紫陽花の箱庭ザアザアと降る雨の音と独特な匂いに目を覚ました。
まだ目覚める時間じゃないが、そっと布団から抜け出す。音をたてないように、自分ひとりぶん襖を開けて縁側へ出た。
庭では塀に沿って植えられた紫陽花が、どんよりとした空の下で鮮やかに存在を主張している。
濡れた紫陽花はとても綺麗だから、もう少し近くで見たい。そう思って足を下ろそうとした時、
「おはようミスタ、今日は随分と早起きじゃないか」
いつの間に近くまで来ていたのか、柱にゆったりと体を預けて男がミスタを見下ろしていた。
ふ、と笑みを浮かべながらミスタの側に寄ってきた。
「下駄も履かずに何をしようとしてたんだ?今日は雨も降っているんだ、濡れてしまうよ」
「おはよ、紫陽花、見たくて。濡れてるといつもよりキレイだから」
なるほど、と呟いてミスタの頭をさらりと撫でた。心地よくて掌に頭を押し付けた。
「それなら雨があがった後にするといい、雫が日に照らされて一等綺麗に見える」
あと裸足で庭に下りるのはやめなさい、と言われて素直に頷く。
それならば布団に戻って二度寝でもするか、と襖に手をかける。
「朝餉の時間にはちゃんと起きるんだよ」
「うん、後でね」
「ああ」
他の皆を起こさないように、といつもよりもひそめられた声がまるでミスタだけのための音のようで嬉しくなった。
ふわふわと良い気持ちのまま布団にもぐる。
ゆるりと目を閉じればすぐに眠りに誘われた。
◆
ミスタはここに住んでいる子どものひとりである。皆、色んな理由で行き場を無くした子どもたちだ。
家も金もない彼らは今日食べるご飯も夜を明かす寝床もなく、同じような境遇の者たちと身を寄せあって日々を生きていた。
そんなある日、この家の主人に拾われた。黒髪の美丈夫は「私がお前たちの面倒をみよう」と言ってミスタ達に手を差し伸べた。
その男はあたたかいご飯にふかふかの布団、これまで手に入らなかった物を惜しげもなく与えてくれた。
生活に必要な物はすべて用意され、思いっきり遊ぶ事も許される。おまけにこの男はひとりひとり平等に愛を注いだ。
楽園のような場所だった。
◆
「なあ、外ってもっと楽しい事あんのかな」
幼子と呼ばれていたミスタたちが少年や少女と呼ばれる年頃になった頃、ひとりがぽつりとこぼした。
庭で遊んでいた時のことだった。
「あるわけないだろ、忘れたのかよ。この家に来る前のこと」
「覚えてっけどさ、もうすぐ俺たちも大人じゃん?蹴鞠じゃ楽しめねぇよ」
もっと大人な事がしたい、とごねだした。確かに、この家の主人であるヴォックスのオレたちに対する扱いは初めて会った頃と一切変わっていない。
何時までも幼い子どもに対するそれだ。それが不満なのもあるだろう。
それに、何人かこの家から巣立った子どもはいる。ここに居れば絶対に安全だし生活に困ることはないのに。
馬鹿だなァとミスタは思っていたけど、皆外に出たくなるものなのか。
「ってことで俺、今日の夜外行ってみようと思うんだよ」
ヴォックスには内緒な、と殊更声をひそめていたずらに笑った。
ーーーーーー
起床時間までには帰る、と言ったその少年はついぞ帰って来なかった。
「やっぱ外は怖い所なんだ、」
不安そうに震える少女のひとりの頭を撫でながらミスタは言った。
「どうだろうなァ、案外、いいとこなのかも。オレたちを忘れるくらい」
少女の頬に手をそえて顔を覗き込んで微笑む。不安で青白かった顔がほんのりと赤く染まったのを見て、ぱ、と離れる。
「マ、知らねぇけど」
◆
その日から少しの恐怖心と大きな好奇心が子どもたちの中に広がった。
ひとり、またひとりと子どもたちが減っていく。
まだ誰も、帰ってきていない。
そして今日、最後に残った少女が
「あのね、ミスタ。私と、その、外に行ってみない?ふたりで」
「えっと、外に出れば先に行った皆と会えるかもしれないし、あの、だから、どう?」
ちらちらとミスタの顔を見ながら言った。ミスタは目を細めて笑う。
「イイじゃん、それ。じゃア今日の夜、外で待ち合わせしよっか」
「!うん!」
ぱぁっ、と笑顔を浮かべてぱたぱた少女が駆けていく背中を見つめる。
馬鹿だなァ。
ーーーーーー
結論から言えばミスタは行かなかった。
それでもあの少女が約束を破ったミスタを責めることはない。絶対に。
何故なら死んだから。
ミスタは知っていた。この家から出るということはどういう事なのかを。
初めて見たのはここに来て数カ月のときのこと。もう顔も覚えてないけど、子どものひとりがこっそり抜け出そうとしたのをたまたまミスタは見つけた。
その子が外へ一歩踏み出した時、何処からかヴォックスが現れた。めちゃめちゃ驚いて声が出そうになったのを既のところで耐えた。
今思えばその時の自分の行動はファインプレーだった。
だってヴォックスは己の元から離れようとしたその子どもを殺したのだから。
亡骸を抱えて
「何故、何故離れて行こうとする。私の側に居れば安全なのに。何にも脅かされずに済むのに。何故、何故、何故…」
金の瞳からぼとぼとと涙を流しながらうわ言のように呟いていた。
この時ミスタは知ってしまった。この家から出るということはどういう事なのかを。そして、ヴォックスを独り占めするにはどうすればいいのかを。
ミスタにとって初めて愛をくれたひと、あたたかくて心地よくて、沢山欲しくなった。
ヴォックスは望めば望むだけ愛を注いでくれたから、今度は唯一が欲しくなった。
これがまた難問だった。
だってヴォックスは皆に愛を注ぐ。それも深くて重いものを。この家に居る限り、ミスタも他の子もヴォックスの愛する対象なのだ。
だから諦めかけていたけれど、最高の方法がミスタの目の前に現れた。
ーみんな、いなくなればいいんだ!
この家にいる子どもがミスタだけになればヴォックスはミスタだけを見てくれる。
その日からミスタは他の子たちに外への興味が生まれる努力をした。勿論あからさまにならない様に、無意識に外へ行きたがるように。
最後のほうはちょっと、駆け足過ぎたけど。
まァ概ね計画通り、正直、皆居なくなれば過程とか理由とかはどうでもよかったのだ。
弾みそうになる足を意識して重たく動かす。向かうのはヴォックスの部屋。この家の最奥だ。
襖に手を掛けて中を伺う。
「ヴォックス、?入っても、いい?」
「ミスタ、」
声が聞こえた途端、襖が開き部屋に引き込まれる。ヴォックスが縋るようにミスタを抱きすくめた。
「ミスタ、ミスタ。お前は私の元から去ったりしないね」
「モチロンだよ、ヴォックス」
腕をヴォックスの背にまわす。
「オレにはヴォックスしかいないから。他の奴らと違ってお前から離れたりしねぇよ」
実際彼らはヴォックスから離れたいというよりも外に興味があっただけだが、まァこれは、ミスタにとって都合の良い勘違いだったのでこれまで訂正する事はなかった。
していれば、助かった命があっただろうけど。
「嘘はついちゃいけないよ。お前はずっと私の側に居るんだよ、ミスタ」
「うん、オレだけはヴォックスの側に居続けるよ」
密着した所から目の前の男の震えを感じとる。
ーああ、コレが恋慕じゃなくても、ヴォックスがオレを求めて縋るなら、オレの初恋は実ったも同然だよなァ!
この家の青い綺麗な紫陽花は玄関に近づくにつれて赤みが混じる。ヴォックスが殺した子どもの分、ミスタが捧げた贄の分。