グラスを差し出されて困ってしまった。どう考えてもこれを飲むわけにはいかないが、うまく断れる気がしない。何せ、今のカインはブラッドリーの愛人役としてここにいる。どうしたらいいのかと隣に座る男を見上げた。耳に付けられた揃いのピアスが小さく音を立てる。
弱り切った顔のカインを横目で見遣ったブラッドリーが、おかしそうに笑ってグラスに手を伸ばした。自身の前に置かれたものではなくカインの前のものを持ち上げ、躊躇なく飲み干す。上げそうになった声を寸でのところで飲み込んで、様子を伺った。
今潜入しているのは、おかしな薬を作っていると噂の組織だった。あまりに急速に広範囲に広まっているわりには組織の実態が掴めないからと、こうして内部の調査の為にブラッドリーと二人で薬を買いに来た客を装って来ているのだ。
あのグラスの中には確実に薬が入れられていただろう。大丈夫なのかとそっと袖を引けば、問題ないと腰を叩かれてほっとする。魔女になっても剣の腕なら負けない自信があるが、ほとんどの相手が見えない状態で十全に戦えるかと聞かれれば不安が残る。任務の達成のためにも、ブラッドリーに正気を失ってもらうわけにはいなかった。ただ、その心配は無用だったらしい。恐らくこの薬は、魔力の強い魔法使いには効かないのだろう。
「そちらのレディもどうぞ」
「え?!え、っと……」
完全に名指しでグラスを勧められ、安心で緩んでいた表情が固まった。ブラッドリーがカインのものを飲んだので大丈夫だろうと思っていたのだが甘かったようだ。慌ててブラッドリーの袖を引くと、盛大に吹き出されてしまった。グラスを差し出した男が怪訝そうな顔をする。
「何か……?」
「ああいや、悪いな。あんたにじゃねえよ」
腰に回った腕に力が入り、先程よりも密着度が増す。上機嫌に笑いながら、テーブルに残ったもう一つのグラスをブラッドリーが手に取った。豪快に傾けて半分ほど口に流し込むと、戸惑うカインの顎を掴む。下に引かれて薄く開いた唇にキスされた。
「んっ?!ん、ぅ…ふ」
差し込まれた舌から、芳醇なアルコールが流れ込んでくる。グラスの中身だとわかったけれど、さすがにこの状況で吐き出す選択は出来なかった。意を決して飲み込めば、褒めるように背中を撫でられる。
最後の一滴を飲み込むと、ゆっくりと離れていった。少しだけぼやける視界が気恥ずかしい。
赤い口紅が移った唇を拭いながら、ブラッドリーが目の前の男に口端を上げる。
「こいつはわがままでな。こうしねえと飲まねえんだよ」
「……左様でございましたか。これは失礼を」
「構わねえ。けど、これは好みじゃなかったらしいな」
固くなった表情をからかうように視線を向けられる。軽く頭を下げていた男にも注目されて、曖昧に笑う事しかできなかった。薬を飲み込んでしまった動揺をうまく誤魔化してくれたのは感謝するが、注目させることはなかったんじゃないかと袖を握る。勿論、その抗議は黙殺されてしまったが。
新しいものを持ってくる、と男が下がっていくのを見送って、ため息を吐いた。
「なあ、飲んでも大丈夫だったのか?」
「問題ねえよ。中和した」
「すごいな、そんなことも出来るのか」
恐らく、一度ブラッドリーが口に含んだ時に魔法をかけたのだろう。それでカインにも何も異変は起きなかったわけだ。ありがとうと言おうとして、ふと気づく。今、男が新しいものをもってくると言ってなかったか。
「もしかして……これを、続けるのか?」
任務の間、口に入れるものが出てくるたびに、あれを?
否定してほしいと思いながら言った言葉に、望んだ答えが返ることはなかった。