大人っぽくバーで兄を口説こうとしたら兄の方が大人だったぜ『大人な兄に相談しよう』
五月某日 20:00 悠仁自室
ティッシュの箱に立てかけられたスマートフォンには、ビデオ通話の画面が開かれていた。
「こんばんはー。おつかれー」
「こんばんは。お疲れ」
悠仁の労いの言葉に通話相手──次兄・壊相──も同じように返す。
「聞こえる? OK? OKだな! いやー久しぶり! 忙しいのに時間作ってくれてありがと!」
「GWに会ったばかりでしょう。どういたしまして」
「あれ。またピアス増やした? ゴツいのかっけーね」
「暑くなる前にね。ありがとう」
一通りの近況報告や世間話を済ませると
「さて、例の件ですが」
どこぞの秘密結社よろしく悠仁が仰々しく机上で手を組み、そう切り出した。壊相が応じる。
「良さげなところ、いくつかリストアップしたよ」
送られてきたファイルをノートPCで開くと、表計算ソフトのリストに情報がまとめてあった。
店のURLだけでなく、価格帯や景観など、壊相の所感を交じえて星のマークと共に格付けしてある。
「すげえ! 作るの大変だったんじゃない?」
「まとめるの楽しかったよ。ただこれは私の感想だし、雰囲気も変わってるかもだからね」
「他の情報も併せて確認しな」と付け加えて参考になりそうなキュレーションサイトのリンクも送られてきた。抜かりがないその仕事ぶりは『デートでかっけぇバーに行きたいから店教えて』という悠仁からのお願いに兄として全力で応えた結果だ。
リストに目を通しながら悠仁が言った。
「デートだからあんまこういうこと言いたくないけど言っていい?」
壊相の返事を待たずPCのモニターから視線を外し、叫ぶ。
「高けーーーーーー‼ バー高けーーー! これなんか三千二百円⁉ 一杯で⁉ チーズの盛り合わせ二千三百円に二千七百円のサンドイッチって何⁉ 何サンド⁉」
「落ち着いて。兄さんに聞こえる」
「あっ! やべ! いやさっき風呂入りに行ったから大丈夫!」
予想通りの反応だった。壊相は淡々と諭す。
「そのへんの居酒屋だってお酒に変なお通しや席料が乗せられて結局トータルでは高くなったりするでしょう」
大衆居酒屋には大衆居酒屋の良さがあることはわかりつつも、悠仁を納得させるために弁を弄する。
正直大学生には早いのではとも思った。現にこうして慄いている。それでも、行きたいと思った原初の衝動を大事にしてほしいし、世界も広がるだろうと考え今に至る。
顎に手を添え頭を傾げながら悠仁が答える。
「そう考えると高くない……のか……? 場所代にムード代込みなら──あ、ここ安い。でも遠いのか~。う〜〜ん」
今度はスマートフォンの通話画面の向こうの壊相を凝視して尋ねる。
「聞いといてアレだけどなんでこんなに知ってんの? 石油王? FXやってる?」
「たまの贅沢や息抜きだよ。ホテルのラウンジは昼間に打ち合わせで使ったり、雰囲気が気に入ったら夜も行ったりするから」
「お、大人だ」
「それに知ってる? 帝国ホテルのコーヒー、二千二百円」
「高っけ‼」
「でも実はおかわり自由」
「おお……。マジ? 飲み放? 帝国なのに? 帝国の力すげえ……帝国の逆襲……」
知らない世界に素直に感心する。
空気が温まってきたところで壊相は気にかかっていたことを尋ねる。
「一応聞いておくけど、自分で探した店じゃなくていいの?」
リーズナブルな店もピックアップしてあるがそれも決して安価ではない。経済的に無理をしているのではないか。何より悠仁の意思決定に介入してよいものかが気がかりだった。
その質問には悠仁がすっと真顔になり
「俺のセンスは信用できない」
ずばりと言い切った。
酒を飲めるようになって増えた外食の機会で悠仁は学んでいた。
グルメサイトの星の数、キャッチに誘われるがまま入った居酒屋。
すだれで仕切られているだけの名ばかり個室居酒屋、冷凍食品が並ぶ創作和食ダイニング、朝食のベーコンよりも薄い肉の肉寿司などに騙されてきた。
とは言っても自分や気心の知れた友人となら笑いの種になるので、そこまでの被害者意識は持っていない。きっと兄とだって、そんな環境や料理だったとしても楽しめるだろうとも思う。
でも、愛しいひとに苦笑いの一つでも浮かべさせたくないのだ。
「兄ちゃんに喜んでほしいし」
初め『格好良いバーに行きたい』という弟の願いを叶えるなら近隣のバーが良いかと壊相は思った。しかし、悠仁にとっては雰囲気を味わいたいだけの物見遊山でなく真剣なデートなのだ。
それに(地元密着型の)こぢんまりとしたバーだと常連客が多くて居心地が悪かったり詮索されるかもしれない。そこまで考えてホテルのラウンジを中心に調べたのは正解だった。
「なるほどね」
「そーちゃんにも相談したって言うし」
何故そこで自分の名が出るのかと思ったが、自分の手柄だけにはしないということらしい。「いいのに」とも思うがそういう律儀さも悠仁の良いところだと密かに感心する。
「あとあれ、『あちらのお客様からです』もやりたい」
机の上を払うような仕草でグラスを滑らせる真似をした。
「それをやるのはバーテンダーだし、そもそも一緒に行ったら同席してるんだからできないでしょう」
「たしかに。いやー堂々と酒飲める歳になったしバイト代貯まってきたし、こういうのやってみたかったんだよなー」
『堂々と』という枕詞が気になったが弟の良識を信じてあえて触れず、微妙に話題をずらした。
「そうだ、ドレスコード。服ある?」
「そっか。いつものカッコじゃダメなんだ」
「大体ジャケット着用を求められるから、スーツ着とけば間違いないと思うよ。どうせなら前髪も上げるとか。フォーマルな感じに」
髪を撫でつける仕草をして提案したが、悠仁は首を横に振った。
「うーん。それはいいかな」
「似合いそうだけど」
「いや、前やったことあるけど、いかつくなるみたいでチンピラ感が出てヤカラに間違われんだわ」
悠仁はそう言うと前髪をかき上げキッと目を細め下唇を尖らせて見せた。
「……あー」
壊相の納得の声を受けて続ける。
「雰囲気を壊したくない。兄ちゃんには、ガキっぽいのは許してもろて」
前髪の毛先をつまみながらちゃらけてそう言うと、リストへ視線を戻した。
「迷っちゃうなー。どーしよー」
きらめくようなデートを思い描き、えへえへと眉を下げながらリストを眺めている。
その初々しい様子には壊相も微笑ましい気持ちになる。こんな背伸びも可愛いものだ。
最後にそっと背中を押す。
「きっと兄さんも喜ぶと思うよ」
『乾杯』
六月某日 金曜日
ショッピングモールや展望タワーを擁する観光地からほど近い場所にそのホテルはあった。観光地とは言ってもドラッグストアやスーパーもある生活感のあるエリアのようで、夕方の買い物客の賑わいを横目に通りを急ぐ。
ホテル×××× 一階
エントランスの自動ドアが開くと──エントランスホールの柱の向こう──フロントのスタッフからの控えめながらも恭しいお辞儀をされた。それには軽く会釈を返した。
建物自体はそこまで大きくないがエントランスのフロアは大理石造りで、天井にはモダンなデザインのシャンデリアがぶら下がり、外から見た印象よりも豪奢だった。
フロントから視線を外しロビーを見渡せば、まずソファが並んだスペースが目に入った。さらにその奥にはカフェが併設され、ガラス張りの店内は間接照明が反射し開放感ときらびやかさを演出している。壁面には所狭しと酒の瓶がディスプレイされたバーカウンターもあった。
〝バーでお酒が飲みたい〟という名目でホテルの名前を告げられた瞬間はつい怪訝な顔をしてしまったが、小さな誤解を察した悠仁が『違う! この中に! 店があんの!』とすかさず訂正を入れてきたのを思い出した。
納得したところで視線を手前に戻す。シャンデリアの真下、曲線を描いた大きなソファ。すぐにその姿を見つけることができた。こちらに背を向ける形だが見間違えようもない。
赤みがかった短い髪。髪はウエットなワックスでセットしているのかつややかで、黒いジャケットはスーツだろう。いつもより大人びた雰囲気を纏っていた。
当然だが悠仁はこちらに気づいていない。ソファに腰掛け上半身を屈めてスマートフォンをいじっていた。
腕時計を一瞥するも、待ち合わせの時刻にはまだ早かった。声を掛ける前にロビーの鏡で身だしなみを軽くチェックする。
格好に問題はなさそうだが今は梅雨の真っ只中、湿気で髪がはねてしまうのだけはどうにもできなかった。
五分後 同ホテル 十六階
そこはカウンターといくつかのテーブル席があり、やはり多種多様なリキュールやウイスキー、ブランデーの瓶が並んでいた。一階のカフェバーよりもこぢんまりとしていたが、薄暗い店内にはピアノの旋律のジャズミュージックと、バーテンダーがアイスピックで氷を成形する音だけが流れ、限られた席数にはむしろ格調高さが感じられた。
高層階にあるおかげで見晴らしも良く、窓の向こうでは高層ビル群の明かりや展望塔のライトアップの光が暮れ始めた空を彩っていた。
まだ他の客もいない店内、カウンターの端にふたり並んで座った。
「うお」
当然単価は調べてあって覚悟を決めていたものの、いざ目の前にすると迫力のある値段に悠仁が小声で慄いた。
手にしたメニューの上で視線を行ったり来たりさせてしまう。
ハイボール四百八十円。フライドポテト三百八十円。
普段行く居酒屋のお品書きが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。だが悠仁にはそれよりも気がかりなことがあった。
「俺も手ぶらじゃなくてなんかカバン持ってきた方が良かったかな。だいじょぶ? ってか俺変じゃない? 浮いてない?」
自分がこの場に馴染めているか。
HPで見た写真よりも──厳かな雰囲気に気後れしてしまっていた。
高い椅子ではかかとまで着ききらない足は位置も定まらない。ネクタイの結び目を握ってそわそわと位置を調整した。
「今ので曲がった」
胸元へ脹相の手が伸ばされネクタイはまっすぐに直された。
「ありがと。へ、へへ」
緊張で落ち着かずコソ泥のような卑屈な笑みを浮かべる。
「ちゃんと格好良いから堂々としてろ」
そう言って脹相が背中をぽんと叩くと、褒められたことにも気を良くしたのか、背筋もしゃっきりと伸びた。
オーダーを受けたバーテンダーが手際よくリキュール、割り物、氷をシェイカーに投入し、シャカシャカと振る。
「おお〜〜。すげえ、ホンモノだ。逆さにして溢れねえ? 溢れねえのあれ? 氷も入れてたよね? 冷たくて手ぇくっつきそう」
職人技に目を見張りながらも、思ったままの感想を小声で垂れ流す。
それを受けた脹相が『言われてみれば』という顔をし、ポケットからスマホを取り出す仕草をした。が、すぐに取りやめた。
「……プロだから心得てるんだろ。色々と」
悠仁には兄が適当なことを言ったのがわかった。
しかし、知識を欲しているわけではないし、何よりも──雰囲気や会話を楽しむこの場で、調べものとはいえスマホをいじるのが無粋に思える気持ちが理解できたので
「プロすげえ!」
兄の言葉に乗っかって適当に続けた。シェイカーの仕組みやバーテンダーの手が冷たいがどうかは(忘れていなければ)後で調べることにした。
そうこうしているうちに、完成したカクテルがカウンターを滑らせるように恭しく差し出された。
削られ角が取れ一点の曇りもなく透き通った氷を、ブルーの液体が神秘的にグラスに浮かび上がらせていた。
「おお〜〜」
悠仁が思わず感嘆の声を上げる。少し待って脹相の分も来た。
ちょうど円錐を逆さにしたようなグラスは鮮やかな赤い液体で満たされ、カットされたオレンジが縁を飾っていた。
上体をひねって互いに向き合い、眼前にグラスを掲げると
「乾杯!」
「乾杯」
声を揃え、カクテルをそろそろと口にする。
「うま……」
「美味いな……」
「味が、味が多い! うま! セーブしないとイッキしちゃう!」
興奮のままアルコールを流し込みそうになるのにブレーキをかけた。
「月の宴のレモンサワーじゃ満足できない体になる……。生活に、いい酒を飲む選択肢が入り込んでくる」
舌が肥えてしまうことに怯えながらちびちびと飲む悠仁。一方で脹相は落ち着き払った様子でカクテルを味わっている。
「えー? なんか慣れてる?」
口にしてから──今のは失言だと思った。
自分にとっては新鮮な──背伸びをした──世界が、兄にとってはありふれたものであったなら。
そんなことを考え、声音に若干の拗ねた気持ちが含まれてしまった。
これでは要らぬ言い訳や気遣いをさせてしまうのでは。
そんな悠仁の心配をよそに脹相は表情を変えることもなく
「いや全く」
きっぱりと否定し、続けた。
「こんなに高……こんなグレードのバーなんて滅多に行かない。というか初めてだ」
淡々と事実を述べながら、ちびちびとカクテルを口に運び、味の層や奥行きを味わっていた。
意識は悠仁の方に向けられていたが、視線はグラスの中の赤い液体に注がれており、先ほどの態度は気取られていないらしかった。
「たしかに……これに慣れてしまったら怖いな……」
時間差で先ほどの感想にも同意する。
「たまに飲みに行く店はあるが、それでもここの半分ぐらいだ」
「初耳だ」
「ああ。駅から少し離れた小さな店で、適度に放っておいてくれるから居心地が良いからたまに行くんだ。いつもは一人で行くんだが」
言葉を一旦切り、グラスを置いた。今度は意識も視線も悠仁に向けられる。
「そこも今度、一緒に行こう」
兄の知らない一面が知れて、その世界を共有してくれる。これが聞けただけでもこのデートを提案してよかったと思えた。
「うん‼」
クールに答えるつもりが声は弾み、つい大きな声が出てしまった。
子どもっぽい返事をしてしまったのは──口元に拳を当て、咳払いをして誤魔化した。
『おかわり』
「こういうの、やってみたかったんだよな〜〜」
上機嫌で手にしているグラスをくるくると回し、注がれた液体を弄んでいた。悠仁が口にする二杯目のそれは透明で、グラスの縁にはカットされたライムが添えられていた。
『こういうの』つまりバーで酒が飲んでみたいという目的が達成されて満足しているらしい。先ほど叩いて伸ばさせた背はリラックスして丸まっていた。すっかり緊張も解けて雰囲気を満喫しているらしい。
「店とか服とかそーちゃんにいろいろ教えてもらった。さすがだよな」
「壊相なら詳しいだろうな」
「そうなんよ! 店教えてっつったらズラーってリストにしてくれて! 迷っちった」
壊相手製のリストを前に頭を悩ます悠仁の姿を想像して思わず顔が綻ぶ。
「そういや兄ちゃん、今日なんかいつもよりパリッとしてる?」
よく気づいたなと思った。その疑問に答える。
「クリーニング出したからな」
スーツの襟元を整えながら、『今日のために』と言外にそう伝えた。
「そこまでせんでも……」
悠仁は口元をもにょもにょとさせ、笑いをこらえるような表情をした。
たしかに、クリーニング店に足を運ぶ前には『そこまでしなくとも』と全く同じことを思った。でも、俺だってそれだけ楽しみにしていたのだ。
今日は午後の半休を取ってまで来ていることを告げたらどんな反応をするだろうか、とも思ったがそれはまた後で教えた方が面白そうだったので内緒にした。
ここはクローズドな場ではない。今は他の客もいる。そのため、家でならする〝手を握る〟〝肩を抱き寄せる〟といったスキンシップを(互いに)控えていた。
その代わりというように──幸福と恋慕をありありと宿した瞳のきらめきが、あんまりまっすぐに向けられるものだから眩しさで目が眩みそうになる。
アルコールが回りほんのりと上気した頬、薄っすらと細められる瞳。潤んだ虹彩の薄い瞳は、カクテルグラスの中の小さな水面を思わせた。
どちらも別段酒に弱いわけではない。会話の内容もいつもと変わらぬ他愛もないものだ。それでも雰囲気がふたりを酔わせるには十分だった。
カウンターに肘を付き上体を傾けた悠仁が、弛みきった表情でこちらを見上げてくる。
「ほんと、夢みたい」
大袈裟なことを言ってくる口。それを見て思わず──
甘そうだな。
などと考えてしまい、目を逸らす。悠仁はこの場を楽しんでいるのに俺は。不埒な思考に耳まで赤くなるような心地になる。静かに逸る胸の高鳴りを抑えながら言い返す。
「……口説くのはやめろ」
ときめいていることの自白になってしまった。
「かわいい」
からかうような口調で、カウンターの下で膝がコツンと当てられた。
「うるさい」
そう言いながら、やはり膝で軽く小突き返した。
とっくに口説き落とされているというのにおかしなことを口走ってしまった。脚を広げて行儀が悪いと思いつつも、触れ合わせた膝は離さなかった。
『降参』
トイレから戻った脹相が会計を頼もうとしたが「既にいただいております」と返されてしまい先刻『先トイレ行ってきなよ』と、悠仁にそれとなく離席を促された理由を理解した。
「お待たせー」
入れ替わりにトイレに行っていた悠仁が戻ってきた。
「んじゃ……行こっか。ご馳走さまでした!」
店を出て並んでエレベーターホールへ向かう。
「悠仁、いくらだった──」
すかさず悠仁の手のひらがかざされ、財布を出そうとするその問いを遮った。
「これもやってみたかった。スマートな会計」
そう言って耳元の髪をさらりとかきあげ、眉間に指先をやり架空の眼鏡を上げる仕草をした。悠仁の考えるスマートなポーズらしい。
安くない会計だ。脹相は自分が持つか多めに出すかするつもりであったが、ここは悠仁の言葉に甘えることにして、微笑んだ。
「ご馳走さま。美味しかった。いい店だった。ありがとう悠仁」
「どういたしまして」
悠仁がふふんと鼻を鳴らす。その表情には得意げな気持ちと照れくささとが交ざっていた。
エレベーターホールに着いた。周囲に人はいない。
そこで、脹相の方から手が繋がれた。思わず見上げる悠仁の顔には『いいの?』と書いてあった
「誰もいない」
「こんなところで知り合いに会うこともないだろ」とも付け足した。そうして悠仁の温かな手の温度を感じながら『このへんを散歩するのもいいな』『二軒目に行くのもいいかもしれない』そんなことを考え、鞄を持っていた方の手を伸ばし下階行きのボタンを押そうとしたところで、
「待って」
と、繋いだ手にぎゅっと力が込められた。エレベーターのボタンへ伸ばした手を引いた。
「どうした?」
すると、悠仁が自身のスーツの上着のポケットを探りだした。その様子にスマホでも忘れたかと推測しながら動向を見守る。
ややあってポケットから出された悠仁の手には、一枚のカードが握られていた。
それを差し出しながら悠仁は
「部屋、取ってる」
ぽそりと呟いた。
その言葉に脹相はそういえばこの建物はホテルだったと改めて認識した。同時に、ここに来てからあったいくつかの小さな疑問が照らし合わされ答えを得た。
思えば待ち合わせのときも悠仁は先にロビーにいたし、手ぶらなのもチェックイン済みだからで、一階のカフェバーでなく上層階のバーに来られたのもそれが宿泊者専用ラウンジだったからだ。ここは十六階で、さらに上階が宿泊のフロアだった。
合点がいくとともに『そこまで考えてこの場を設けてくれていたのか』そう思うと愛おしさでぐっと胸が詰まる思いがした。
少し遠出をしたデートだし〝そういうこと〟もあろうと備えていたが、このタイミングだとは思っておらず、脹相の口からはすぐに返答が出てこなかった。
一拍開いた間に悠仁が付け加える。
「これも……やってみたかった」
そう言う悠仁の声は上擦って、繋いだ手も汗ばんでおりスマートさの欠片もなかった。
ホテルに誘う意味に関しては今さら恥ずかしがることでもないだろうがおそらく〝大人っぽい〟振る舞いをしている気恥ずかしさがそうさせるのだろう。
こんなことをして笑われないか、誘いに応えてくれるだろうかという不安が眉を下げさせている。
脹相は再びエレベーターのボタンへ手を伸ばし、迷いなく上階行きのボタンを押した。
「あ」
悠仁の口から間の抜けた声が発され、ランプを点灯させながらエレベーターが降りてくる。その間にも注がれる悠仁からの伺う視線に脹相が応える。
「口説いてるんだろ?」
「はい……」
「すっかり口説かれてしまったな」
そう言ってふう、と深い呼吸をひとつした。
淡々と発された脹相の言葉の、子どものままごとに付き合うような響きに悠仁はムム、としそうになる。が、直後、脹相は身を屈め、そっと耳打ちした。
「だから──今夜はもっと一緒にいたい」
アルコールを含んだ湿った呼気が悠仁の耳をくすぐった。背筋をふるりと震わせ、口内の生唾をごくりと飲み込んだ。
悠仁は自分から誘っておきながら、脹相のこの言葉には『このまま家に帰ったって一緒にいられるじゃん』とも思った。しかしそんなことはどうでもよかった。
「サラッとそんなんされたらさあ……俺キメすぎキザすぎじゃん……あー恥ずい……」
照れや衒いのない誘い文句。
つい先刻まで抱いていた気恥ずかしさはすっかり別種の高揚で上書きされてしまっていた。
おまけにこうして口説き返されてしまうとは。悠仁はつらつらと言い訳が出そうになる口を塞ぎたかったが、繋いだ手にはますます力が入り、もう一方の手は熱くなる顔を隠すのに使ってしまった。
「参りました……」
エレベーターが到着した。ふたりは手を繋いだままそれに乗り込み、目的の階のボタンを押した。