【金東】バレンタインデー憂鬱症【サンプル】 どことなく浮かれた空気が漂う。朝練終わりにちらりと見かけた三年生の一部は、将来をかけての試験前でピリピリとしていた。この季節の空気のように乾いて冷え切っていて、気がついたらどこか怪我してしまいそうなそんな張り詰めた空気。
来年は俺もあの一員なのだろうか。それともなんとか推薦を貰えて、後輩の邪魔にならないように野球の練習に励んでいるのだろうか。
廊下や他所のクラスの教室から感じる空気からどうにか意識を切り離して、後ろで騒がしい奴らも無視を決め込んで自分のクラスへ黙々と足をすすめる。
「あ、信二」
「東条、お前先行くなら言えよ」
「あー……、ごめん。ちょっと、」
視線を斜め上へと逃して乾いた笑いを浮かべる東条に、眉が寄る。でもすぐにその理由がわかってしまえば、東条なりの気遣いだとわかる。自分の体に隠すようにして持っている紙袋。そこから覗く愛らしいラッピング。
「ったく、ほんとに昔からモテるよな」
「違うって。義理とかだって」
義理ばかりなわけがない。本人もそれはよく理解しているだろうし、東条宛のラブレターだって預かった経験もある。女子がそういう話をしているのを聞いてしまったことだってあるし、なんなら直接東条に彼女がいるかとか好きな人がいるかを問い詰められたことだってある。
いつかその中の誰かと付き合うのかも知れない。アイドルが好きな東条が選ぶ女の子だからさぞかわいいのだろう。そうしたら今までのようなつるみ方はできなくなるかと思うと、少し憂鬱になる。
「変に気遣うなって言ってんだろ」
「そういうわけじゃないんだけど」
「予鈴。鳴るぞ」
人付き合いがうまくて、気遣いができて、やさしい東条のことを好きになる女子は多いはず。そんなのはもうシニアにいた頃から知っている。
「ああ、うん。じゃあ放課後に」
「おー」
羨ましい、って思わなかったことがないわけではない。正直なところ羨ましくて仕方がない時期だってあった。だって、人生で一度くらい女子にモテてみたいもんだろう。
でもまあ、モテる幼馴染を持つとその悪い面も同時に知るわけで。東条はやさしいからなおさら、相手を深く傷つけないように〝お断り〟することに頭を悩ませていた。
(そういえばあいつ、誰かと付き合ったって話聞いたことねえんだよな)
聞いたことがないだけで、いたことはあるのかもしれない。それでも、長く続いた相手というのはいないはずだ。だって練習や遊びに誘っても断られたことなんてなかったし。そんな素振りも見たことがない。それに、東条だってどこまでも野球バカで時に必死に、時に楽しんで野球に没頭していた。
色めき立つ教室の空気にうんざりしつつ、自分の席へと腰を落ち着ける。
エナメルのスポーツバッグから持ち帰っていた分の教科書を取り出して、机の中へとしまう。いつもと変わらない行動をしたはずだったのに、事件が起きる。
教科書を入れられることを拒む存在がある。ガサ、と紙だかビニールだかわからないが、押し潰されるような音が聞こえた。
(え、は……まじ……?)
今日は二月も折返しに差し掛かった十四日。いわゆるバレンタインデーとかいう日だ。そんな日に心当たりのない感触が机の中に存在している。
どうせマネージャーからの義理チョコくらいしか貰えないだろうと思っていただけに、気持ちが一気に浮ついて教室の空気に飲み込まれてしまう。
入れようとした教科書とノートの束を一度机の上に置く。そして恐る恐る、でも何気ない風を装って机の中へと手を突っ込んだ。
(ある!)
手に触れた感触としてはビニールの袋。やわらかくつるりとした布の感触もあるから恐らくリボンが巻いてある。手にした感じはあまり大きくはなさそうだ。
きょろり。一度周囲を見渡して誰も俺のことは気にしていないのを確認する。心臓がバクバクとうるさいのも手汗がすごいのも無視して、ひと思いにターゲットを机の上に取り出した。
「カネマール美味しそうだな!」
「手作り?」
「おああ⁉」
後ろからバカみたいにでかい声がかけられて椅子ごと飛び跳ねる。一瞬心肺が停止し、再び急加速をしたせいで心臓が痛い。
後ろから覗き込んでくる沢村の頭を引っ叩く。
「声がでけえ!」
「いってえ! 暴力反対!」
「手紙はいってるよ」
「なぬ! ラブレターか⁉」
「お前らうるせえ! 頼むから黙れ! ほっといてくれ」
両腕いっぱいにかわいいラッピングが施された袋や箱を抱えている、沢村が吠える。同じく両腕に紙袋までぶら下げた降谷も空気を読むことを知らない。
もうクラス中に広まったし、きっと昼休みや放課後には学年中に広まるに違いない。運悪く先輩に捕まったら弄りの対象になるし、そうじゃなくても同期にイジられることは確定事項な気がして、浮上した気分は一気に沈み込む。
「誰から?」
「あー……誰だろ」
降谷に言われて初めて気づく。送り主の正体がわからない。バレンタインにパウンドケーキと手紙を添えて贈ってくれるような相手に心当たりもない。悲しいことに。それでも現実問題、ここには丁寧にラッピングされたそれがあるわけで。
「手紙に書いてあるよ、きっと」
「そうだな!」
「……いや、なんでお前らのほうが興味津々なんだよ」
まだ言葉にはしていないものの、目を期待に輝かせて俺の顔と件の袋を交互に見つめ、早く開けろと訴えている。
「カネマール! 早く!」
「焦らさないで」
「そうだそうだ!」
「焦らすもなにも、お前らには関係ないだろ!」
「そんなツレないこと言うなよぉ」
手にお菓子を抱えていなかったら、しがみついてきそうな勢いの沢村。眉尻を垂らしてあからさまに落ち込んでしまった降谷。なんで俺たちの代の投手ふたりはこんなに面倒くさい性格をしているんだろうか。東条のことを見習ってほしい。
「わかった。開ければいいんだろ!」
「カネマール!」
深呼吸。すっかり浮ついた気持ちは霧散してしまった。けれど、開封して送り主を特定するというのは変な緊張がある。しかもオーディエンスがふたりもいるなんて、おかしい話だ。
シュル、とリボンが音を立てる。きれいに蝶々結びがされていたそれは解ける。結び目に癖が残った艶のある真っ赤なリボン。透明な袋の口は波々にカットされていた。
同じく赤い小さな封筒。ポチ袋くらいのサイズのそれの表にも裏にも記名はない。
指先が震えそうになる。知りたいようで、知りたくない。嬉しいようで、本当に嬉しいのか分からない。ひどく落ち着かない気持ちで封筒の口へと指をかけた。
覗いたメッセージカードに思わず喉がなる。
「……名前ないね」
「おおおお! カネマール告白だぞ!」
「いやいや。誰かわかんねえし」
丁寧に書いたことはわかる。落ち着いた字で『すきです』とだけ綴られていたけれど、宛名も差出人の名前も結局書かれてはいなかった。
ただ、その文字を見た瞬間、身体のどこかがザワザワとなにかの信号を発して落ち着かない気持ちになった。なにか見落としていることがあるような、なにかが引っ掛かる感覚が拭えない。
「ってか、誰宛てとかも書いてねえから、相手間違ってるかもしれねえしな」
「そんなわけ! 好きな相手の席を間違えるなんて断じてない!」
「なんかお前に諭されるとムカつくな」
「なにおう⁉」
「ほら、担任来る前に席つけ」
手の甲で払うようにしてふたりを追い払う。他のクラスメイトたちも自席に戻り始めているのを見て、ふたりも慌てて散って行ってくれた。
改めて残されたものを眺めてみる。封をされた状態では封筒で隠れていたけれど、入っているパウンドケーキは学校から駅までの道のりにある洋菓子店のものだった。つまるところ、青道に通っている生徒であれば誰でも立ち寄って買うことができる。お菓子だけでは送り主の特定はできなかった。
もう一度封筒とメッセージカードを確認してみるものの、やはり記名はされていない。
そしてやっぱり何かが引っ掛かる。記憶のどこかが疼くようなもどかしさを抱えながら、『すきです』の文字を指でなぞる。
「なあ、これ誰が入れたか見てなかったか?」
ダメ元で隣の席のクラスメイトに話しかけてみるけれど、即座に首を振られる。
「や? それよりさっき東条が探してたみたいだぞ」
「あー、さっき廊下で会った」
探していたという感じはなかったけれど、うちのクラスの女子に捕まったのをそう言い訳でもしたのだろう。一番角の立たない言い訳だ。
「金丸やるじゃん」
「うっせ。俺宛かもわかんねえじゃん、こんなの」
今の席が廊下側の一番うしろであることが、廊下からの隙間風が寒いこと以外にこんなことに支障が出るなんて思っても見なかった。人の出入りも激しく目撃している人は限りなく少ないだろう。
「卑屈になるなよなあ」
「そうじゃねえって。まじで間違いだったときバツが悪いだろ」
「あー、たしかにな」
いつもと変わらない様子で教室に入ってきた担任。教室のざわめきが落ち着くのと同時に、俺達の会話も打ち切られる。
日直の号令にしたがって、立ち上がって一礼を終えると、リボンと手紙を袋の中へと入れてからスポーツバッグの中へとしまう。そして本来机の中へと入るべきだった教科書たちを定位置へと入れた。
頭の隅っこへと事件の存在を追いやって、日常生活へと戻るべく担任のどうでも良さそうな話へと耳を傾けた。
◆
「金丸くん、告白されたみたいだね」
「え、あー。みたいだね」
小湊はどこまで分かっていてそう声をかけたのだろうか。誰にも言ってはいないし、今まで疑われたこともない俺の後ろめたさで覆い被した気持ちに気づいてのことだろうか。それともチームメイトの何気ない恋バナをしたいだけなのか。
「相手わからないんだって」
信二がラブレターを受け取った話は、朝のホームルームが終わって直ぐにこのクラスにも届いてきた。高校生の噂話の早さは光速だ。あっという間にクラス中、学年中、学校中に広まっていくものだ。昼休みには九鬼や瀬戸の元にも噂は届くのだろう。
「そうなんだ」
「栄純くんが探そうとしてるみたい」
「信二嫌がってそうだなあ」
そのふたりの姿が安易に想像できる。自分のことかのように騒ぐ沢村と、鬱陶しそうにしている信二。なんならその後ろでそわそわしている降谷までセットで瞼の裏に描ける。
それにしても信二も間が悪い。よりによって沢村に見つかるなんて。沢村に噂を広める気がなくても、あの声の大きさで秘密話なんてできっこない。
「東条くんは相手気にならないの?」
「なんで?」
多分小湊はこの休み時間中はここにいるつもりだろう。少し離れたところから別のクラスの女子がこちらの様子を窺っているから。
「んー、この話題自体に興味がなさそうだけど、金丸くんと一番仲がいいのは東条くんだから」
興味がないわけではない。いつかこんな日が来るとずっと覚悟し続けていただけ。
だって信二はすごくいい奴だから。上辺だけじゃない、認めた相手であれば深い情で寄り添ってくれる。時々無神経なこともあるし、きつい物言いをすることもあるけど、良かれと思ってやっていることだ。あの懐に飛び込む女の子がいたって不思議じゃない。
「相手かぁ、信二がいいなって思う子だったらいいな、とは思うけど」
「あははは、東条くんらしいね」
信二のことを大切にしてくれて、信二のことを傷つけない子であれば誰でもいい。俺がそのポジションに収まることはできないんだから誰でもいい。ただ、信二と一番仲がいい友人のポジションだけは誰にも譲る気はないし、俺たちの関係を脅かすような子じゃなければいいとは思う。
「そうかな? だって信二いい奴だし、相手は誰だって可能性はあるだろ」
自分では気づいてないみたいだけど、信二のことを気にしている子は少なくはない。以前からそうだ。義理チョコと称してじゃないと渡すことができない本命チョコに俺は気がついていた。
お小遣いでチョコレートを買う小中学生のバレンタインの義理チョコはもっと簡素なものだとどうして気づかないのか。気づいて欲しくないから絶対に言わなかったけど。
うん。やっぱり嘘。どんな子でもいいけれど、正直なところは憂鬱。
いつか必ずその日がくるというのは分かっているし、バレンタインなどのイベント事はその可能性をぐん、と引き上げるから俺にとっては憂鬱な日になる。
「初見近づきにくいけどね」
「そうなんだよなあ。すぐ睨むしな」
「栄純くんがしょっちゅう睨まれてたよね」
「沢村は特にだろ。今じゃ割と仲良しだけど」
移動教室への移動時間のために用意されているような休憩時間はあっという間だ。みんなが慌てて自分の席へと戻っていく中で、小湊はようやく腰を上げた。
「相手、わかるといいね」
「……そうだな」
◆
「疲れた……」
沢村が学年中の女子に聞き込みをしようだ、筆跡鑑定をしようだ、エトセトラエトセトラ。そうやってバカみたいに絡んでくるのをあしらうのにエネルギーの大半を費やした気がする。
そのおかげもあってか、先輩たちはからかうネタにするどころか哀れみの視線を向けてくるだけで済んだ。
もし、俺がその女子だとしたら、今頃後悔で悶々としているはずだ。だって、やっと勇気を出して告白をしたつもりが名前を書き忘れるという失態をし、学年中と全学年の野球部員に噂が広まってしまったのだから。名乗り出るにも出られないだろう。
かわいそうに、とは思う。俺宛で間違いなければちょっとうれしいな、とも思う。でもやっぱり何かが一日中引っ掛かり続けている。魚の小骨が喉に引っ掛かっているような感覚だけど、魚の小骨のように原因がわかるわけではない。もどかしい。
「沢村本気で吉川に聴き込みしてたよ」
「まじで勘弁しろって」
俺が項垂れる姿を見て肩を揺らして笑う東条。他人事だからって、完全に傍観者を決め込みやがって。
じとり、と登場に視線を向けていたら、不意に今朝の出来事を思い出す。
「東条、今日うちの教室来たときなんか見てないか?」
「え、俺? 見てないな」
「ま、だよなあ」
目を丸めた東条は素早く数回瞬きをした。そのあと時間をかけて二度何かを言いたそうに口を開閉させる。東条が俺に対して何かを言い淀むなんて珍しい。
遠くで倉持先輩が沢村を叱りつける声が響いたと思えば、直後御幸先輩の笑い声が破裂する。
「信二は、相手気になる?」
「そりゃ気になるだろ」
「なんで?」
「なんで、って」
逆に気にならない人なんているのだろうか。いや、いるか。御幸先輩とか奥村とか結城とかは気にしなさそう。
なんで気になるのだろうか。相手が分かればその子と付き合うのだろうか。それとも単純に興味なのだろうか。送るべき相手が俺で合っていたのか知りたいだけなのだろうか。
「知らない人にもらったもん食うなって、子供の頃教わっただろ」
「たしかに」
「俺宛じゃなかったら食ったら申し訳ねえしさあ」
事実。嘘は言っていない。だけどもっと根っこの部分が自分でも理解しきれていない。どうして気になるのか、何がこんなに引っ掛かりを覚えるのか。このもやもやをスッキリさせたいから、相手が知りたいのかもしれない。
「大丈夫、信二宛てだよ。きっと」
深くたっぷりと顎を沈めた東条は、ふわりと笑った。冷え切って硬い二月の空気がここだけやわらいだ気がする。
「やっぱなんか知ってんだろ」
「そうじゃないって。なんだろ、勘?」
へらりと気の抜けた笑みを見せた東条だけど、さっきの頷きはなにか確信がありそうな雰囲気をしていた。勘や第六感とは違う、俺がまだ知らないピースを隠し持っていそうだ。
「じゃあ、俺宿題やるから」
「ああ、俺も出てるわ。じゃあ」
東条たちの部屋の前で、じゃあと軽く手を上げた東条はもういつもどおり。ということは、これ以上深追いしたところで何も教えてはくれない。
それなら俺も早く宿題を片付けてしまわなくては、寝不足になってしまう。
「おやすみ」
「おう、おやすみ」
あっさりと閉められた扉を一瞥する。すっかり冷えはじめてしまった身体に、身震いをひとつ。
「う~、寒い」
濃い白の息を吐き出す。その色にいかに外気温が低いかを思い知らされる。濃紺の空へとあっという間に溶けて消えた白を見送って駆け足で階段を上がる。大急ぎでゆるやかに暖房が効いた部屋の中へと飛び込んだ。
◆