扉を開いて中に入る。意外に普通なんだな、とカインはそう思ってしまった。
相手の希望に沿って設けられた面会場所は、小さな会議室のようだった。ブラインドのかかる窓からは、外からの太陽の光が差し込んでいる。白い壁にストライプ模様が出来上がっていた。
飾り気のない机と、パイプ椅子が二脚。部屋にある物はそれだけだった。それでも殺風景に見えないのは、目の前に座る男のせいだろう。
ブラッドリー・ベイン。
世紀の大悪党とも言われた犯罪者。顔の傷はある犯罪シンジケートを一人で潰した時に負ったものだとか、さる国の国宝をも盗んでみせただとか。本当か嘘か分からない噂はよく耳にするが、今重要なのはそんな不確かなものじゃない。
警察を長年出し抜いて逃げおおせていたその頭脳と、裏の事なら知らぬものはないと言うその情報網。男と持つその力を、正義の為に使って貰わなくてはならなかった。
そうしなければ、とカインはぐっと拳を握りしめる。上司に聞かされた事件の概要が脳裏に浮かび、消えてゆく。ここでカインがブラッドリーの協力を得られるか否かで、状況は大きく左右されるのだ。
笑みを形どったワインレッドの瞳は、油断なくこちらを見据えている。
大きく息を吸い込み、前を見据えた。ゆっくりと、空いたパイプ椅子に腰を下ろす。
先に口を開いたのはブラッドリーだった。
「中々悪くねえな」
口角を上げ、頬杖をつく。手錠の鎖の金属音が、妙に大きく部屋に響いた。
どう答えるべきか。考える時間はあまりにも少なく、うまい言い回しも思いつかなかった。そもそも、今するべきは取り調べなどではなく、協力を仰ぐこと。下手に言葉を取り繕っても仕方がない。
迷った末に、褒めてくれてありがとう、と口に出した。
「なるほどな。てめえの上司は余程性格が悪いみてえだな?」
「……どうしてそう思うんだ?」
ブラッドリーが楽しそうに笑い声を上げる。大きく開いた口元から、鋭い犬歯が覗いた。獣のようだなとふと思う。
「俺はタダでは動かねえ。ボランティアなんて趣味じゃねえからな。つまり、報酬が必要なんだよ。わかんだろ?囚人なんて、誰でも女ひでりだ」
ぐっと唇をひき結んだ。カインも、それを考えなかったわけじゃない。今しているのは、まだ巡査部長になったばかりの新人刑事には、あまりにも重い任務だ。しかし指名された理由が、女であるということなのであれば、納得出来てしまう部分もある。今の刑事部には女性があまりにも少ない。
最近頑張っているからだと、そう言ってくれた先輩刑事の言葉を信じていたかった。だけど、今こうして突き付けられたのは紛れもなく現実だ。悔しさに奥歯を噛みしめる。瞼を閉じた。
拒否してしまうのは簡単だ。だけど、カインの矜持と市民の安全、どちらを取るのかと言われれば答えは決まっている。
目を開いた。
「わかった。あんたの言う通りに」
「へえ?随分潔いんだな」
「時間がないんだ。これで協力してくれるんだろ?」
そう、一番重要なのはブラッドリーの協力を取り付けること。手段を問うている余裕はない。この身一つでどうにかなるなら安いものだ。
男の顔が途端に鼻白む。つまらねえな、と呟く声に血の気が引いた。やり方を間違えたらしい。このままでは任務は失敗に終わってしまう。焦る頭では良い案が浮かぶわけもなく、思いついたことをやってみるしかなかった。
手錠の填まる手を掴んだ。
「今、報酬を支払ってもいい」
「ここで?」
興味を引かれたように細くなる瞳に、内心ほっと息を吐く。
ちらりとドアの方を見るブラッドリーが何を言いたいのか分かっているが、そうだと頷いた。外には大勢の刑事が待機している。防音処理の施されていないこの部屋の音は、外にもよく聞こえるだろう。
「あんたが、そう望むなら」
逃げられぬよう手を握りしめ、ワインレッドの瞳を見つめる。耳が痛くなるような静寂は、低い男の笑い声で破られた。
「いいぜ。その度胸に免じて受けてやる」
ただし、とブラッドリーが指先を動かした。こちらへ来いと言うことらしい。ペットを呼び寄せるような仕草にむっとするが、言葉を飲み込んで席を立つ。机を回り込んでブラッドリーの横に立った。
「報酬の一部は貰っておく」
胸倉を掴まれて引き寄せられた。咄嗟に目を閉じる。唇に柔らかいものが触れて、慌てて離れた。
笑う男の口元が色づいている理由に気づいて、思わず目を反らしてしまう。
「そのままで帰れよ」
今日ほど、メイクをしている自分を恨めしく思ったことはなかった。