に近づかないでください」
「うん、わかった」
頷きながら、金髪は気まずそうに首の後ろに手をやった。
姉が僕の隣に来て、守るようにぎゅっと僕の腕を掴む。その様子を見て、金髪はふっとため息を吐いた。
「お似合いの彼氏だね。オレなんて全然勝ち目ないから諦めるよ。……だから、なんていうか……もう、安心して」
そう言うと、くるりと背を向けて歩き出した。ポケットに手を突っ込んでトボトボと歩く姿は、なんだか迷子の子どもみたいだなと思った。
「ほんっとにありがとう、ナオト! もう大丈夫みたい」
「もう、あの金髪来てないんだ?」
うん、と姉が頷く。あれから一週間が経ち、金髪は姉を諦めたようだ。作戦が成功したことは喜ばしい。でも、僕の心は何か引っかかってるような、モヤモヤしたものが残っていた。嘘をついたことに罪悪感はとくにない。結果がついてくるのであれば必要なことはする、というのが僕の信条だった。
僕はいったい何が引っ掛かっているのだろう。
金髪と再会したのは、それから数日後のことだった。
ここ最近は天気が不安定で、暑い晴れの日と、肌寒い雨の日が交互にやってくる。
今夜は雨の音が聞こえる。屋根の上に落ちる雨音はかなり大きかった。
高校に入ってから課題の量が増えて、深夜まで勉強する日が多くなった。机に向かい、教科書を開いているが頭に入ってこない。頭に浮かぶのは、あのふわふわした金髪と青い瞳だった。
なぜ自分は、あの男を気にしているのだろうか。
「……全然わからない」
集中できない課題は諦めて、外に出た。シャーペンの芯が少なくなっていることを理由にコンビニに行くことにした。家族を起こさないように静かに玄関を閉めて外に出ると、雨はすでにあがっていた。道路には水溜りがあちらこちらにあり、さっきまで土砂降りだった雨を思い出させる。
コンビニに到着すると、景色の端に人影が見えた。建物の隙間に人がいる。壁に寄りかかって座っているが動かない。
こんな時間にコンビニの敷地に寝ている人間なんて碌なものではないだろう。無視するのが妥当だ。でも、その金髪に見覚えがあった。
「……大丈夫ですか?」
そこに居るのは間違いなく、例の金髪の不良だった。僕の声にうっすらと目を開けて辺りを見回す。
「あれ?……朝?」
「朝日はまだ登ってません」
金髪は焦点の定まらない目で僕をじっと見て来る。顔は相変わらず傷だらけで、白い制服のシャツも泥で汚れていた。アスファルトはさっきまでの雨で濡れている。僕は思わず手を差し出して、彼を冷たい地面から起き上がらせた。
「あー……、どこかで見た顔だな。オレの知り合い?」
「知り合いというか、……この前駅で……」
なんて名乗るべきか悩み、言い淀んでしまった。まだ姉の彼氏のフリをしておいたほうがいいだろう。
「ん……? あー! 思い出した。ヒナの彼氏?」
「ええ……そうです」
「あのときは悪かった。マジで迷惑かけたよな」
「ああ、はい……。それで、ここで何を? 体調が悪いんですか?」
「いや大丈夫。ちょっと先輩にヤキ入れられて身体が痛ぇから休憩してただけ」
「ヤキ……?」
「ケジメっつうか、まあ簡単に言うとボコられたってだけ」
「はあ」
どうやらこの金髪は、見かけどおり正真正銘不良らしい。僕には馴染みのない種類の人間だと思った。血が滲む傷跡と、泥で汚れた制服が痛々しい。ハンカチのひとつでも貸したかったけど、軽装で来たからそんな気の利いたものは無かった。
「ちょっと待っててください」
「え?」
不思議そうに顔を上げる金髪を残して、僕はコンビニに入り、タオルや絆創膏など応急処置に使えるものを購入した。
泥で汚れた頬を拭い、傷に絆創膏を貼る。最初は「いいよ、そんなの」と戸惑っていた金髪も、最後は素直に身を任せてきた。
「痛っ!」
「すみません。少し我慢して」
口元の傷に触ると小さく悲鳴をあげた。
傷が滲みたのか少し涙目になっている。その目を見ていると、今まで感じたことがない感情が芽生えてくる。なぜか放っておけないと思わせるものが彼にはあった。
「あくまで応急処置なので、家に帰ったらちゃんと消毒してください」
「うん……」
「じゃあ、僕はこれで」
立ち上がって帰ろうとすると、金髪は慌てて声を掛けてきた。
「あ、待てよ。オレ花垣武道。お前は?」
「え? 僕ですか」
「お前しかいねぇじゃん。名前教えてよ」
「…………ナオトです」
少し迷って、下の名前だけを告げた。花垣武道はそれを気にした素振りもなくニッと笑った。
「ナオトか。これ、ありがと」
頬に張った絆創膏を指差して、また笑う。その笑顔は僕が何者かなんてまったく気にしていない笑顔だった。
それから、そのコンビニに行くと、花垣武道に遭遇するようになった。花垣は不良の仲間らしき高校生と一緒に居るときもあったし、駐車場で一人でカップラーメンを啜っているときもあった。どちらのときも僕を発見すると屈託ない笑顔で、よっ、ナオトと近づいてくる。彼はもともと人懐っこい性格なのだろう。
「ナオトがこの時間珍しいじゃん」
「今日は予備校の帰りです」
「へぇー、学校終わってまた勉強してんの? 信じらんねぇ」
「タケミチ君は?」
「オレは集会の帰り。先輩に呼び出されちゃったら行くしかないワケよ」
気安く話しかけてくる花垣武道と親しくなるのにそれほど時間はかからなかった。ひとつ年上の彼をタケミチ君と呼び、少しの時間だけ他愛ない話をする。
僕は不良というのは一種類しかいないと思っていたが、不良の世界にも階級があるとタケミチ君とその仲間の山岸から教えられた。
タケミチ君たちは不良ではあるが、暴走族チームに入っているわけではないらしい。いわゆるチームに所属する本物の下っ端という扱いだそうだ。
「オレ、そこまで気合い入ってないから。喧嘩も弱ぇし」
「どうしてタケミチ君は不良になったんですか?」
「んー……中学んときはかっけぇ!って憧れてたんだよ。……でも現実はしんどいわ。喧嘩に勝っても負けても、先輩にはヤキ入れらるし」
タケミチ君は俯きながら話す。ちょっと前も先輩同士の抗争に駆り出されたそうだ。オレたちは駒扱いだとぼやいていて、彼の頬に残る青痣はとても痛そうだった。
「僕は……喧嘩って意味が無いと思います。痛い思いをして、警察に捕まる危険を犯して。楽しくないのに何で続けるんですか?」
僕がタケミチ君に問いかけると、彼は真剣に悩み始めた。
「……まあ、ナオトの言う通りかもな。意味なんてねぇのかも。……お前はオレたちと違うんだから、真面目に学校行ってちゃんと勉強しろよ」
僕はタケミチ君の横顔を遠く感じた。
オレとお前は違う。そうはっきりと言われると、無性に寂しくなる。不良の世界のことはどんなに説明されても、本質のところは理解できなかった。この疎外感は以前にも感じたことがあるような気がした。
どうやっても理解できない価値観。喧嘩、抗争、メンツ、縄張り争い……。僕にとっては有害で無意味でしかないけど、それが譲れない大切なものだと言う人たち。
この既視感は何だろう。
タケミチ君と親しくなるほど違和感を覚えていたことがもう一つある。話せば話すほど、彼が姉にストーカー行為をしていた同一人物とは思えなかった。本来の彼はそういった粘着質なタイプとは遠いように感じた。
「どうして彼女をストーカーしてたんですか?」
「ストーカー?! まあ、そうか。本人にしてみればそうだよな……」
「突然土下座して告白してきたそうですね」
「ううん……告白っていうか、なんつうか」
タケミチ君は言葉を探しながら、僕にポツポツといきさつを話してきた。彼の話をまとめると「橘日向を守らなきゃいけない」と天啓が降ってきたそうだ。かなりオカルト染みた話で僕は興味をそそられた。
ある日、タケミチ君は通学路ですれ違った姉に吸い寄せられるように見入ってしまった。それは幼いころから夢の中に出てくる女の子とそっくりだったからだ。
彼女は夢の中で何度も死んでしまう。タケミチ君はそれを阻止しようとするが、結局毎回失敗して、彼女は死んでしまうそうだ。その子の名前はヒナで、姉の名前も日向。タケミチ君はこの子を現実世界でも死なせないように守ると誓った。そして姉に「君のことを一生守らせてください」と土下座した。そして日常でも姉に危険が及ばないように、周囲をパトロールしていたそうだ。
「……なんかこうやって客観的に見るとオレ、ヤバい奴だよな?」
「夢で会ったとか、君を守るとか言ってる時点で100%激ヤバの人間です」
「だよなぁ……。マジでゴメンって彼女に謝っておいて。いや、もうオレの存在も思い出したくないか」
「どうですかね。でも、……彼女はもう大丈夫だと思いますよ」
僕はまだ、タケミチ君に自分が橘日向の弟だとは言えずにいた。嘘だったと言いにくいのもある。でも、それだけじゃなくて、なぜか言いたくない……。自分でもよくわからない、説明出来ない感情があった。
「ナオトがあの子の彼氏でよかったよ。ちゃんと守ってくれそうだし、真面目な奴だし、諦めがついた」
へへっとタケミチ君は笑う。
「僕は別に……真面目じゃ、」
「謙遜すんなよ」
笑いながら「えいっ」と僕の髪に指を突っ込んでぐちゃぐちゃにしてくる。
「ちょっと、やめてください」
タケミチ君の手を掴んで、頭から引き離した。
「ナオトって手でけぇな。オレの手首一周してる」
掴まれた手首をしげしげと眺めて、タケミチ君は僕を見た。どくん、と心臓が跳ねる。
タケミチ君は固まってる僕の顔を下から覗き込む。その不思議そうな表情を見たら、ますます心拍数があがってくる。
最初に会ったときは、傷だらけで腫れていた顔は、今は小さな絆創膏だけになっていた。タケミチ君を年齢より幼く見せる大きな目も、笑うと綻ぶ口元も、柔らかそうな頬も近くにあった。
この例えが、年上の不良にあっているのかわからないけど、僕はタケミチ君が可愛い思った。可愛いって何だ? と自分でも突っ込みたくなるが。
ギャップのせいだ。第一印象がゾンビみたいだったから、素顔は意外と可愛い顔をしてるんだなって思っただけで、別に深い意味はない……はずだ。
でも、一度可愛いと思ってしまうと、止められなかった。心拍数は上がるばかりだった。
僕が橘日向の彼氏なんかじゃなく、弟だと告白したら、タケミチ君はなんて言うだろう。おそらく「なんだよー、それなら姉ちゃんとオレとの仲とりもってよ」と言われるんじゃないか。いや、そこまであからさまに言わなくても、タケミチ君はそれを僕に期待する。僕は絶対にその状況に陥りたくなかった。
「そろそろ帰るわ」
タケミチ君が立ち上がり、飲み終わったペットボトルをゴミ箱に捨てた。じゃあな、タケミチ君が言う。僕たちが話すのは彼がジュースを飲み終わるまでの、わずかな時間だけだった。
「あ、絆創膏剥がれてます」
「ん? どこ」
タケミチ君の口元の絆創膏がめくれて揺れていた。僕は片手を頬に当てて、そっと絆創膏を剥がした。タケミチ君は傷んだのか少し顔を顰める。
「新しいの貼りますね」
「ん、悪い」
最近は常に絆創膏を持ち歩いている。タケミチ君がいつ怪我をしても大丈夫なように。新しい絆創膏を口の端に貼り終わると、タケミチ君が微笑んだ。
「ナオトって優しいよな」
「僕は……別に、誰にでも優しいわけじゃないです」
「そうなの? このコンビニでオレに絆創膏貼ってくれたときはすっげえ嬉しかったよ。世の中には心が広い奴がいるんだなあって」
「あれは誰だって声かけますよ。傷だらけで制服と泥だらけで……救護の義務ってやつです」
「そんなヤバかった? まあなー、あの日は雨のせいで服はズブ濡れだし、殴られてところはめちゃくちゃ痛いし、マジで最悪だった」
タケミチ君の言葉を聞いて、あの日のことを思い出した。たしかにあの夜は土砂降りだった。あのときのタケミチ君は大丈夫なんて言って、平気なフリをしていたけど本当はかなり弱っていたのだろう。
「でもさ、あのとき目を覚したらナオトがいて、手を貸してくれて助かった」
ありがとな、とまた口元が綻ぶ様子を見ていたら、僕はどうしようもなくなってきた。今まで感じたことがない感情が湧き上がってきて、気づいたらタケミチ君にキスしていた。頬を両手で挟み、タケミチ君に顔を近づけ、唇に触れる。キスなんて初めてした。ぴったりと唇には重ならなくて、口の端の絆創膏に自分の唇が掠れた。
ゆっくり唇を離すと、タケミチ君は驚いた顔のまま固まっている。
「え……?」
「あ、……」
戸惑うタケミチ君に、この状況に至った経緯を説明しなくてはいけない。それは自分でも充分理解している。でも、まったく言葉が出てこなかった。
「すみません……」
捻り出した言葉はそれだけだった。突然キスしてすみません。彼氏だなんて嘘をついてすみません。あと、――好きになってすみません。全部をひっくるめて捻り出した一言だった。そして僕はそのまま方向転換して走り出した。
背後でタケミチ君が僕を呼ぶ声が聞こえたが、振り返る勇気は無かった。