月よりも 通い慣れた細い路地を、月が照らしている。
大学も4年になれば、残りの単位をとるため淡々と足を運ぶぐらいしかキャンパスに用事はない。友人もいない自分には黙々と卒論を書き上げる時間があったし、内定が決まった今、バイトさえなければ、残り少ない学生時代は幼馴染の部屋で過ごすと決まっていた。
秋が少しずつ深くなり、日が落ちるのも早くなってきた気がする。夏に置き去られた街路樹の青い葉も少しずつ色づき始め、肌に当たる空気が心地良い。何処からか香る金木犀を探すが、街灯の少ない暗がりでは匂いの元は分からなかった。
日が照っている間には決して窓を開けず、自分ではカーテンも開けない一二三は季節の訪れに少し疎い。
いつでも部屋に迎えるのは月明かりと俺だけだった。
古ぼけた小さなアパートの鉄骨の階段を上がり、慣れたインターホンを押す。ドア横の窓が暗いのでもしかしたら不在かと思ったが、少し間を置いて静かにドアが開いた。
「……独歩、お疲れ様」
控えめに微笑んだ一二三は俺を迎え入れ、麦茶しかなくてごめんとグラスを差し出す。畳敷きの小さなワンルームには珍しく月明かりが差し込んでいた。
「電気つけないのか?」
「またバイト辞めちったから少しでも節約したくて……今日は月が明るいし」
いつも閉めっぱなしだから換気にもなるし、と一二三は付け加える。よく見るとカーテンが秋風に吹かれていた。
「月見するならワックでも寄って月見買ってくるんだったな」
「しけてて悪いけど、俺っちが作った月見団子ならあるよ。食べる?」
「相変わらず器用なやつだな……いいのか?」
「一人じゃ食べきれないから」
窓際にクッションを二つ並べて、ささやかな月見の始まりだ。団子の素朴な甘さともちもちの食感に口角が上がってしまう。
「独歩ってほんと美味そうに食べてくれるよな」
「実際美味いんだからしょうがないだろ……こっちの黄色いのはなんだ?」
「かぼちゃ味」
どうやって作るんだ?と聞くと一二三は丁寧に説明してくれたが、キッチンに立つことがない自分には余りよく分からなかった。ただ、説明する一二三の顔が少し楽しそうでホッとする。最近はずっとつらそうな表情の一二三ばかり見ているから、好きなことの話をして気が紛れている様子を見るだけでなんとなく安心する。
女の声が急に聞こえた瞬間、それまで和やかに話していた一二三の顔が青ざめた。
ただ外の路地を歩きながら話す人の声が聞こえただけ、ただそれだけといえばそれだけのことだが、一二三にとっては一大事だ。人気の少ない暗い路地を女性が通ることはほぼない。それがこの場所を選んだ理由でもあったからだ。
慌てたように窓を閉め、カーテンも閉め、力無くへたり込んだ一二三は、自らの肩を抱いて小さくなって震える呼吸を繰り返している。
窓越しに遠ざかるその声を見送って、念のためカーテンの隙間からも確認して、行ったぞ、と一二三の肩に触れると、少しだけ触れた指先が冷え切っていて、思わず上から掌を重ね直した。
「独歩ちんの手、あったけーね……」
肩を抱き寄せると擦り寄ってきた一二三は、まだ顔色が悪いままだ。
「ごめん、情けないとこ見せて」
「お前は悪くないだろ……」
悪いのは全部あの女だ、とマグマのような憎悪と憤怒が胸の中でドロドロと胸の内に渦巻いたが、これ以上一二三の辛い記憶を引き摺り出したくなかったので口をつぐんだ。
「この辺は夜は静かだし、ときどき窓開けてるんだけど……油断しちゃったな」
「たまたまだろ」
「……外を歩く女の子は何も悪くないのに、勝手に怯えてさ……ホント、何も変わらないな……」
惨めな気持ちに押し潰されて、沈んだ目をした一二三を見ていると苦しい。けれど掛ける言葉も見つからなくて、ゆっくり背中をさする。少しずつ顔色が戻ってきた一二三は、気を取り直して月見の続きをやろうと言った。
「カーテン開けて大丈夫なのか?」
自分からカーテンを開けた一二三は、独歩がいるから、と微笑う。窓のサッシがカラカラと音を立てると、また真っ直ぐな月明かりが小さな部屋を照らし出した。
月の光が透けた金糸のような髪と、少しやつれているが整った容貌をした一二三は、時々この世のものではないような心地になる。綺麗で儚くて、今にも壊れてしまいそうで、少し怖い。
月を見つめる一二三が消えてしまいそうで、思わず抱きしめた。
「綺麗だな」
「……独歩ぉ、それじゃ月見えてないじゃん」
「いいんだよ」
end.