用事ができた。たまたまハンネマン先生と会って、授業の教室変更の知らせを各学級に伝える羽目になった。面倒な頼まれ事だが、こういうことは学校生活では珍しくない。遭遇してしまったのは不運だが、お使いや荷物持ちの例の中では伝達は楽な方だ。
……ということで、伝達役になってしまったフェリクスは黒鷲学級、青獅子学級の者に伝えていった。一人か二人に伝えれば、瞬く間に広まっていくのが通例だから、ちょっとした用事に過ぎない。
「あとは、あそこか……」
そして、最後の教室である鹿の旗が垂れた教室へ向かう。
その日は運がなかった……。
普段なら見知った相手を見つけたり、イグナーツやラファエルが気付いて用事を聞きにきてくれるのだが、その時はいなかった。他に目ぼしい人物がいないかと見渡すと、教室の奥に白い髪の生徒がいた。フェリクスの知らない級友達と話しており、入口にいる彼には気付いてない様子だ。
ちょっと声をかけるのを躊躇う……といった感性はなく、むしろ好機と捉えてズカズカ教室に入っていった。実は、フェリクスは金鹿学級に赴くのは苦手意識があった。
『あれーフェリクス君だー! 何か用事かなー? あっ、お迎えに来たのかな?』とか『フェリクス、ちょうど良かった! あいつの機嫌損ねたようだから、ちょーっと何とかしてくれないか?』とか何とか、面倒な事を言ってくる人達が大体いるせいで。
──だが、今は彼らが不在で気が楽だった! いない時に済ませたいところだ。
あっという間にリシテア達の側に来たが、話に夢中のようで誰も気付いていない。少し思案してから、集団の一人に声をかけた。
「リシテア」
突如降ってきた低音に、皆一同声の持ち主に顔を向けた。一名は、驚きに満ちた顔に朱色を添えて。
「あっ、フェリクスさんだ」
「リシテアちゃんに用かな?」
「……ああ」
見知らぬ学徒に素っ気なく応対して、ナッツ色の瞳は目当ての人物を捉える。……なんだか、体が震えているように見えた。
「……な、なん……でしょうか」
いつもの覇気を失った細い声に、その場にいた者達は注目した。さっきまでハキハキお喋りしていたのに突如、蚊の鳴くような声に変貌すれば驚いてしまう。
この日は運が悪かったので、『ははーん、そういうことかー!』とピンとくる人物がいなかった。なので、リシテアの急激な変わりようは皆に一抹の不安を齎した。
「大丈夫、リシテアちゃん! もしかして、具合悪い?」
「そうだ、この前の訓練の時も真っ青だったよね! 頑張り過ぎだよ、医務室か部屋で休んだ方が良いんじゃない?」
「だ、大丈夫ですから! ち、違いますから……」
日頃の行いのため、級友達はリシテアの体調を気遣う。ただ聞いていたフェリクスも同じような事を考えていた。……こいつ、今まで何回倒れたんだ? という疑問も。
「顔が赤いが、熱でも出たのか?」
あんたのせいですよ! と、言いたくなったリシテアだが、グッと堪えた。そのため、尚のこと頬に熱が籠もってしまう。
「あっ、ほんとだ!? 顔が赤いから休んだ方が良いよ」
「先生には、私から言っておくよ」
「だから、違いますから! あんたも、変なこと言わないでください!」
何を言っている……? と、フェリクスが思う間もリシテアは級友達に大丈夫だと主張し続けていた。体を気遣ってくれるのは感謝するが、健康上に問題ないのだ……心以外は。
「な、何の用ですか?」
「ああ。授業の教室変更の報せだ」
「そうですよね……そんな事ですよね……」
少し残念そうなリシテアに訝しげつつ、用件を伝えていった。一緒に聞いていた名の知らぬ級友達は『みんなに伝えてくるね!』と、快く引き受け、教室内や教室外の近くの学友の元へ伝えに行く。
リシテアもそれに倣って教室を出ようとする。だが、その前に──。
「あの、急に呼ばないでください……」
「何がだ?」
「な、何がって!? ……あんたのことだからそうだと思ってましたが」
「はあ?」
同じく教室を出ようとしていたフェリクスは、リシテアの言っていることが理解できず首を傾げた。
彼にとっては、何の変哲もないごく普通のこと……ありふれた日常と変わらない。
(気にするだけ無駄ですよね。毎回、そうですし!)
何かの意図も他意もないとわかっているのに、騒がしい心臓を悔しく思う。だが、頭でわかっていても、冷静になれないもどかしさはリシテアの心をかき乱す。
──名前を呼ばれたくらいで動揺してしまうなんて! どうして、そうなるのかもわからない。
「もう、不意打ちは卑怯ですよ!」
「さっきから何を言ってる?」
「人がいる時に言うのはずるいですよ! それなら、もっと普段から言ってください! ……いえ、それも困りますね。いざ呼ばれると心臓に悪いですし……前から思ってましたけど、あんたは気にしていない様子ですし」
「……は?」
「と、ともかく、急に言わないでください! 慣れてないんですから、もっと考えてください!」
一方的に言いたい放題した後、リシテアは足速に教室を出て行った。やっぱり理解不能の面倒な女だ、とますます強めていった。
助言する者や揶揄う者が誰もいなかったので、この日のことは何の変哲もない日常になってしまうのだった。……運が悪かった。