六月のパン食い競争 その8清掃活動にご協力ください 放課後のことである。漆間が自転車置き場に向かっていると、裏庭ではしゃぐ男子生徒たちの姿が目にとまる。ボウリングのマネごとをしているようで、金髪男の足元にはピラミッド状に缶が並んでいる。10メートルほど離れた場所から、坊主頭の男が缶めがけて野球ボールを放った。
ストライク。缶を倒した勢いそのままに、豪速球は花壇にぶつかり宙を舞う。最終的にいくつかの花が下敷きになったが、2人は気にするそぶりもなく、そろって喜びの声を上げた。
「あ~、遊んだ遊んだ」
人を見た目で判断してはいけない。判断してはいけないが、彼らが次に取った行動はおおむね漆間の予想通りだった。缶を置き去りにしたまま、トンズラここうとしているではないか。
どうしようもねーのがいるもんだと思いつつも、厄介事に首をつっこむ趣味はない。スルーを決め込みふたたび目的地へ向かおうとした、その時である。
「あの~」
耳慣れた声が後ろからして、漆間は立ち止まる。
「あん?」
野太い声に不穏な気配を感じた漆間は、ふたたび彼らの方を振り返る。いつの間にか、金髪と坊主頭の前に自隊のオペレーターが立っていた。
「ええと、いま美化委員会の活動中でして。ぜひ、活動にご協力を……」
飛んで火に入る夏の虫。このことわざを使う日が来るとは思ってもみなかったが、いまの彼女は誰がどう見ても"虫"だった。
六田は2人に歩み寄ると、遠慮がちにゴミ袋を広げてみせた。仕草こそ控えめだが、引く気配はいっさい感じられない。
だが男たちは要請に応じず、ただただニヤけている。
「あーこれね、捨てる捨てる。捨てるけどさー……」
「捨てたらおれらとデートしてくれる?」
「で、デートですか? や、あの……今日会ったばかりの人とデートっていうのは~、ちょっと……」
(そういう問題じゃねーだろ)
そのやり取りに雲行きの怪しさを感じつつも、漆間は動かない。六田をなんとかしてやりたい気持ちがあるにはあるが、負ける勝負には挑まないタチなのだ。
己のあけすけな態度は何かと反感を買いがちで、和平交渉なんてとてもじゃないができない。万一けんかに発展したとして、生身の戦闘においては体格差が物を言う。小柄な自分が彼らに勝つのは難しいだろう。そう分析していた。
何より、自分が人に絡まれることはあっても人が絡まれるのに遭遇したのは初めてで、つまりはどうしていいか分からなかった。漆間がその場をうろうろしていると、にわかに慌てふためく声がする。
「あのっ、手は……手は、困ります」
見れば彼女の頼りない腕が、金髪の両手に包まれていた。そこからの記憶はあまりない。気がつくと漆間は、3人の前に姿を現していた。
「……その辺にしとけよ」
「漆間くん……!」
「誰?」と問う金髪に、「こいつボーダーのやつだ」と坊主頭。
「んー? てことはキミもボーダー?」
「あ、はい……」
バカ正直に答えてんじゃねーよ。たやすく素性を明かしてしまった六田に、漆間は少々あきれる。
「てかどこ住み~? あのでかい箱からガッコー通ってんの?」
「箱ってボーダー本部のことですか? ええと、ボーダー隊員がみんな本部に住んでるわけではなく……」
「六田さん、それ以上は守秘義務っす」
漆間の妨害にもめげず、金髪はなお彼女の個人情報を引き出そうとしている。
「じゃあさ、どこの隊入ってるか教えてよ。A級だったりする?」
「それも守秘義務だから」
本当のところ、居住や所属部隊を明かす程度さしたる問題ではない。だがこの金髪はあきらかに六田に下心があるし、のちのちストーカー化しても困る。
そもそも、ふだんから2人が同じ部隊であることは極力ふせるようにしている。漆間はその性格ゆえ、敵を作りやすく揉め事を起こしやすい。何かあった時に彼女に迷惑がかからないよう、配慮しているのだった。
「さっきからなんなんだよテメー。おれはこの子に質問してんだよ」
「しつけーな。ボーダーに関する質問は答えらんねーつってんの」
「あっ、もしかしてこの子の彼氏だったりする? 嫉妬してんだ」
「……クズから人助けすんのに肩書は要らねーだろ」
「あ?」
「誰がどう見たってクズだろ。ポイ捨てなんて今どき小学生だってしねー。ベタベタ手ぇさわったり、しつこく質問責めにすんのもアウト。……あんた、モテねーだろ」
言ってから漆間はしまったと思う。いまは六田がそばにいて、なるべく穏便に、平和に解決しないといけないのに──そう分かっていたはずなのに、口から出るのは煽り文句ばかり。ボーダーでみがいた舌戦の手腕が、ここぞとばかりに発揮されていた。
「っ……訂正しろ!」
「しねーよ。事実だろ」
すでに戦は始まってしまったのだ。こうなったら徹底抗戦するほかない。何を言っても言わなくても、この場をまるく収める道は、もう閉ざされているのだから。
顔を真っ赤にした金髪は、漆間に詰めより胸ぐらを掴み上げた。
「う、漆間くん……言い過ぎ、なんじゃない、かな……? 謝った方が……」
六田は争いを避けるためならば、思ってもないことを言える人間だった。その声はか細く震えている。見なくても分かる、いまにも泣き出しそうなのだろう。
正直なところ、襟元を締め上げられておりかなり息苦しい。しかし漆間は挑発的な笑みを浮かべて続けた。
「言い過ぎ、どころか……ッ、図星でしょ。当たってるから……フッ、怒ってんだ」
「っ……! てめえっ」
とうとう地面に押し倒された。必死にもがいても、腹の上の巨漢はびくともしない。トリガーなしでは反撃すらできない己の非力さが腹立たしい。
「もう一度言う、あやまれ。いま謝れば、特別になかったことにしてやる……」
なかったことに"してやる"だと──? 謝罪を要求してくるやつというのは、どうしてこうもみな偉そうなのだろう。これまで自分に苦言を呈してきた大人どもも、大体がこんな調子だった。
──漆間くん、謝りなさい。君が謝れば丸く収まるんだ。
──オレは、わるくねえ。
──市民を守るボーダー隊員が、同級生と揉めてどうする?
──間違ってんのは向こうだろ? なんでオレが謝んなきゃなんねーんだ。
こんな短気なヤツを──痛いところを突かれたぐらいで怒りくるうようなヤツを、守れっていうのか? そんなにえらいのかよ、市民サマってのは。
──ハア。きみはそれでもボーダー隊員か?
漆間の考えに呼応するように、教師の呆れた顔が鮮烈によみがえってくる。
あーうぜえ。お前らなんか、お前らなんか……
「ボーダーがいなきゃなんもできねーくせに……!」
それは禁句だった。三門市民に言ってはいけないことを、漆間はいま、口走ってしまったのだ。
「は、はあ? そんなこと言っていいわけ? ボーダーのやつってやっぱり俺らのこと見下してるんだ? 表では正義ぶってるくせしてよ……!」
金髪の背後から、坊主頭のわめき声が聞こえる。
「見下すも何も事実だろ。アンタらがそうやってオラついてられんのも、ボーダーが街の平和を守ってるからだろ。ボーダーがいなきゃアンタらはいまここにいねー。どっか別んとこで大将にゴマすって、こそこそ金魚のフンやってんだろ」
「ざけんなっ」
金髪の拳が天高く振り上がる。漆間は目を閉じ、任務の失敗を悟った。
(あー、ダメだ。やっぱりオレ、交渉とか向いてねー……)
その時である。
「はい、カットカットー! いったん休憩入りま~す!」
突如として威勢のいい関西なまりが割り込んだ。
「「「あ?」」」
「水上先輩……!」
見ればそこには、スマートフォンを横向きに構え、こちらににじり寄るオレンジ頭がいた。金髪は思わず立ち上がり、颯爽とあらわれた緊張感ゼロの場違い男を問いただす。
「おい、なに撮ってんだよ……!?」
「何って動画やけど。俺、動画配信者になろっかなー思て」
「は?」
「いやな、俺高3やしそろそろ進路決めなあかんくて。知っとる? 動画配信ってむちゃくちゃ儲かるらしいですわ。だから俺も動画とか撮ってみよっかな~って。……あっカメラ直った。はい。てことで、さっきの修羅場つづけてもらえます?」
「……!?」
「殴る時の構えっちゅーの? お兄さん筋がええなあ。ホンモノの不良かと思いましたわ」
「いや、さっきから何を言って……」
「うーんと、お兄さんはさっきのくだりをそのまま続けてくれたらいーんですわ。さあさ、そこの漆間クンに一発、ガーンと喰らわしたってや!」
「あ"?」
はずんだ声でまくし立てる水上に、不信感を示したのは金髪──ではなく漆間だ。
「ちょっ、なんなんだよアンタ」
なぜだかこちらに加勢してきた水上に、坊主頭は動揺を隠せない。ふだん自分からグイグイいくぶん、相手からグイグイ来られるとどうしていいか分からないのだ。
「どーもどーも。未来の動画王・水上敏志です。以後、お見知りおきを~」
水上は懐から何やら黒くて小さい紙を取り出すと、両手をそえ、うやうやしく2人に差し出した。漆間はその光景を見て思う。ボーダーに名刺ってあったんだ……。
「ん? アンタもボーダーかよ。おたくの後輩どうなってんだよ」
「やー、申し訳ない。後でシメときますんで」
「オイふざけんなオレは悪くねー」
すかさず抗議する漆間だが、その声は届かない。
「すんませんねえ……こいつ、えらい態度が悪いでしょ?」
「ホントだぜ全く。あーあ、ボーダーに苦情入れよっかな~」
「ちょお、堪忍してや~」
なんだってんだ、この茶番は……? はつらつとした喋り、イキイキとした瞳、敬語まじりのへりくだった態度──水上のふるまいは普段とはまるっきり別人で、漆間は若干の寒気をおぼえた。
「せや」
水上はわざとらしくポンと手を打った。
「俺、影浦クンや穂刈クンと同じクラスやねん。2人からも漆間クンのこと指導してもらうよう言うときますわ。あっ、なんならいまから呼ぼか?」
水上はスマートフォンを再度取り出すと、影浦の名前を表示してみせた。こう言ってはなんだが、影浦と穂刈はタッパがあり目つきが鋭い。ボーダーのことをよく知らない一般生徒からは、怖そうと認識されているのであった。
「いや、いい……アンタがコイツのこときっちりシメてくれんなら、それで」
「おっ、おう。だよな……」
急に怖気づいた2人は、水上たちに背を向け退却をこころみる。
「ちょい待ち!」
「「ハイッ!!」」
「これこれ、忘れモン」
水上が地面に散らばる空き缶をさし示すと、金髪と坊主頭は無言で顔をしかめた。
「よかったらコレ使い。お兄さんたちにあげるわ」
水上はスラックスのポケットから黒のナイロン袋を取り出すと、2人に手渡した。それはボーダー本部でのみ買える限定エコバッグだった。
かくして、裏庭の清掃活動は無事終了したのであった。
偶然・あ然・釈然とせん 六田は丁寧すぎる礼を散々のべた後、委員会活動があるからと校舎に戻っていった。
「ちょっと、なんでついてくるんすか」
「2人しておんなじとこ向かってるんやから当然やろ」
水上も漆間も自転車通学である。2人は競歩のごとく、抜きつ抜かれつしながら駐輪場へと向かっていく。
「てか、いつから見てたんすか?」
「普通についさっきやけど。通りがかったらおまえとあの子らが揉めとってな。様子見とったらなんや暴力沙汰になりそうやったし、さすがに助けんとなーって」
「ホントはもっと早く来れたんじゃないっすか?」
「っとにおまえは……助けてくれてありがとうございますーくらい言えんのかい。こちとらカゲとポカリの名前まで出したっちゅーのに」
虎の威を借るのは水上の好むところではない。とはいえ先ほどは緊急事態であり、後輩たちの安全を確保するために彼らの名前を出したのだった。仮に級友たちに今日の出来事がバレたとして、別にとがめられはしないだろう。それでも、勝手に人様の名前を拝借するというのは気が引けるものなのだ。
「……オレのこと殴れって言ってた人に、礼とか言えないっす」
「あんなの冗談やん」
「そう思えなかったから聞いてるんすけど」
「あっ、カラスや」
水上は明らかに不自然な流れで空を見上げた。
何を言ってもムダだと悟った漆間は、ため息をひとつ。
「つーかさっきのアレなんすか? 名刺みてーなの渡してましたけど」
「ああ、あれな」
「ほい」と雑によこされた名刺を、漆間はしげしげと見つめた。表も裏も黒いこの厚紙は、近くで見ればどことなく発色が安っぽい。はさみで裁断されたと思われ、形も綺麗な長方形とはいいがたい。ところどころ端が波打っているし、時たま白い点線が見きれている。
左上に記載されたマークはボーダーおなじみの立方体──ではなく将棋の駒だ。漆間はこの、どう見てもビジネス向きとは思えない名刺に見おぼえがあった。
「これ、情報の授業で作った名刺か……?」
「そ。海からもろーてん」
名刺には「水上敏志」の名がしっかりと印字されていた。
本校では1年時に情報の授業が行われる。文書作成の導入として名刺を作った際、南沢は遊び心から水上の名前を使ったのだ。教師にバレた頃にはすでに印刷済みで、もったいないからと名刺の持ち帰りを許可された。
水上は人差し指と中指の間にはさんだ名刺をひらひらさせながら、「意外とウケがええんよなあ、この名刺」とこぼした。
最初こそ「要らんわ」と突き返したものの、試しにクラスメートに配ってみると、意外や意外、大ウケだった。気をよくした水上は、以来ことあるごとに名刺を配りまくった。そのハマりっぷりたるや、つい先日、後輩からせしめたデータを元に名刺の大増刷をおこなったほどである。
「漆間クンにも1枚やるわ。それ持って帰り~」
「要らね……」
口ぶりとは裏腹に、漆間は名刺を返さない。連絡先の欄が、どうも気になって仕方がないのだ。メールアドレスのアットマークより右側──すなわちドメインには、ボーダーのそれと同じものが使われている。問題はその前の部分だ。アットマークより左側──すなわちアカウント名の欄には、英語で「アイアムボーダー三門ラブ」と書いてある。
「アドレスだっっっっっさ」
「一応言うとくけどソレほんまの連絡先ちゃうからな。海が考えたテキトーアドレスや」
I-am-vordar.MIKADO-love──南沢考案のアドレスは「border」のつづりが間違っており、文法的にも足りないところがある。たぶんやつは勉強が苦手なのだろうと、漆間はぼんやり思った。
◆
そうこうしながら駐輪場に着けば、サイクルポートからあぶれた数台の自転車が通路をふさぎ、行く手をはばんでいた。ふと手前の自転車を見やれば、後輪に薄紙がはさまっている。
紙にはポニーテールの女の子の似顔絵が描かれており、フルネームと「清き一票を」の文字がデカデカと配置されている。水上自身これを何枚も校内に張らされた記憶があるからわかる。生徒会選挙の宣伝ポスターに違いなかった。
それを漆間が拾い上げたので水上はまあまあ驚いた。
「へえ、漆間クンもごみ拾いとかするんや」
少々失礼かもしれないが、相手が漆間なのでかまわないだろう。水上が思ったままに感想を述べれば、思わぬ返事が返ってきた。
「どーせあとで張り直せって言われるんだから、いま張ってった方が楽だろ」
「……?」
「いやだから、オレもあんたも選挙管理委員なんだから『ポスター張り直せ』って先公に言われますよね? だったらいま張り直した方がよくないっすか?」
いまこいつはなんと言った? オレも、あんたも、選挙管理委員なんだから……?
「は? おまえ選挙管理委員なんか!?」
「声うるさっ……」
耳をふさいだ漆間の反応はもっともで、水上はいま、本校に入学して以来一番の大声を上げていた。
「『は?』はこっちのせりふっすよ。4月っからおんなじ教室いて、いまさら何言ってんだか……」
自慢でもなんでもなく、水上は自身の記憶力に自信があった。初回に配られた委員会名簿には目を通したはずで、漆間の名前があれば絶対気づくはずなのだが。先日の委員会で顧問が点呼した際の記憶を呼び起こせば、はたと気づく。
「おまえ、ヒザマか……?」
「そうそうそれそれ、ヒザマヒザマ」
委員会の時だけ、彼の名は「膝間光(ヒザマコウ)」だった。
日本の教師は忙しい。プリント類の漢字の誤りなど日常茶飯事だ。「漆間恒」の名前はただでさえややこしく、昔からよく間違われた。間違われすぎて、最近では表記ミスをスルーする域にまで達していた。
初回の委員会で顧問に「ヒザマくん」と呼ばれた時も、あーまた名前間違われてんな……と思っているうちに話が進んでしまった。苗字と名前を同時に間違われたのは初めてだったが、漆間的にはそれがかえって新鮮で、いつこの教師が誤りに気づくのか試してやろうとどっしり構えていたくらいだ。
委員会に漆間の知り合いがおらず誰もミスに気づかなかっただとか、席は3年生が一番前で1年生が一番後ろだとか。漆間は委員会がはじまるギリギリの時間にやってきて、終われば真っ先に教室を出ていくのがお決まりだとか。あらゆる条件が奇跡的に重なり、水上が漆間の存在を認識しないまま、今日まで来たのである。
いつかの昼に抱いた疑問への、正確な答えがここにある。水上と漆間がやたら購買で顔を合わせるのは、委員会終わりに2人して同じ行き先へ向かっていたから。ただ、それだけのことだった。
(え~……そんな大胆に名前まちがうことある……?)
水上は案外とつぜんの出来事に弱い。唖然としつつも心の中でツッコミを入れていると、漆間がおもむろに近づいてきた。
「ま、もうすぐ選挙ですし……同じ委員のよしみでよろしく頼みますわ、水上セーンパイ」
不敵な笑みをたずさえ何かを手渡してきた漆間は、器用に放置自転車の間をぬって進むと、あいさつもそこそこにペダルをこぎ出した。その背中が完全に見えなくなった後でゆっくりと視線を落とせば、先ほど見つけた選挙ポスターが手のなかで丸まっている。
「は……?」
水上は後輩の逃げ足の速さを熟知している。"追いかける"選択肢を一瞬で放棄すると、踵を返し、校舎へと向かう。あせる必要はない。今日は──いや、今日もと言うべきか。ふたたび防衛任務であのクソ生意気な後輩と会うことは決まっているのだから、文句はその時に言えばいい。そう決めたものの、いまこの瞬間、どうしても抑えきれない気持ちはあって。ぷすり。画鋲でチラシを貫いた水上は一言、
「性格がわるい……」
その声はぽつんと、静かな廊下にこだました。
◆
「おおーい、漆間く~ん!」
交差点で信号待ちをしていると、遠くから呼ぶ声がする。
キキーッ。
急ブレーキをかけ息を切らすこの男には見覚えがある。おそらくクラスメートのはずだ。名前は知らない。
「漆間くん、さっきはかっこよかったね!」
「かっこよかったって……過去形かよ」
「え~と、ビジュアル的なことじゃなくて。さっき六田先輩を助けてたでしょ? おれ感動しちゃった。やっぱりボーダー隊員ってすごいんだねえ」
「あ? 見てたのかよ。なら助けに入るとかしろよ」
「あー、そうだよね。へへ……」
笑うしかないといった様子の彼に、不思議と自隊のオペレーターが重なる。先日アラートミスを謝罪してきた時の彼女も、ちょうどこんな顔をしていたのだ。
「と思ったけどやっぱナシ。おまえ見るからにけんか弱そーだし」
「へ?」
「でも次同じようなことがあったら、先公呼ぶくらいはしろよな」
「う、うん……!」
水上が追ってくる気配はないし、防衛任務が始まるのは1時間以上先だ。普段ならとっとと会話を切り上げているところだが、「おれボーダーが好きでさ。漆間くんとずっと話してみたかったんだよねえ」と笑顔で言われれば、悪い気はしなかった。もう少し話を聞いてもいいかもしれない。漆間は彼にならい、自転車を押して歩き始めた。
「水上先輩も堂々としててかっこよかったな~。やっぱり漆間くんって先輩と仲いいの? 助けてくれるぐらいだし」
「べつに仲よくはねーよ。任務ん時くらいしかしゃべんねー」
あの人アレしろコレしろってうるせーんだよな、と漆間は続けた。だが任務中の指示は大体ガン無視しているため、実際のところ会話が成立しているとは言いがたい。
「水上先輩といえばさ、この前の『水上危機一髪』が印象的だよねえ」
「水上危機一髪……?」
ぴんと来てない様子の漆間に、同級生は事件のあらましを説明した。
「は? 金的した? オレが水上さんに……?」
「うん。居合わせたボーダーファンの子にそう聞いたけど……覚えてないの?」
覚えてはいた。覚えてはいたのだ。だが今しがた聞いた話は、漆間の認識とはちょっとずれていた。あの出来事は、「自分の頭が水上にぶつかった」程度のこととして処理していた。あのあと30分くらいは首に違和感があったし、なんなら自分の方が被害者だとさえ思っていた。
漆間も同じ男だからわかる。金的が事実なら、水上はかなりのダメージを負ったに違いない。そう考えると、なんだか少しわるいことをした……のかもしれない。
「漆間くん?」
急に黙りこくった漆間に、クラスメートから声がかかる。
「……その『水上危機一髪』っつーの? 1カ月も前の話だろ、ネタが古すぎんだよ。それよりさっきの不良どもを追っぱらった話の方が、よっぽど話題性あんだろ」
「それもそうかも。この後ちょうどボーダーファンの集いがあるんだ。その時、話してみるよ!」
ボーダーにファンクラブが存在することは知っていたが、具体的な活動をしているとは初耳だ。というかこいつ会員なのか。暇なやつもいるもんだと、ひそかに感心する。
「きっと明日からはこの話題でもちきりだよ。やっぱりボーダーはヒーローだもん」
「おーおー広めとけ広めとけ。おもにオレの活躍を中心にな」
ボーダーマニアの彼は、等しく全隊員のファンである。漆間の要望とは裏腹に、「水上が後輩2人を助けた話」は明日、またたく間に校内に知れわたることになる。