その時の彼は機嫌が良く、ウキウキしていたと後に思った。
「やあ、失礼するよ。我が金鹿学級へようこそ、君ならいつでも歓迎するさ! まあ何故、こちらに異動したのかは甚だ疑問ではあるが……良き級友になれたらと思う」
明日から教室が変わる寮内の自室で、彼は突然の来訪者を受け入れていた。
ローレンツの歓迎の申し出を受けて、既に異動のことが伝わっているとフェリクスは悟った。スカウトされて決めあぐねていたが、より剣技が磨かれると判断してベレトのいる学級……金鹿学級への編入を決めたのは前日のこと。
「授業は大して変わらないが、うちでは芸術分野や経営論が入ったりと特徴がある。慣れるまでは少々時間を要するかもしれないが、君の将来に役立つだろう」
「芸術……」
「美しいものを見て、心を揺さぶられることはなかったかい? 歌や絵には多くの歴史や感情が宿っているのだが、より感銘を受けるには教養が不可欠だからな」
「…………そうか」
悠々と語るローレンツの芸術論をフェリクスは渋い顔をしながら聞き流す。
レスターは工芸品や美術品を生業とする職人が多いためか芸術科目があった。縁のないフェリクスは興味が唆らないが、受け入れるしかない。
「金鹿学級は、青獅子学級とは個性的……変わっていると自負している。勝手の違いに戸惑うだろうが、君ならやっていけるだろう」
「そうか。明日から頼む」
素っ気なく応えるフェリクスに来訪者は顔を曇らせる。ぶっきらぼうな応対でやや面食らうが、それは彼とて周知の事実。
ローレンツがフェリクスの元を訪れたのは挨拶が目的ではない。軽く咳払いをしてから言葉を紡ぐ。
「早速……と言うのも何なのだが、先に伝えたい事項がある。先ほど述べた通り、金鹿学級は変わっている。僕が言うのも何だが、規律がないと考えていい!」
それは言い過ぎじゃないか、とフェリクスは言いかけたが、ローレンツの並々ならぬ熱量を感じて押し黙る。
「無論、フェリクス君の意向は汲み取っていくつもりだが、こちらに馴染めるよう努力してもらいたい」
「そのつもりだ。承知で異動を決めてる」
「話がわかるようで何よりだ。なに、すぐに慣れていくだろう。勝手に慣らされていく」
「……慣らされていく?」
良い返答を貰えて、ローレンツの口角が上がっていった。意を決して、彼に申告する。
「では、君にも加わってもらう。クロードの起床当番に!」
…………なんて?
「は?」
「君の反応は尤もだ。だが、今は異論を封じてほしい。我が学級が変わっている要因はクロードのせいと言ってもよい!」
「いや、それだけじゃないと思うが……」
クロード以外の面子を思い浮かべて、みんな個性的だと思うフェリクスを無視して、ローレンツは揚々と口を動かす。
「おそらく君も知っているだろうが、まずクロードは朝に起きない! 奴の就寝時間は深夜だ!」
「知っている!」
夜中にガサゴソガチャガチャうるさいので隣室の二人は十分理解していた。フェリクスからはローレンツも騒音対象だが……。
「当然、毎回遅刻だ。だが、困った事にあれでも金鹿学級の級長だ。級長たるもの在校生徒の模範になるべきなのだが……まあ、誰にでも得意不得意はある。『できない事を無理にさせるより得意分野を伸ばした方が良い。仲間とフォローし合うのも重要だ』と、あの先生は言っていてね。その措置として、我々で起床を促している」
「子どもか?」
「非常に賛同するが、級長を奮い立たせては諌めるのが金鹿学級において必要だと僕は解釈している。学級における課題と捉えて」
「無理矢理だな」
フェリクスの鋭い指摘にローレンツは咳払いして誤魔化した。
「そ、そう言えなくもないが、これが兵の編成としたらどうかな? 同僚や上官が気に入らないからと言って、蔑ろにする訳にはいかないだろう」
「それはそうだが……」
「そういう訳で、金鹿学級に異動したからにはフェリクス君も則ってほしい!これもファドラの平穏と安寧のためだと思って理解してくれたまえ!」
強引に言い包められてる気がするが、朝が苦手な者はいる……フォローし合うのも重要か、とフェリクスは納得しようとする。つい、ローレンツに同情的な視線を送ってしまうのは致し方ない。
「そんなに言い詰めなくても理解していた。ん? ……待て、しばらく前から朝方がやけにうるさかったのはそのせいか」
「さすが察しが良いな。ははは……皆それぞれ創意工夫してクロードを起こしに来ていた次第で……」
「言い合いならまだしも、窓や扉が壊れたり、爆発音がするのか?」
「はー、はっはっはっ……人には向き不向きがあってだな。色々検討した上で主に男性陣で組んでいる。そうしないと、いつか死人が出かねない……」
乾いた笑いをするローレンツにフェリクスは憐れみを込めてしまう。
フェリクスは鍛錬のために早起きする事があるので、目にする機会が何度かあった……クロードの部屋の中が黒く焦げていたり、扉が半壊していたり、窓が割れて雨曝しになっていたりと。
「ただ起こしに行くだけで、何故そうなる……」
真相が金鹿学級による起床行為とは……やり過ぎじゃないのか?
「すまないが、君の期待に応えれない。何故なら僕にもわからないからな……つい、扉を壊しちゃった!とか起きない方が悪いんですとか窓からの奇襲がいいだろなどの言い分は聞いたが、少々理解の範疇を超えていた。まあ、それでも都度対策するクロードもどうかと思うが」
「そこまでして寝ていたいか……?」
「寮を破壊する気か! と、セテスさんに咎められてからは彼女達には遠慮してもらっている。そも、異性の部屋に赴くのは色々よろしくないからな」
彼女達……その発言でフェリクスは大体悟った。穏やかに優しく起こすタイプではない奴が多いからな、と当人達に知られたら怒られる感想を持つ。
「という訳で、フェリクス君に渡しておこう。クロードの部屋のマスターキーだ!」
「いいのか?!」
突然、合鍵を渡されて困惑するフェリクスにローレンツは事も何気に言い放つ。
「君は、人の部屋に勝手に入って漁るような真似をしないだろう?」
「それはそうだが……」
「それに、そんな事をすれば何が起こるのかわからない。部屋に罠を仕掛けるくらいやっているだろう、あの男は」
「そうだな」
妙に納得してしまう。おいそれと侵入すれば、こちらが袋の鼠になりかねない。
「それなら鍵を貰ったところで役に立つのか……」
「安心したまえ、クロードは強かだ。害意のない相手に無闇に攻撃してこない。その代わり、ちょっとやそっとでは起きないので覚悟してほしい!」
「わざわざ起こす必要性を感じないが」
「君のところのシルヴァンに夜遊びを控えるよう言うのと差して変わらない。そういうのは言っておかないと、どんどん酷くなってしまう!」
シルヴァンを例えに突かれると反論し辛い。言ったところでどうにかなる訳ではないが、言わずにいられないのかもしれないとフェリクスは考え直す。
これが金鹿学級のやり方と言うなら仕方ない。郷に入れば郷に従えという格言もあるし、ローレンツの言い分は一理ある。
「確認したいが、起こし方に制限はあるか?」
「寮が無事なら問題ない。先生とセテスさんから確認済みだ」
よし、それならやりようがある! と互いの意思を確認し合った。手法を聞いてこないローレンツからの信頼を受け止めて、フェリクスは起床当番を承諾した。日頃の深夜の騒音の鬱憤を晴らしたいとは思っていない……たぶん。
「クロード君、最近ちゃんと朝起きてて偉いね〜」
「寝過ごすと致命傷にならない範囲の矢の雨や毒霧の餌食になるからな……」