『夏の幻』 ここは誰だか知らない他人の部屋。普通にキッチンもあればトイレもあれば、シャワールームもある。テレビもビデオも、食料はさすがに充分とは言えないけど、我慢すれば3日はここで暮らすのに困らない。ベッドは1台きりだが、寝ようと思えばどこでも寝られる。
「なんで……俺とスガちゃんなんですかね」
「俺だって知らねーし」
黒尾と二人っきりで閉じ込められて、キスしなければこの部屋からは出られないらしい。
確かに、部屋の中に扉はあれど、出口はない。
「キス……してみます?」
「その敬語しゃべり、マジっぽいからやめろ」
なるべく避けたい話題を黒尾が口にするもんだから、少しヒヤリとして突き放す。すると黒尾もキレたのか、
「そうね~。俺は別に、キスなんてちょちょいのちょいだけど、スガちゃんはしたことないもんね~」
なんて鼻で笑いながら、ベッドに伸びをするように倒れ込んだ。
「俺だって、キスくらいしたことあるし!」
「へぇ~。どうせ幼稚園の時とかでしょ」
ニヤニヤと、チェシャ猫みたいな顔してベッドの上から見下ろしてくるのがムカつく。
「……そんなに俺とキスしたいんなら、俺をその気にさせてみろよな~」
「はぁ!? キ……スしたい……とか、思って、ま、せんっ! からぁ」
挑発してやると逆に真っ赤になって、ごろりと寝返りを打って背中を向けた。
「へへ~ん。なんだ、お前だってまだなんだろ?」
床にあぐらをかいたままベッドの上の男に手を伸ばして、べしべしとその太腿を叩いてやる。
「部活一筋の男子を笑わないでくださーい!」
雰囲気的には黒尾は東京住みのシティボーイ(死)で、同い年だけど俺より進んでんのかな、とか、ちょっと悔しくなる場合があるから、こうして彼も高校生なのだと実感出来る姿を見せられるとほっとする。本当に黒尾が慣れていて、ほいっとばかりにキスされて扉が開いたりなんかしたら、きっと俺は悲しい気分になるんだ。
(…………)
なんでそこは"悔しい"じゃなく悲しくなるんだ? 俺がそれに気付くのも、そんなに時間はかからなかった。
「そろそろ帰りたくね?」
「う~ん、さすがに飽きたな」
3日はもつと思っていたが、1日ももたなかった。食料が、ではなく、ビデオにも飽きたし、することがないのだ。でも、ここから出ようとなると――
「……どうせ、しなきゃなんねぇんだろ」
「んな、仕方なし、みたいに……」
俺が先に覚悟を決めて、ベッドの上に座り直すと、黒尾は何故かそれには不満があるらしい。
「じゃあどうしろっていうんだよ!」
「スガちゃんはしたいの? されたいの?」
「は!?」
し……たいかって言われるとそれは……、でも、されたいかって言われると、それはそれで……
俺がぐるぐる考えあぐねていると、黒尾が俺の隣に乗り上げてきた。
「するんでしょ?」
「う…………ん……」
獣のようにのそりと近付いて、上目遣いに間近で顔を覗き込まれて、たじろがない訳がない。心臓がやけに高鳴って、顔がどんどん熱くなってきて、ぎゅうっと目を閉じたところへ軽く、口唇に黒尾の吐息が触れた。
「…………」
一瞬だけのことなのに、頭がくらくらした。ぼうっとして、目の前にいる黒尾の瞳も切なげで、このままでは胸の中の燻りが晴れないまま離れてしまう。もっと、ちゃんと――って思ってたら、
「もう一回、してもい?」
熱を持った瞳を揺らして、目の前で黒尾にそう囁かれて、俺は、
「おーい、休憩終わりだぞ。って、どした? 菅原、熱中症か?」
「あっうん、ちょっと、熱っぽいかも」
「ンン~、俺が、保健室連れてくわ」
あの一人住まい用の部屋はどこへやら、気付くと体育館の片隅で、俺は壁を背にして座り込んでて、黒尾は俺に覆い被さっていたのを、慌てて熱を計るフリして俺の額に手のひらをつけて、立ち上がりながら俺の手を引っ張りあげる。
出られたんだな。そうだよな、そういう仕掛けだったんだよな。
俺たちは夏合宿の練習の途中で、黒尾とはそんなに関わることはなかったけど、ふと二人だけになった瞬間のパラレルワールドだった。
「……保健室なんて、鍵開いてんのかよ」
「開いてたら」
「……?」
止まってしまった言葉に、俺が黒尾の方に目をやると、黒尾はこちらを見ずに、その大きな手のひらで俺の髪をくしゃりと掴んだ。
「…………」
え、どうしたの黒尾。どうしたの俺。なんでこんなにドキドキして、黒尾は俺の髪を撫でた手をそのまま下げて俺の手に触れ、するりと探るように手のひらが合わされて、おずおずと握る。
あの部屋は、お互いの気持ちに気付く為に夏が見せた幻とか――?
保健室の前に着いて、黒尾の手が取手に掛かる。開いても、開かなくても、握られた手のひらから伝わる気持ちは、もう隠せない。