北風と太陽 物心ついた頃から、国の太陽のポジションには兄貴がいた。
おおらかで寛大な王太子。王座についてからは人民を優しく包み込むように守護する賢王。
裏を返せば優柔不断で弱腰だろう。この世は弱肉強食だ。優しさだけで国を守れるはずがないだろうという考えは先王の頃には当たり前だったはずなのに。
「レオナ様、ファレナ陛下を見習わなければいけませんよ」
「あのように寛容な王を持てたこの王国は幸福です。決してこの幸福を穢さないように」
「貴方は太陽王のおそばでそのサポートをする光栄な立場にいらっしゃるのです」
レオナ様、レオナ様。ファレナ様を、ファレナ様が、ファレナ様のために。それがこの王国のため。王国の誇り。
あぁ、夕焼けの草原、万歳!
そんな言葉を投げかけられて生きてきた。
大地にオレンジの光が溶けゆく美しい王国。だが自分からはその地平線は一望できない。この国の太陽の後ろに立ち、長く引き伸ばされた影に静かに溶けゆく。
太陽の両腕がどれだけ寛大に国と民を抱きしめても、背後にいる俺はその温もりの相伴には与れない。暖かい日の光などそこには差し込まない。精々冷たい風が厳しく頬を撫でるだけ。
その酷く冷たく暗い世界で生まれ、死ぬまでここで生きていく。それだけだ――。
「あれ? これ、なんスか? 絵本?」
夕食後のサバナクロー寮の談話室。誰もが思い思いにゲームをしたり、協力して課題に取り組んだり、水場でふざけ合ったりしている、騒がしいが居心地は悪くない空間。
腹がいっぱいですぐに動く気にならず、デッキチェアにごろりと寝そべって食休みをしていれば、数メートル離れたところでラギーがマングースの獣人の手元を覗き込んでいるのが見えた。
そういえばあのマングースは熱砂の国の田舎町出身の新入生だったか。
NRCの敷地内には言語自動翻訳魔法がかかっているからコミュニケーションに問題はないが、一度外に出ればその恩恵は消える。つまり薔薇の王国や輝石の国など他国の大都会で就職したいのならばそれまでに共通語を覚える必要がある。ここの教師はそういうサポートもしているから、恐らく初期の課題として絵本を渡されたのだろう。
「あー、『北風と太陽』か。知ってるッスよ、この話。ガキの頃は結構好きでさ」
小柄な下級生が地元で面倒を見ているらしいチビどもと重なるのかもしれない。そいつの隣に腰を下ろしたラギーはペラリと絵本を開いてゆっくり音読を始めた。
訛りが強い夕焼けの草原語が母国語のラギーにも、実は去年、薔薇の王国語の課題をみっちりやらせた。長期休暇には他国に泊まり込みのバイトに行くし、ガキの頃から象の墓場の観光地化しているエリアで観光客相手に土産物を売りつけていたらしいので簡単な基本はできていたが、流暢というほどではない。将来いい職に就きたいのなら信頼される程度に言葉を正しく話せるようになれと告げたのだ。
そのお陰か、ゆっくりではあるが発音を間違えることもなく、聞ける程度の言葉遣いで読み聞かせができている。上等だ。だがその荒削りでどこか辿々しさが残る声で語られる内容に妙に心がざわついた。
北風と太陽。誰もが知っているであろうその童話を、自分もよく知っていた。乳母が繰り返しその話をベッドサイドで読み聞かせてきたからだ。
ある日、北風と太陽が、どちらが通りすがりの旅人のコートを脱がせることができるか勝負をする。まずは北風がビュービューと旅人に息を吹きかけた。コートを吹き飛ばしてしまえば勝てると思ったのだろう。その作戦は見事に失敗し、旅人は絶対に脱げないようにしっかりとコートを押さえてしまった。そこで今度は太陽が、暖かく旅人を照らした。ポカポカと心まで温まるような日光に、旅人はついにコートを脱ぎ、太陽の勝利が確定した、というくだらない内容である。
それを読むことで乳母が言いたかったのは、つまり他の人間と同じだろう。ファレナを見習え。寛大さで人を治めろ。お前は北風である。人を従わせることはできない。器ではない。諦めろ。お前はどう足掻いても太陽よりも格下なのだ、と。
自分の人生を執拗に貶されているような気がした。もしも全知全能の神とやらが本当にいて、そんな人生に自分を導いているというのなら、空まで駆けていってその首を噛みちぎってやりたいくらいだ。
グルルと無意識のうちに喉から不快な低い唸り声が漏れた。
「おい、ラギー……」
北風と太陽の代わりにお前が去年使っていた他の絵本を持ってこいと声をかけようと、眉間に皺を寄せながら少し上半身を起こした瞬間――。
「んぁ? これ、オレが知ってる話と違うんスけど。何これ?」
ハイエナの大きな耳が不思議そうにピクピクと動いた。読んでいる本のタイトルを見直し、またペラペラとページをめくる。
マングースの獣人は確認するように絵本とラギーの顔を見比べて、不安そうに教本の何がおかしいのかと問いかけた。
「んー、オレが知ってる北風と太陽はコートじゃなくて帽子を脱がせようとするんスよ。そもそもコートなんか着るほど寒くなんないし、あんな布代だけでも高いもん、地元で着たことねぇからピンとこないッス。なぁ、お前ら北風と太陽知ってる?」
変なの、ともう一度絵本に視線を落としたラギーは、すぐそばにいた獣人たちに本をヒラヒラと掲げながら声をかけた。夕焼けの草原出身の二年生たちだ。そいつらはすぐになんだなんだと絵本に手を伸ばし、本に目を通し始めた。声が聞こえたのか他の寮生たちも興味深げに集まっていく。
「これさぁ、北風ッスよねぇ、勝つの」
あーだこーだとざわつく人だかりの中で、その台詞はまるで世界にラギーだけしか存在しないかのように真っ直ぐ耳に飛び込んできた。
思わず息を呑み、固まる。ドッドッと心臓が激しく音を立てた。
「旅人の帽子を脱がせる勝負になって、太陽がジリジリ焼き付けるんだけど、あんまりにもその日光が暑すぎるから旅人はもっとしっかり帽子を被ってさ。それで北風のターンになって、もっと激しくいこうぜって思いきり強風を起こして旅人の帽子を吹っ飛ばすの」
一音も聞き逃したくなくて、呼吸も忘れて興奮気味のハイエナが続ける話に聞き入る。
そんな話、聞いたことはない。いつだって勝つのは太陽で、人に恐怖しか与えない北風は煙たがられ、失敗が運命付けられていたはずで。
だから諦めた。頭上の岩に勝つ夢なんて見ないで、太陽を後ろからじっと恨みがましく見つめることを学んだ。
なのに……違うのか?
「オレ、北風が好きだったんだよなー、ガキの頃。ブォォォッ、って一気に帽子を巻き上げるところを想像してた。旅人に町一番の腹黒金貸し爺さんの名前つけて、シシシッ、そいつが町のおじさんおばさんから巻き上げたお金もぜぇんぶかっさらってくれたら面白いのになーって、ヒーロー扱いして勝手に話に肉付けしてたなぁ、そういえば」
けれど王宮からもっとも遠いところで生きてきた民がそんな常識をひっくり返していく。気持ちいくらいにあっさりと、馬鹿げた話に変えていく。
ぐっと何か熱いものが喉をせり上がってきて、目の奥が不意に痛んだ。その痛みが、嫌ではない。唇の端がワナワナと震えた。手で押えなければ何かが溢れ出してしまいそうだった。
「なんだよ、その変な話。俺が聞いたのはこの絵本の通りだったなぁ。それって夕焼けの草原バージョンなのか? 輝石の国は北の方は寒いからコートで普通に納得してたんだけど」
「俺はコートの話も帽子の話は聞いたことあるぜ。帽子が最初の勝負で、コートの二番目の勝負。結局、太陽でも北風でも、自分の力をうまく使える条件下で戦えば勝てるって話だろ?」
「え? 人は力でコントロールするんじゃなくて、優しさで導くって話じゃないのかい? 偽善的な、童話にありがちな話」
「え、何それ。マインドコントロールッスか?」
「ブハハ、ラギー、太陽をサイコパスにすんなよ! その通りだけど!」
「いやだって太陽で焼くって相当凶悪だし、普通に運悪く通りすがっちゃっただけの人間を拷問する話だと思ってたッス。太陽のやったことが優しさぁ? 優しいだろって言いながらそんなことしてるの、余計タチ悪くないッスか? 最初から力こそすべてって言ってる北風の方が気持ちいいっしょ」
ワッと笑い声が上がる。何でもない風に、『正しい』大人たちが望んだであろう世界観をぶち壊し――笑う。
こいつらはきっと気づいていない。こんなことで、まさかあの『レオナ・キングスカラー』がひっそり救われてしまったことなど。
あまりにも王宮とは違う空気が満ちている。ここは心地がいい。たとえ正しくはない馬鹿げた話をしているとしても、この世界を守りたい。そう、反射的に思ってしまった。
いつかここにいる全員が袂を分つ。全寮制の学校とはそういうものだ。だがどこかで元気に生きて、ふとした拍子に今の話を広めてくれるなら、それだけで自分は救われ続けるだろう。その時、きっと自分は以前と同じ、影の中にいるのだろうが。
ゆっくりと目を閉じれば、もう飛び出さんと口端をひくつかせていた笑みを抑えることはできなくなって。
「ふ、ふははははっ! ラギー!」
体をくの字にさせて、咆哮するように笑った。大声で、空の星となった歴代の王たちにも聞こえるくらいに。
力こそがすべて。そうだ。それでいい。北風も太陽も、自分の持ちうる力のすべてを使って戦い、その力が適合したバトルでは勝ったのだ。
ならば自分の力は何だ? 呆けたような間抜け面のハイエナが使うべき武器は?
「お前たちも……」
急に機嫌よく立ち上がったボスに、サバナクローの群れも導かれるように顔を上げた。
一人一人の顔を順々に見回す。こいつらは太陽の優しさなんかには騙されない。焦がれない。代わりに尊敬するのは純粋な『力』と『威厳』だ。自分と同じ世界を見つめている。こいつらとなら、できるかもしれない。
「もうすぐマジフト大会がある。俺たちはここ二年間、連続で負けている。こんなことが強豪サバナクローに許されるのか?」
ベルベットの如く滑らかな声で問いかければ、それまで気楽げに緩んでいた獣人たちの顔が一気に引き締まった。
全校マジフト大会は恐らくサバナクロー寮生にとってもっとも重要な学校行事なのだ。強豪寮として、ここからプロ選手になる人間が何人も出る。ただの青春の思い出ではなく、輝かしい将来へと切符。
だからこそ、そこで試してみたくなった。北風の力が本当に太陽を倒すことができるのか。
「お前たちの話を聞いていて、面白いことを思いついた。頭を使ってあのチートなトカゲ王様に勝つ方法をな。言っておくが太陽みたいな正攻法じゃねぇ。北風のやり方だ。だが、あの化け物に勝つにはそれが一番可能性がある。やってみたくはねぇか?」
その問いに、誰かがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
それぞれの瞳に戸惑いの光が宿り、それはすぐに期待と興奮に満ちていく。
沈黙はほんの数秒。しんと静まり返った空気を何かが震わせた。足踏みだ。威嚇に近い、期待の音。小さく、バラバラだったその音はすぐに大勢の奏でる熱狂的な行進曲へと変わった。
太陽はこれから歩む道を照らさない。けれど代わりに月光が頭上から降り注いだ。それで……十分だ。
「一生一度のチャンスだ。世界を……ひっくり返そうぜ」
さぁ、始めよう。新しい北風のストーリーを。ダークなならず者のヒーローたちの、起死回生の喜劇を。
歴史に名を残す悪巧みの準備をしておけ――輝く時代の幕開けだ。