プシュケー指輪を嵌めたい夜もある。
終電一本前の電車に乗って自宅に帰ってきた独歩はリビングのキャビネット一番上の段、そっと仕舞ってあるリングケースをかぱと開けて自分の分を左手の薬指に嵌めた。するとなんだかスッキリし、ケースを元の場所に戻した。
そのまま上機嫌で、ダイニングテーブルに置かれたメモを読み、その指示通りに肉じゃがを電子レンジで温め、味噌汁が入った小鍋を火に掛けた。
夕飯を温めている間、独歩はジッと小さな石が嵌め込まれた指輪を眺めていた。シンプルな見た目な割にそこそこ良いお値段のもので、しっかり話し合って割り勘で買った。オンラインショップ経由だったため少し不安だったが、届いてお互いの指に嵌めてみるとサイズピッタリで嬉しかった。
右手の人差し指と親指で嵌めた指輪を弄んでいるとティロリンとレンジが鳴って取り出す。味噌汁も温まったみたいで火を消して汁椀によそう。そしてメイン、パコンと炊飯器を開けば本日炊き込みご飯。おお…と思いながら茶碗に気持ち多めによそい、箸も並べていただきます。美味しい。幸せ。
視界の端、左手薬指、キラキラ光る指輪が、綺麗。
今年入社してきた新卒の女の子が寿退社するらしい。
良い選択だと思う。なにせ独歩の会社はブラックだから、良い選択だと思う。
ただ、指導していた独歩の身にもなれ、とも思う。
いや結婚することは素晴らしいことだと思う。
おめでとう、よかったね、と祝福する気持ちは独歩の中にあった。あったからちゃんと言った。独歩のその言葉に相手はありがとうございますぅ、と嬉しそうに笑った。なので急ですが上の人と話し合いまして今月末で退職することになりました。そうなんだ。そーなんだ。そんなの聞いてない。
キラキラの指輪を見せつける女の子の前でにへらと独歩は笑った。笑いながら帰ったら指輪しよ、と思った。
それにしてもこの肉じゃが美味すぎて泣きそう。
指をぎゅっと握られる感触で独歩は目を覚ました。
あー、瞼が重い。目をつむったままぼーっとする。その間も独歩の左の薬指と指輪がよく知る手によって弄ばれる。第一関節をかぷ、とかじられたところでやっと独歩は瞼を開けた。
「おかえり」
「ただいま」
独歩の目の前で一二三が楽しそうに、嬉しそうに目を細めて笑った。
「指輪つけてどったの」
そう言いながら一二三は独歩の指輪を人差し指でなぞる。
「…新卒の、後輩、女子社員、いきなり、今月、寿退社」
「ンン?」
「じゃあ誰が彼女の案件やるんだ…」
「ンー…」
「俺。」
独歩はそう言って一二三に向かって両腕を伸ばし、一二三は身を乗り出して独歩を抱きしめた。まだシャワーを浴びていない一二三からは様々な匂いがしたが別にどうでも良かった。
帰宅した一二三が帰ってすぐ独歩の顔を観察する習慣があることを独歩はきちんとしっかり知っていた。一二三も別に独歩が指輪を嵌めていなければ起こすことなくスルーするつもりだったのだろう。まぁ独歩的にはどうでもいい。目の前にいる人間が伊弉冉一二三なら別にどうでも。
「お前も嵌めて来いよ、俺をこのまま抱えつつ」
「え〜リビングまで行けっかな」
「そこはヨユーっしょ、と、言うとこだろ」
「んじゃあがんばっけど、布団の外寒いよ?」
「じゃあいらん」
「言うと思った。ここでさー、俺っちがマッハでシャワー浴びて指輪つけて戻ってきたらヒャクパー独歩寝てるじゃん?」
「寝てるだろうな」
「だったら俺っちこのまましばらくハグしてダラダラしてたい」
そう言いながら一二三が独歩の頬に頬ずりする。そしてそのまま一二三は独歩のベットに独歩を抱えたままごろんと転がった。
「ぐえ」
「リユーはいまいちよくわかんないけど、つけてくれんのは嬉しい」
「申し訳ないが、でも、アレコレ詮索されるのはうんざりなんだ」
「堂々と言って黙らしたらいーじゃん」
「堂々と言ったら総務部の東出さんに刺される」
「あー、一昨日も来てくれたよん」
「元気だな、早く帰れていいな総務部は、あ〜…、総務部だから余計アレだ、命の危険だ」
「どゆこと?」
「総務部は社員のプライバシーを一括管理」
「ふぅん?」
「だから、………めんどくさ…」
独歩は急に諸々を説明するのがめんどくさくなり、左手で一二三の髪の毛をぐちゃぐちゃに弄った。あとアレだ、目の前に恋人が、いや事実婚な相手がいるのというのに他の人間の話をするのは野暮というものだろう。
「指輪痛った〜」
一二三が笑った頃合いで独歩は顎を少し引いた。この十数年で身につけたいわゆるキス待ち顔というやつだ。
「はい〜」
一二三からはミントタブレットの味がした。美味い。容赦なく独歩は舌を突っ込み丁度よい塩梅のディープキスをする。一二三はシャワーを浴びてないし、独歩は準備をしていない。そして明日も早い。セックス歴十数年、回数はゆうに三桁越え。勃たないレベルでお互いの唾液を啜るなんて余裕だ。なにせ二十年の付き合いだ。ついでに言えば独歩のファーストキスは小4、相手は一二三だ。
一二三の体温を感じていると独歩は うと、とまた眠くなってきた。
一二三もそれを感じ取ったので、体を少し離した。
「俺っちこのまま起きってっから」
「ん」
「一緒に朝ごはん食べよーね。指輪付けて、新婚さんしよ」
「新婚って定義はとうに外れただろ…」
「気持ちはアツアツだからいーの」
「トマト、食べたい…」
「おっけー、じゃあパンね」
独歩は体を少し起こして一二三にお休みのキスを送った。送りながら朝が楽しみだなと思った。