天使も悪魔も 僕の名前は勝生勇利。
日々迷える魂を還る場所へ導いてるよ。
実感はないんだけど、多分、僕は、地上に生きる人々からは『天使』と呼ばれる存在だと思う。
かく言う僕も迷える魂だった。
地球での生を終えて、とある理由で魂の還る場所へ戻れなくて、どうしたらいいだろうと迷っていたんだ。
迷える魂っていうのは、生きている間に生じた未練や業によって、本来魂の進むべき道からはぐれてしまった魂のことを言うんだけど。
僕は、少し違う。
僕は…未練がないかと言えば嘘になるけど、道に迷うほどではなかった。
誰だって、大なり小なり未練や後悔があると思うけど、肉体を脱ぎ捨てる時、それらは生きている時ほどの重さを持たなくなる。あぁ、ああすればよかったな、こうすればよかったな、程度で、それじゃあ、次の生でチャレンジしようってなるんだ。
もちろんもっと生きたかったけど、生きている間とても充実していたので、迷わず魂の還る場所を目指した。
宙の…はるか彼方にある光へ向かって進めば、そこが魂の故郷だ。
魂はそこへ戻り、そこでしばらく休憩したら、また新たな生を過ごすために地上へやってくるんだ。
でも、いけなかった。
いわゆる、業、カルマ、だね。
僕の死を受け入れられず、僕の魂を地上へ引き止めてしまうほどの業を、僕は負っていた。
魂全体に絡みつく、おもいおもい鎖が、僕を地上へ繋ぎ止めた。
僕が魂の故郷へ還るには、この業を解消しないといけない。
これがまた難しくて。
ねぇ、ヴィクトル。
離れ難いのは僕も同じだけど。
このままでは、ヴィクトルが『悪魔』になってしまうと聞いて。
魂を地上へ縛り付けるのは、魂の摂理に反するから、いわゆる『悪魔』と呼ばれる魂になりやすくなってしまうのだって。人間社会で言う犯罪者、みたいな?
それで、僕はヴィクトルが悪魔にならないように、そばで見守りながら、未練や執着で地上を離れられず、還る場所を忘れてしまった魂…よく言う“幽霊”を導くガイド、いわゆる『天使』をしてる。
地上での役割があれば、魂の道から逸れてないからね!
僕は、役割があるから、魂の還る場所へいかないだけ。
ヴィクトルのせいじゃない、つまり、ヴィクトルは魂の摂理に反してないっていう。なんていうんだっけ、こういうの…欺瞞? 詭弁? ご都合主義? なんか、そういうの、魂の世界でも通じるんだーってなかなか衝撃だったね。
というような事を、僕のガイド…天使が教えてくれたんだ。
僕の天使、誰だと思う? 誰って言うか。
ヴィっちゃんだったんだ!!
魂は、人間にも動物にも生まれるから、地上での姿は関係ないんだって。
最初、ただの光の玉として傍にやってきて僕を導いてくれたヴィっちゃん。
言葉は関係ないんだ。魂同士は、イメージで伝え合う事が出来るから。
僕がヴィっちゃんって気付いたら、その姿を見せてくれて、すごく嬉しかった。
天使からは生前の関係や姿について話すことは出来ないんだって。
でも、大概の天使は気付いてもらえる。
何故なら、生前での絆が、天使と迷える魂を導く鍵になるから。
迷える魂が天使になれるかなれないかは、絆に掛かっている。
泣くほど嬉しかった。
また会えて嬉しかった。
これも、ヴィクトルのおかげだね。
悪魔になりそうなくらい、重い、重い、想い。
執着は業になりやすく。
その執着を生み出した原因は、執着される側にもあれば、当然それは僕の業でもある。
肉体を脱ぎ捨てた魂は、執着からも解放される。
だから、未練や後悔があっても故郷へ戻る魂がほとんどだ。
でも僕には、ヴィクトルの執着が絡みついて捲きついて離れない。
『離れずにそばにいて』
その約束を長くは守れなかった僕の罪。咎。業。
あ、ヴィっちゃんは、ちゃんと魂の故郷にいたんだけど、僕がヴィクトルからの執着で雁字搦めで動けないのを見かねて、助けに来てくれたんだ!
故郷で羽根を休めている魂は自由なんだって。好きな時に地上へ降りられるし、好きなタイミングで肉体を得るために地上へ生まれることも出来る。
魂の故郷で、僕をずっと見守っていてくれた。
ありがとう。
しばらくの間、僕と一緒にヴィクトルを見守ってくれるんだって。
笑っちゃうよね。
天使みたいに美しいヴィクトルが、僕への執着で悪魔になる寸前で。
僕は天使の役目をしてる。
夢でしか逢えないけど。
離れずにそばにいるよ。
ヴィクトル。ヴィクトル。ヴィクトル。
僕、思うんだけど。
天使も悪魔も、紙一重だよね?
ロシアの軍事侵攻に端を発した世界情勢の変化は、僕たちにも影響をもたらした。
まず、ヴィクトルに監視がついた。
ヴィクトルは、俺が亡命しないか心配らしいね、と薄く笑った。
僕の頬を撫でるヴィクトルの手の平は、冷たく、まるで石膏のようだった。
ヴィクトルは、僕に隠したいようだったけど、何度も政府機関やらなにやら、接触があるようで、二人きりでいる時以外は、塞ぐことが増えた。
僕は、どうしたらいいのか、ヤコフコーチやユリオ、ミラやギオルギーさんに聞きたかったけど、そういう事を口にするのも憚る雰囲気がチムピオーンに満ちていた。
ただ一人の日本人選手を預かるクラブチームとして、慎重に対応を検討しているようだった。
僕が、ただのフィギュアスケーターだったら、事はもっと簡単だったかもしれない。
僕はもう、ただのフィギュアスケーターではなかった。
国際大会でいくつも金メダルを獲り、直前に開催されたオリンピックでも頂点に輝いた。そのオリンピックチャンピオンに寄り添う、僕よりも燦燦と輝く美しいロシア人コーチ。
ロシアに渡った当初、一部のロシアの人々は、ヴィクトルが日本人選手である僕をコーチすることに顔を顰めたり批判をする声もあったけど、実績を積み重ねていく内、いつしか、最強のコーチと選手として受け入れられ、僕のメダルを自国選手のメダルのように国中で喜んだ。
僕は素直にそれが嬉しかった。
僕の愛するヴィクトルを育てた国。
ヴィクトルが愛する国。
僕の、愛する国。
僕は、とっくに決めていた。
ヴィクトルと歩む。離れずにずっとそばにいると。
僕は、ヴィクトルの決断をずっと待っていた。
「勇利、忘れ物はないかい」
ロシアの国際大会からの締め出しが決まった。
僕は日本人選手だから、もちろん出場できる。そのための練習もずっと続けてきた。
大会出場のための荷物をまとめるように言われ、緊張しながらパッキングをした。
ヴィクトル、一緒に来るよね?
どうして、荷物をまとめないの?
「俺は国を出ることが出来ない」
僕たちは、お互い、涙を流し、再会を約束した。
この時はまだ、それを信じていた。
実際、コーチ不在を物ともせず、僕は金メダルを獲ってロシアへ戻った。
抱き合って再会を喜び…その夜はすごく…すごく…情熱的な夜だった。
それから何度か一人で国際大会へ出て。
段々、戻ったり、ロシアを出る手続きに時間が掛るようになった。
「勇利。君とのすべての関係を解消したい。君は、日本へ帰るんだ」
彫像のように美しい顔で、ヴィクトルが告げた。
帰らないと告げると、顔を歪ませた。
「勇利、俺は、国へ貢献しなければならない。俺を育てた祖国を、俺は裏切ることが出来ない。その為には、君との関係が問題になる。今までは、少しばかり距離の近い選手とコーチでやってこられた。しかし、俺の監視もきつくなり、君と俺の関係が明らかになれば、俺だけでなく、君の立場も危うくなる。これは、君を守るための…」
「コーチも、恋人も、解消しない!! 僕を舐めるな!!」
知ってる。
知ってるよ。
ヴィクトルは本当は、国を捨てたっていいと思っている。
いくらでも亡命して、僕とずっと一緒にいるつもりだと知っている。
僕たちの関係は、とっくに知られている。
あなたはむしろ、当初は見せつけるくらいだった。
あなたは、脅されている。
ロシアで、僕たちは婚姻を結ぶことは出来ない。交際が明らかになれば、処罰される。
国は、ヴィクトルを広告塔のように使いたい。
国は、ヴィクトルと僕がそういう関係では困るんだ。もしそういう関係だと明らかになったら、ヴィクトルは処罰されないといけない。亡命されても困る。
ヴィクトルは、匂わされたんだ。
僕と別れ、僕を国から追い出し、国の為に働かなければ、僕を殺すと。
国が本気になれば、僕の命など紙切れ同然だと、ヴィクトルは僕よりも理解している。
ねぇ、僕は確かに日本を背負って立つトップ選手の一人だけど。
その前に、ただ一人を愛する、ただ一人の人間だ。
僕は、ロシアに帰化するつもりであることを告げた。
ずっと一緒にいよう?
僕は、ヴィクトルの為になんでもするよ。
この国では結婚出来なくても。
交際を公に出来なくても。
一緒にいることは出来るでしょう?
その日は、抱き合って眠った。
枕が湿って気持ち悪かったので、頭の下にはタオルを敷いて。何枚も必要だった。
僕は、今季で引退を決めていた。
ヴィクトルは、それを薄々感じていたようだ。いつ言い出すかびくびくしていたと苦笑して、寂しそうに微笑んだ。
最後の大会が終わったらロシアへ帰化できるように進めよう。そう話し合って決めて、その意向を国へ伝えたところ、僕は面談を受けた。何度も何度も、尋問のようにロシアへ帰化する意向を確認された。その頃は、一日のスケジュールが、練習、面談、面談、練習、面談、という感じで疲れ果て、もう、ヴィクトルにやっぱり亡命して!!と言い出しそうになった頃、僕の帰化は承認された。
手続きを進めながらも、ヴィクトルは、僕が国際社会から批判されるのは辛いと言った。だから、なるべく発覚を遅らせたい。密やかに、誰にも気づかれないように。
ヴィクトルは、相変わらず国を出ることは叶わなかった。
有終の美を、優勝で飾る事は出来なかった。
例の面談のせいにするつもりはない。実際、かなりの負担だったけど!
それよりも、彼を大会へ参加できるように奔走したことの方が大変だったな。
特別参加で、公式記録には残らないのが、すごく悔しい。
ユーリ・プリセツキー。
僕は、眩しくその金色の輝きを見上げた。まったくもう、僕より身長伸びちゃって。悔しいったら。
ユリオと一緒にロシアに帰っても良かったけど、僕は一度日本へ、長谷津へ寄った。
一緒に帰らなくて良かった。
それからしばらくして、僕は『天使』をすることになったから。
事故だよ、ヴィクトル。
暗殺なんかじゃない。
事故なんだよ…悲しむのは仕方ない。逆の立場だったら、僕だって尽きることのない涙を、涸れ果てるほど泣くだろう。
事故だから。そんなに、恨まないで。憎まないで。
ヴィクトル、僕はあなたを『悪魔』にしたくないんだ。