『パンはパンでも、』(仮)
──パンはパンでも食べられないパンはなーんだ?
答えは、売りきれのパンだ。
烏丸は、けさ妹から出されたなぞなぞに、頭の中で答えた。
11月のとある週の日曜日、烏丸はパン屋にいた。烏丸はこの店でよくパンの耳をもらっている。店によっては有料のこともあるが、この店は金をとらない。だからちょくちょく立ち寄っていたのだが、いま彼の瞳には「パン耳0円 ご自由にお持ちください」のポップが一つ、むなしく映るばかりである。
経験上、早々に品切れした場合は「完売しました」のフダに差しかえられている。この値札がいまここにあるということは、つい先程までパンの耳があったということで──。ポップの文字列を端から読んでは、何もない空間に想いをはせ、レンガの壁紙をみつめる。
(パン耳0円、ご自由にお持ちください。パン耳0円、ご自由にお持ちください──)
なんべん復活の呪文をとなえてみても、パンの耳があらわれる気配はない。厨房からは、トレーを置いたような音や一定のリズムで材料を刻むような音が、あわただしく聞こえてくる。
涼やかなドアベルの音色が烏丸の意識を呼び戻す。入り口には同年代と思われる女子が2人。新たなお客がやってきたのだ。彼女たちは、迷わずトレーとトングを手にとりパンを吟味しはじめた。最初はひそひそと話していたが、どちらかが「ふっ」と笑い声をもらしたのを皮切りに、顔を見合わせてきゃらきゃらと笑い合う。一瞬にして店が華やいだ。俺もそろそろ帰ろう──烏丸は、カツサンド片手にレジの呼び鈴をならした。
思った以上に長いことほうけていたらしい。携帯電話の小窓を見れば、時刻はまもなく16時になる。同時に、自宅から着信があったことに気がつく。会計後に電話をかけなおすが出ない。もう一度かけ直そうか──? 烏丸は、液晶画面とにらめっこしたまま店の扉を開けた。
「……!」
「どわっ」
よそ見をしながら歩いてはいけない。頭ではわかっていても、急いでいるとうっかりすることもある。
店を出て数歩あるいたところで、胸に強い衝撃をうけた。反動で後ろにのけぞり、携帯電話が手からすべりおちる。カシャンと音を立てたその後を追うようにして、烏丸も地面に転がった。
急な出来事だったがなんとか受け身はとれた。歩道と衝突した側の半身が痛むけれど、いまは相手の状態確認が優先だ。ゆっくりと身体を起こすと、見知った顔がそこにいた。
「漆間?」
「んだよ、おまえか……」
烏丸は、片膝をたて座り込んだままの体勢で問うた。
「漆間、怪我は?」
「いまんとこ平気、クッションあったし」
漆間は立ち上がり、一歩横にはけると後方の地面を指さした。その先に、白くて大きな塊が転がっている。
ふかふか枕のようなそれに、烏丸の視線が釘付けになる。
「ほらよ」
いつの間にかそばまで来ていた漆間に、見覚えのある端末を手渡される。
「わるいな、拾ってくれたのか」
立ち上がって礼を伝えるが返事がない。誠意が足りなかっただろうかと一瞬思うが、あさっての方向を見ながら腕を組み、組んだそれを人指しゆびでトントンとたたく漆間の姿に、むしろこちらの出方をうかがっているのではないかという気がしてくる。
「どこか痛むのか? 必要があれば──」
病院にと続けるまえに、「そうじゃねえ」とさえぎられる。
漆間は、かったるそうに「あー……」とこぼして頭をかく。せわしなく瞬きをしたあとで、ようやく口を開いた。
「おまえ、その……ケータイ生きてるか?」
「うん?」
烏丸は、携帯電話をランダムに回転させて傷の具合をたしかめた。ついでにいくつかボタンを押して、動作確認もおこなう。
「とくに故障はないと思う。ガラケーだからな、けっこう丈夫なんだ」
漆間は明らかにホッとした様子を見せた。携帯電話の安否が気になりそわそわしていたらしい。
「安心してくれ、修理代請求したりしないから」
「……当たりまえだろ、事故なんだから。過失割合でいや半々だ」
いつもならもっと非難されてたかもな。内心そう思いながら、同級生がいつもの調子を取りもどしたことを受けいれる。
心配事のなくなった漆間は、パンの耳が入った袋を米俵のようにかつぎあげた。
「それ……」
「見りゃわかんだろ、パンの耳。……ああ、おまえもコレ狙いでこの店きたわけ」
「まあな」
漆間は、顔の真横にある大袋と烏丸の顔とを、交互にちらちら見やった。
ゆずってくれるつもりだろうか。烏丸の予想とはうらはらに、同級生は「ふーん」と言い捨て、あっさりと店の中に入っていく。
(そうだ、こいつはこういうやつだった)
すぐに漆間は戻ってきた。
ダメだとわかっていても、つい巨大な袋を凝視してしまう烏丸である。
「……ポイントカードにハンコ押してもらうの忘れたんだよ」
店に戻った理由を知りたがっていると勘違いされたらしい。自転車カゴの中に袋が放りこまれるのを未練がましく見守っていると、掌の中の端末がふるえた。
「ああ、いま帰るところだ。20分くらいで着くと思う」
勝手に聞こえてくるこれはラジオ番組のようなもので、断じて盗み聞きではない。そんなことを考えながら、街灯にまきつけたワイヤー錠と格闘する漆間である。
モサモサの口調的に、電話相手はやつの下のきょうだいってところか──などと、意味もなく予想を立ててみる。
「──パンの耳? いやそれが……今日は売りきれでな。わるいが我慢してくれ」
小声で説得をこころみる同級生のすがたに、サラリーマンみたいなやつだな、と漆間は思う。「この穴埋めは」だの「今度の休みは必ず空けるから」だの、高校生らしからぬセリフを合間にはさみつつ、最終的には「電波がわるいから」と雑に会話を切りあげた。
真っ黒な液晶画面と見つめ合っていると、にわかに視界の端にパンの耳が映りこんできた。
「シケた面してんじゃねー」
「漆間」
「……やるよ。弟だか妹だか知んねーけど、家族が食べたがってんだろ?」
らしくない提案だ。言ったほうも言われたほうもそう思ったが、子どもから好物をうばうのは漆間の好むところではない。
烏丸の返事は意外なものだった。
「いや、遠慮する」
「なんでだよ……!?」
「気持ちはありがたいんだが、人にゆずられるのはダメなんだ」
「はああ?」
現在進行形でパンの耳に熱視線を送ってるようなやつが、何を言っているのだろう。
聞けば、烏丸にとってパンの耳は「買えたらラッキー」という位置づけのもので、あくまでも1人の客として手に入れることにこだわりがあるようだ。家の事情を知る店主から取りおきの申し出をされることもあるのだが、それもすべて断っているらしい。
烏丸の説明は納得のいくものではなかったが、わかりあいたいとは微塵も思わなかった。もう用は済んだ。漆間はとっととこの場から立ち去ることにした。「あっそ。じゃ、オレはこれで」と告げ、自転車の置いてある方へと歩きだす。
するとなんの間違いか、烏丸が小走りでかけ寄ってきて、目の前に立ちふさがった。
「んだよ」
「いや、あの……漆間、まだ話したいことがあるんじゃないか?」
「ねえよ」
漆間がよけようとすると、烏丸が行く手をはばむ。漆間が右へむかえば男も右へ、反対方向に舵を切ってもピタリと動きを合わせてくる。
混乱のさなか、素早さで撹乱しようと思い立つ。漆間は移動速度を上げた。だが大した効果は得られず、歩幅の大きい烏丸になんなく追いつかれてしまう。
いつの間にか、1 on 1が始まっていたのか……? そう錯覚するほどに、2人の攻防はすさまじいものになっていた。烏丸の腕が宙を裂く。漆間は素早くしゃがみこみ、相手のバランスを崩しにかかる。せまい歩道をコートにして、パン耳の奪い合いがはじまった。
「……!」
激闘のさなか漆間が足をすべらせた。転がるわけにはいかない。踏んばろうとするが、足が言うことをきかない。ヨタヨタと数歩あるいた後で、とうとう地面に倒れこむ。腕のなかの大袋に、魔の手が迫りくる。もうダメだ。あわや奪取かと思われたその時、烏丸の時だけがピタリと止まった。
「……は?」
あ然とする漆間をよそに、烏丸は開いた手のひらをゆっくりと握りしめ、そのまま腕をおろした。よくよく観察してみると、この距離でないとわからない程度に眉をひそめている。「くっ……」と苦しそうな声をもらし、ついには両目を固く閉ざす始末。
「んな顔するくらいなら素直に受けとれよ!!」
漆間が不可思議さに思わず声を荒らげた、その時である。
「あのー、すみませーん……」
「通っても大丈夫ですかぁ?」
烏丸と入れかわりで店に来た女子たちが、歩道をふさぐ男どもに苦言を呈する。
「ッス……」
「すみません」
各々が各々のやり方でわびて、歩道の脇にはける。すれ違いざまに向けられる視線が痛い。
彼女らのうしろから、小学生低学年くらいと思われる少年があらわれた。少年は2人としっかり目を合わせると、「まったく、さいきんのわかものは……」とつぶやきゆっくり首をふる。
言葉を失った高校生たちの前を、スタスタと少年が歩いていく。その背中が豆粒くらいになった頃、漆間はようやく我に返った。
「おまえのせいでオレまで変な目で見られたじゃねーか」
「……すまない」
「素直にゆずってくださいって言えよ」
「それは、ダメなんだ」
「おまえいい加減にしろよ……」
ドスのきいた声にドス暗いオーラ。相手の苛立ちがピークに達したと悟った烏丸は、「わかった」とつぶやき、身につけていたボディーバッグからカツサンドを取りだした。
「これとパンの耳を交換するってのはどうだ……?」
言うなり、その手が小刻みにふるえ始める。
「受けとれるか!」
「な、……カツサンドだぞ?」
「みんながみんなトンカツ好きだと思うなよ」
「本当にいいのか、380円のパンだぞ……?」
「値段の問題じゃねーんだよ」
もっと素直になれよ。思ったけれど、言わなかった。
0円のパン耳と380円のカツサンド。アンフェアな取引にも思えるが、烏丸が欲している以上、このパン耳には値段以上の価値がある。
別にカツサンドが嫌いなわけではない。店の味は知っているし、食べればたしかなまんぞくが得られることだろう。だが烏丸が乗り気でないことは明らかだし、何よりあの烏丸京介から有料の物をもらうというのは……なんか、ダメだろう。
ああ、いまここに某先輩ガンナーがいたならば、「カツアゲするってこと? カツサンドだけに」などとボケて、場をなごませてくれただろうに──。ありもしない空想にふけるが、
(いや、これじゃオレが悪者みてえじゃねーか!)
と、すぐに思い直す。端的にいって疲弊していた。
一方の烏丸は、カツサンドとパン耳を交換できなかった理由を探し求めていた。漆間の性格やこれまでのやり取りなど、あらゆるデータを総合して考える。烏丸は、真剣な面持ちで問いかけた。
「もしや甘党……?」
「そうだけどそうじゃねえ!」
「……そうか。鯛餡吉日にいたから、甘い物好きなのかと思ったんだが」
だいぶ前の出来事を持ちだされたことに、漆間は少しおどろいた。たしかに以前、蔵先町のたい焼き屋で烏丸に出くわしたことがあったのだ。こいつのこういうところが人を惹きつけるのかもしれない。そんなことを考えているうちに、次の弾が飛んでくる。
「物々交換がダメとなると……高校生らしくテストの点数で勝負するってのはどうだ?」
「2週間も待てるかっ」
何をバカなことを。テスト期間を待つあいだに、パンが干からびてしまうではないか。それに漆間の見立てでは──正確にいえば、スマホに勝手に流れてくる『今日の烏丸くん♡』情報によれば、単純な学力勝負では烏丸に軍配があがる。
「……わかった。ここはボーダー隊員らしく、個人戦で決着をつけよう」
「おまえ勝つことしか考えてねーだろ!?」
個人戦は、相手との距離が近い状態で戦闘がはじまる。スタート直後は互いの位置が丸わかりなこともあり、隠密スタイルの漆間は個性をいかしきれない。
トリガーの空き枠をすべて埋めていること、カメレオンを使うことからトリオンの消耗も激しい。冷静な烏丸に「待ち」の戦法をとられた場合、トリオン切れで負けることは目に見えている。
ともに銃使いという点で中距離戦は互角だが、近接戦では体格差・トリガー構成からいって烏丸に分がある。
「安心してくれ。トリガーは普通のやつを使う」
「ああ?」
己の憂慮を見透かしたかのような提案に、漆間は顔をゆがめた。烏丸との距離をつめると、下から顔をのぞき込むようにして責めたてた。
「玉狛のトリガーは使わないってか? 元々そういうルールだろーが……なにスゲー譲歩したみたいに言ってんだ」
玉狛第一のメンバーは、近界の技術を独自に取りいれたトリガーを使っている。その強力さゆえ、彼らは隊単位のランク戦に参加していない。
むろん個人戦で特注トリガーの使用が禁止されているわけではないが、賭け事をするとなれば話は別だ。烏丸が汎用トリガーを使うなんてのは当たり前のこと。スタートラインを揃えたことをさも配慮したかのように振るまわれては、文句の一つも言いたくなる。
それに「玉狛のトリガーだと俺には勝てないだろうから」と暗に言われているようで面白くない。それがおそらく事実だとしても。
「なんなんだよ、さっきから自分有利な提案ばっかしやがって……。おまえ、オレにどうしてほしいんだよ?」
「俺と勝負して負けてほしい。その上でパンの耳をゆずってほしい」
「なめてんのかっ」
その後も押し問答はつづき、じゃんけんでカタをつけることになった。これならすぐに結果が出るし、やる前に有利不利を考えなくてすむ。
一般的にじゃんけんといえば、勝率は五分、運が勝敗を左右すると思われがちだ。だが烏丸にとってじゃんけんは、ほぼ確実に勝てる十八番の勝負方法であった。
なにせじゃんけんが強くて損をすることはない。烏丸はこれまでの人生、給食であまったデザートを勝ちとるため、あるいは希望の委員会に所属するため、時に心理学をまなび、時に言葉による揺さぶりを用いて数々の勝利をつかみとってきた。
冬休みまえ最後の給食で出たクリスマス仕様のチョコレートケーキが、夏休みまえの七夕ゼリーが、はたまた冷凍ミカンが、きなこ揚げパンが──これまで勝ちとってきた数多の人気メニューたちが、己の背筋をシャンとさせてくれる。烏丸はありったけの自信を胸に、漆間と対峙する。負ける気はしなかった。
唯一誤算があるとすれば、敵もまた自分と同じ道をたどってきたツワモノだということだ。いざ始めてみれば、怒涛のあいこが続く。
何せいまは生身である。極限の集中力で弧月さながらに腕を酷使していれば、心身ともに疲れがでるのは当然だ。烏丸は、つい先日バイト先でフライパンを振るったことやら、弟たちにせがまれチャーハンを作ったことやらを思い出した。
ああ、ふだんから料理をしていてよかった。そうでなきゃ、いまごろ俺の腕はボロボロだ──。
「ちょっと待て、いったん休憩……」
あいこの数が把握しきれなくなった頃、提案したのは漆間だった。
漆間は、パン屋の入り口横にあるベンチに座り一息つく。育ちざかりとはいえ、高速反復横跳びからの鬼ごっこ、腕の上下運動はくるものがある。要はダルかった。
それにしても話すことがない。2人は同学年とはいえ、本部と支部で所属が違ううえ、防衛任務中にしゃべるような間柄でもない。青々としたイチョウがサワサワと音をたて、ぬるい風が頬をなでる。
烏丸は、街路樹をかこう縁石の上で身体を休めていた。そろそろ体力が回復してきたが、向こうはいつまで休憩するつもりなのだろう。ベンチの様子をうかがったタイミングで、漆間が道路を指さしポツリとつぶやいた。
「あ、焼きいも屋」
焼きいも屋。それはその味を知るすべての者の意識をそらす、魔法の言葉──。どんな 諍いとて焼きいも屋のまえでは無力だ。だって、その存在をほのめかされて、屋台を探さない人間がいるだろうか。
烏丸は、少年のように目をかがやかせ、期待を胸にふり返る。
そこに屋台はなかった。
そもそも三門市は、ミカンが作れる程度には温暖な地域だ。そろそろ秋めいてきたとはいえ、日中はあたたかい日も多い。焼きいもの季節にはまだ早いだろう。
烏丸は無言で漆間のうそをとがめた。無論、自身の心をもてあそばれたことへの抗議もそこには含まれている。
「……と思ったけど見まちがいだったわ。さー、続きだ続き」
決着つけようじゃねーかとのたまう漆間が、不敵な笑みを浮かべている。
しまったと思った。あいこが続くさなか、烏丸は相手が出した手を記憶し、瞬時に傾向と対策をわりだしていた。綿密な計算のもとで次にだす最善手を決めていたのだ。その方法が、たったいま使えなくなった。ハッタリに惑わされ、じゃんけんの記憶がすべて吹き飛んでしまったのだ。
余談だが、人がじゃんけんでとっさに出す手はグーの確率が高い。こうして烏丸は負けたのであった。
「おまえ、コレ持ってろ」
漆間は、チノパンのポケットからくしゃくしゃのレジ袋を取りだし烏丸に手渡した。
「……?」
「ボサッとしてねーで広げろ」
烏丸は、漆間のジェスチャーにならい、袋の口を大きく開けた。
漆間はパンの耳が入った袋をてぎわよく開けると、下方向へと傾けた。烏丸がもつ袋のなかへ、勢いよく中身をうつしていく。中がパンの耳でいっぱいになったところで、ボケっとしたままの同級生に喝をいれ、袋の口を結ばせる。量を吟味したうえで烏丸から袋を奪いとると、元々パンの耳が入っていたほうの袋を押しつけた。
「ゆずんのがダメなら分けりゃいい。……おら、とっとと受けとれ」
「漆間、さっきも言ったが俺は」
「うるせえ、ゴチャゴチャ言ってねーでさっさと持って帰りやがれ。"勝者の言うことはゼッタイ"なんだよ」
そんな王様ゲームみたいな取り決めをした覚えはないが、「じゃけんに勝ったやつがパンの耳をもらう」という約束もまた、していないのだった。
「本当にいいのか?」
「いい。冷凍したやつがまだ家にたくさんある」
「……」
それなら買わずに残しておいてほしかった──そう思いつつも、本音が伝われば発言を撤回されるおそれもある。漆間の気がかわらないうちに、ありがたくパンを分けてもらうことにした。
夕陽をたっぷりと浴びた袋は、ほかほかと温かい。帰ったらすぐに冷凍しないとな。段取りを考えながら、烏丸は自転車をこぎだした。
近づいてきたなと思ったらすぐに轟音がして、電車に追いつかれていた。ペダルをこぐ速度をあげるが、案の定あっという間に置いていかれる。いくらか冷たくなった風が心地いい。今日は学校もバイトも防衛任務もない1日だったが、一仕事終えた後のような充実感でいっぱいだ。
街灯の多い通りにやってきた。カゴの中のパン耳が、一瞬顔をのぞかせては、また夕闇にとけていく。
パンはパンでも食べられないパンは──?
人にやっちまうパンっていうのはどうだろう。われながら斬新な答えだ、そう思って妹に伝えたら、「お兄ちゃんさあ……」ともう一度あきれられた。
◆
駐輪場についた頃には、あたり一面薄暗かった。漆間は自転車付属のリング錠をパチンとはめた。ワイヤー型のダイヤル錠を、後輪とフレームを経由したうえで、近場の柱にまきつけていく。二重ロックは正直手間だが、無心でダイヤルを回すこの時間が漆間は好きだった。
──ゆずられる理由がはっきりしてる方が、もらう側としても受けとりやすくてな。ま、完全にこっちの都合なんだが。
とにかくありがとうと言い残し、去っていった背中を思い出す。
「だったら最初っからそう言えよな……」あの時飲み込んだ言葉をしまっておくことができなくて、一人、吐き出した。カシャリ。雑に放ったダイヤル錠が、自転車のフレームと接触し無機質な音をたてた。
「よくわかんねえやつ」
家族、ボーダー、バイト。あの男の頭のなかが、この三つで埋めつくされているのは有名な話だ。率直にいって金銭的余裕がなく、家族を大事にしている。
こちらがゆずると言っているのだから、さっさと受けとったほうが話が早かっただろうに。やつが固辞しなければ、自分だってもっと明るい時間に本部につけただろうし、時間の節約にだってなったはずだ。無意味だと思っているのに、ぐるぐると考えるのをやめられない。
「……あー、ヤメだヤメ」
漆間は難解な数学の問題に出くわしたら、すぐに答えを見るタイプだ。あいにく烏丸の連絡先など登録していないし、近々話す予定もない。その思惑は理解できないままだが、それで構わない気がした。緻密な連携はしないけど、共闘もできないけど、知らないやつとだって合同任務はくめるし、ネイバーも倒せる。
理解できなくても世界は回る。
漆間は最後にもう一度カギがロックされているか確かめると、本部につながる通用口の前に立つ。
「トリガー、オン」
稲妻色の閃光に導かれ、姿を変えていくそのさまを、月だけが見ていた。