どうにもお腹が空いてしまってだめだ。ため息を吐いてタブレットを投げ出した。報告書の文言が何も浮かんでこない。日付とカインの名前だけが記された画面を落として席を立った。ちらりと見た時計のディスプレイは、先程から五分も進んでいない。
肩を落としてのろのろと部屋の外の自販機へと向かった。今日はいつもなら選ばない、甘ったるいカフェオレにした。これで少しは空腹がまぎれるといいなと思う。
昼休みまであと一時間。どうにかして持たせないといけない。それがとんでもなく難しいのはカインが一番よくわかっている。空腹だとそればかりに気を取られ、全く集中できないのだ。こんな時に内勤なんてついてない。
いつもならこういう時の為にちょっとしたお菓子なんかをデスクにいれているのだが、今日に限って切らしてしまっている。この前最後のクッキーを食べた時にすぐに補充しておくんだったと、今更後悔してももう遅い。
ため息を吐いてカフェオレに口を付けた。とりあえず、今日仕事が終わったら必ずお菓子を買いに行こうと頭の中にメモをする。
そのためにはまず、目の前の仕事をしっかり終わらせなくては。そう思うがどうにも気が重い。カフェオレの最後の一滴を飲み込んでも、お腹は満たされないままだ。
全くおとなしくしてくれない腹の虫を宥めるように胃袋のあたりを撫でる。せめてちょっとだけでも固形物が食べたい。
「だったら一口わけてやろうか」
すぐ後ろで聞こえた声に、体が大げさにびくついた。慌てて振り向いて、名前を呼ぶ。
「ボス!おどかさないでくれ」
呆れた顔のブラッドリーが、敬語、とお決まりの注意をしながら頭を小突いてくる。
「てめえが油断しすぎなだけだ」
署内でも気を抜いていいなんて言ってねえぞ、と正論を言われて黙ることしかできなかった。ここまで近づかれても気配を察知できなかったのは確かに問題だろう。言い訳をさせてもらえるなら、空腹で調子が出なかったのだ。だけどそれを聞き入れてくれる人じゃないのはわかっているし、結局ただの言い訳でしかないのだから口を閉ざすしかない。
今は本当にだめだなと肩を落とすカインに、ブラッドリーがため息を一つ。
「わかってりゃいい。で、どうすんだ?」
「え?」
顔を上げれば、目の前にチョコバーが一つ。勿論どこからか出てきたものではない。ゆらゆらとゆれるパッケージの先には、にやりと笑う顔が見えた。
どうするってなんだ、と思ったのは一瞬で、すぐに先程の一口やろうかという言葉に対するものだとわかった。そんなの当然。
「ほしい!……あ、ほしいです!」
慌てて言いなおしてブラッドリーを、正確にはブラッドリーの持つチョコバーを見つめた。全部貰えなくてもいい、言葉通り一口だけでも。
無言の訴えを聞き入れてくれたのか何なのか、楽しそうなブラッドリーがチョコバーのパッケージを破った。ふわりと漂う甘いにおいに唾を飲み込む。
食べていいのかと口を開こうすれば、その前にひょいと避けられてしまった。思わず恨みがましい目を向けてしまう。
「まだいいって言ってねえだろ」
「それは…確かにそうだが」
でも目の前でパッケージを開けられれば、許しが出たと思うだろう。むっと尖った唇を、ブラッドリーの指につままれた。
「ちゃんと強請れたら渡してやるよ」
「……あんた結構暇なのか?」
うっかりぽろっと本音を零してしまって、こいつはいらねえらしいなと睨まれて慌てて首を振る。
「ちゃんと頼めばいいんだよな!わかった。やる、やります!」
声を張り上げると、うるせえと文句を言われたもののチョコバーがどこかに行くことはなくてほっとする。
しかしこのままだとまた失言してしまいかねない。早くしないと、と焦ってブラッドリーの腕を掴んだ。
「ちょっとだけでいいから、ボスのがほしいんだ」
言ってしまってから、今のはちょっと妙な言い回しになってしまったと恥ずかしくなる。遅ればせながら周りに同僚がいないか確かめようとしたが、顎をつかまれて叶わなかった。ベッドの中を思い出してしまってどきりとする。もしかしたら頬が赤くなっているかもしれなかった。
それも、チョコバーを口に押し込まれるまでだったが。
「もが?!」
「それ食ってとっとと報告書仕上げろよ」
言われた言葉に、口の中のものを咀嚼しながら何度も頷いた。求めていた甘みが口いっぱいに広がって幸せな気分になる。これなら頑張れそうだと礼を言った。
そのままデスクに戻ろうとして引き留められる。顔が近付いて、耳元に吐息が触れた。
「今日は夜あけとけよ」
まだ足りねえだろ、と指先が腹をなぞる。ボスでいる時には聞かない、甘く囁くような声だった。
何が、と惚けることも、もう足りてると言うこともできた。でも口から出てきたのは、足りない、という言葉だけだった。