ネロ、と名前を呼ばれた。その声の頼りなさにあれ、と思う。作業の手を止めて店の座敷に座る妖狐のところに顔を出した。どろりと蕩けた金の目が嬉しそうに見上げてくる。
「ネロ、こっち」
裾を引かれ、隣を示される。まだ明日の仕込みも終わっていないのだが、どうも振り払うことが出来ずに腰を下ろした。途端に酒精が鼻を衝く。机の上には空いた酒瓶が転がっていた。ネロが出してやったものなのでそれについては特に疑問はないが、問題はその量だ。ここまでぐだぐだになるほどではなかったはずなのだが。
真っ赤に染まったカインの頬がふにゃっと緩んだ。舌足らずに何度も名前を呼ばれる。どこからどう見ても酔っ払いに違いなかった。
「あー……ちょっと待ってろ。水持ってくるから」
「だめ。ネロはここ」
立ち上がろうとした手を掴まれる。酔っ払いらしい手加減なしの力に引き寄せられた。熱い腕がしがみついてくる。首筋の紋章に触れた赤茶の髪に、この程度の酒でこんな風になった原因を知る。
「おまえ、また無茶やったな?」
「んー?」
「妖力使いすぎたんだろってこと」
何がおかしいのか小さく笑いながら、そうだったかもとカインが頷いた。思わずため息を吐く。
今のカインに妖力はほとんど残っていない。妖狐の姿をとれないほどではないようだが、強くもない酒精にやられてしまう程度には弱っているらしい。忙しさにかまけて確認を怠るのではなかったと顔を顰めた。沈みそうになる心を押し込めて、ふらふらと揺れる背中を叩く。まずはカインの介抱が先だろう。
「立てるか?」
「やだ、たたない……」
「いい子だから、ほら。部屋戻るぞ」
「ネロも……?」
そう言って下からそっと覗き込んできた。ふさふさの獣の耳が小さく揺れる。甘えたような声と仕草に一瞬言葉に詰まった。相手は酔っ払いだと改めて心に刻み込んで、一緒に行くからと頷く。
ぱっと顔を輝かせたカインに手を貸して、カインの部屋へと足を進めた。
布団に寝かせたらブラッドリーを呼んでこよう。あの男の天狗の紋章から妖力を分けてやれば多少は落ち着くはずだ。本当は、ネロが分けても構わないのだが。ただ、どうにもまずいような気がして未だにその決心はつかないままだ。小さくため息を吐きながら、辿り着いた襖を開いた。
敷いたままだった布団に小言を言うのは明日にして、酔っ払いの体を横たえる。やれやれと離れようとして、首に回っていた腕に阻止されてしまった。太腿のあたりを柔らかなものが撫でる感触がする。
「だめっていった」
「つってもな……そのまんまだと辛えだろ」
ブラッド呼んできてやる、と言ってもカインの手が離れることはなかった。それどころがより強く引き寄せられる。熱い息が首筋に触れた。待てと声を上げる前に、紋章に生ぬるいものが伝う。カインの舌だと理解して動けなくなってしまった。かすかな水音が聞こえる。
水を飲む子猫のように、拙く舌が動く。体から少しずつ抜けていく妖力にカインのしていることを悟ったけれど、布団についた指を動かさないようにするので精一杯だった。
ネロのことなど知らぬ様子のカインが、ふと動きを止めた。笑う吐息が首にかかる。
「おいしい」
嬉しそうな声に、限界がきてしまったのだと思う。手が動いて肩を掴んだ。