エアコレ2023春 新刊サンプル<前略><付き合っていません>
そんなことを考え目を細めながら、エマが部屋にいる可能性を少しでも上げようと、時間稼ぎに少し回り道をしながらエマの部屋を目指す。そんな途中で。
(うわ、いつの間にかすごい降ってるじゃん。寄り道してたら危なかったかも)
ふと見た廊下の窓の先、土砂降りの様相を見たユミルは足を止めると、小さく溜息を吐いた。風で纏わりつくような霧雨にうんざりはしたけれど、こうなる前に帰れただけでもラッキーだったようだ。
(まだ酷くなるのか? 今夜はうちも駄目そうだな~)
雨の日はプリムスクラブ全体としての客足も落ちるし、きちんと手を打てば落ちないユミル自身も、決して表には出さないけれど多少身体が怠い。だからこんな日はそんな怠さに気付かないくらい仕事に熱中するか──エマを抱き締めるのに限る。今日このあとは休日なので、後者一択だ。
そう思い当たると、一刻も早くその身体を抱き締めたくなる。土砂降りの窓にもう一つ溜息を吐いて、ユミルはそろそろ真っ直ぐエマの部屋に向かおうと──そもそも留守なら入りこんで待つのも良いと思い直した──窓から離れた。
けれど次の瞬間、少し先のスタッフ専用の通用門への扉が勢いよく開かれたのに、咄嗟に身構えながらそちらを見る。そうしてそこに見えた人影に、目を丸くすると早足で歩み寄った。
「エマ」
「あれ、ユミル? こんな裏にいるの珍しいね」
散々に考えを巡らせていた相手が、自分から手の内に飛び込んできたことに満足しながらも、そのずぶ濡れの身体を見てユミルは顔を顰める。
「外に出かけてたの? うわ、びしょびしょじゃん。風邪ひくよ? 女の子なんだから、もっと気を付けないと……傘は持っていかなかったの?」
「降り出す前に帰ろうと思ってたんだけど、間に合わなくて。雨宿りしても全然おさまらないから、諦めて走ってきちゃった」
「そんなずぶ濡れになるまで、どこから走ってきたの……君のことだしボードはちゃんと持ってったんでしょ? 俺を呼んでよ、そういう時はさ。傘持って迎えに行ったのに」
「……だってどうせ傘一本でしょ?」
「え、一本で足りるよね? 誰か他に使うの?」
「そうだね」
応対に慣れてしまったのか、向けたとっておきの笑みにも呆れたように肩を竦めたエマにすぐ苦笑を向けて、ユミルは取り出したハンカチにせめてとエマの顔の水滴を優しく吸い取らせた。払い除けもせずまるで子供のように黙って大人しくしているのが、信頼してくれているからだとか意識してくれているだとか、そんなかわいい理由でないことは分かっている。
(あはは、何考えてるのか分からないって顔してるね。そういうところも単純でかわいいな~。警戒してるんだろうけど、すぐに逃げなかったのは逆効果だよ。俺みたいなのに付け込まれるからね)
困ったように動きを止めたままのエマに内心嘲笑を漏らしながら、そのまま張り付いた前髪を拭う。
首筋までの水気を取ったところで使い物にならなくなったハンカチに苦笑を深めて、ユミルはそれをエマに渡してやった。
「え、ありが、ひゃっ!」
首を傾げて受け取ったエマをひょいと抱え上げてやれば、上がった素っ頓狂な声に思わず弾けるような笑い声が漏れた。
「もう、そんなに笑わないでよユミル! ユミルが急にこんなことするから悪いでしょ、降ろしてよ」
「可愛い声だったね。かわいくて……どきどきしちゃった」
「こら、ねえ降ろしてってば」
「うーん、せっかくの機会だから降ろしたくないのが俺の本音だけど……それ以外にもさ、今降ろしたらエマの部屋まで床が濡れちゃうよ? それとも、誰か呼んで後始末させようか?」
エマがすぐに戻って掃除をするという選択肢を思いつく前にそうやって聞けば、エマが口籠もって眉を下げる。このまま誰かを呼べばこんな状態を見られるとか、自分のせいで他人を働かせてしまうだとか、きっとそんな風に考えてこんな状態と天秤にかけているのだろう。
(ほんと扱いやすくて良いな、こういうとこ)
ややして落ちないようにそっとしがみ付いたその腕が、少し拗ねた表情のエマの精一杯の無言の答えだ。抵抗を諦めた様子のエマに目を細めると、ユミルは抱え上げた身体から水滴が滴らないように自分に寄せて、足早に廊下を歩き始めた。
あの辺りは流石に水浸しだったけれど、あれくらいなら誰かが気付いて片付けるだろう。いくら裏口とはいえ、プリムスクラブはそこらの店とは違うのだから。
それにどうせ、エマ自身にも護衛はついているのだ。普段その強面とユミルへのあからさまな牽制で雰囲気をぶち壊しているのだから、これくらいの後始末はさせても良いだろう──もちろんそれは裏の人間でもそう気付かない程度のものでエマは気付いていないし、壊された雰囲気なんて、ユミル自身は全く気にしないのだけれど。
「ねえエマ、約束してよ。次は俺のこと呼ぶって」
「うーん、でもわざわざ雨の中来てもらうのは悪いから」
「俺が迎えに行きたいんだよ。大切な君を、雨から守らせて欲しいんだ。それにこんな雨の日って、なんだかどきどきしない? 雨の音の中で、二人きりの世界でさ」
少し顔を寄せるようにして囁くと、エマが溜息と共にユミルの顎をそっと押し戻した。
「……傘、二本持ってきてくれるならね。大体ユミルは身体が大きいから、傘一つじゃ絶対濡れちゃうでしょ」
「大丈夫、エマには一滴もかからないように、大事に包み込んであげるから」
「傘は自分を濡らさないために使って欲しいな」
「こんなに言っても駄目? あ、傘二本持っていって困っている人に貸してあげたら、俺は嬉しいし見知らぬ誰かも嬉しい。どう?」
「なしです。ねえユミル。私だって、普通に来てくれるならありがたいんだけど……」
「え、普通でしょ?」
「そう思うなら、やっぱり頼めないよ」
「え~、どうして?」
軽口を交わしながらもそうして辿り着いたエマの部屋の扉前で、ユミルは腕の中顔を赤くして少し口を尖らせていたエマを覗き込んだ。
「エマ、鍵は?」
「あ、ちょっと待ってね、この中だ」
「貸して」
拗ねたポーズはすぐ忘れたのか、慌てて抱えていた小さなリュックを漁って鍵を取り出したエマからそれを取り上げる。何も言わなくても、慣れたように首に回された腕がその体重を支えようとして、込み上げた妙な衝動に腹の奥がむずむずと痒くなった。
(染まってるって、これでも気付かないんだよな。かわいいんだから)
しがみ付くその細い両腕に少しでも負担を掛けないよう、抱えた片腕でその体重を支えてやって、素早く鍵を開ける。そのまま中に入り込むと、途中のデスクへ放った鍵には見向きもせずに、勝手を知ったその部屋を通り抜けて奥のバスルームへと向かった。
バスルームの辺りは床に絨毯がないから、降ろしてやって濡れても拭けば済む。
そうしてそっと降ろしてやると、あまりに素直に手放したからだろう、何やら訝しげにこちらを見ていたエマについ笑いそうになるのを堪えて、真顔で首を傾げて見せる。
(信用ないな~……まあ意識してくれてるってことだから悪い気分じゃないけど)
「タオル取ってくるから、そこで待ってて──」
言い淀んで少し距離を詰めると、警戒したようにその目が細められた。けれどその濡髪をそっと指先で摘んで心配するように眉を下げて見せると、警戒の色を残しながらも居心地悪そうに見上げられたのに目を細める。
(ふふ、なにもしないって。──それとも、何かしてほしいのかな?)
口に出しかけた戯言をすんでのところで飲み込んで笑みを向けると、それでもその視線に何かを感じ取ったのか、エマが呆れたように眉を寄せて見せる。
(こんな時ばかり勘が良いんだよね)
普段はあんなに無防備で鈍いくせに。そんなことを考えながらすぐ傍の戸棚からタオルを取り出して渡してやろうとして、ユミルはけれどその手を止めた。
先ほど多少は拭ってやったし、今もここに来るまででユミルの服にかなり染み込ませてはいたけれど、全身ずぶ濡れのエマを改めて上から下までじっくりと眺めて──頬を染めたエマに軽く腕を叩かれても念入りにだ──小さく息を吐く。
そっと伸ばした手の甲を頬に当てて、ひやりとしたその肌にもう一つ息を吐いて軽く身を屈めると、その冷たさをあてた唇でも測って眉を寄せた。
「身体も冷えてるし、やっぱりタオルよりお風呂かな」
言いながらバスルームへの扉を開けて、ますます頬を染めていたエマの背中を軽く押す。たった今起きた出来事に物言いたげにこちらを見上げるその視線を笑顔で黙殺して促せば、エスコートされるままに素直にバスルームへ足を踏み入れながらも、エマが結局は呆れたようにこちらを見上げた。
「……そうだね、確かに少し冷えたし、温まった方が良さそう」
「うん」
「うんじゃなくて、どうしてここにいるのかな」
「お風呂入るんでしょ?」
「お風呂、入るから、出てくれないかな」
「え、なんで?」
「え、なんで?」
お互いにびっくりしたように目を丸くしあって、けれどユミルはふと笑うとその濡れた髪を軽く掻き混ぜてやった。
「なんて、こんなことしてて大切な君が風邪引いたら困るし、今日は見逃してあげるから温まっておいで」
「見逃してあげるって……なんだか釈然としない……」
「ほら、残念だけど、一緒にお風呂入るのは次回のお楽しみにしておいて。大丈夫だよ、俺、結構身体に自信あるし……君はもう十分に知ってると思うけど」
「し、知らないよ! 何が大丈夫なのかな 次回なんてないからね」
「気抜かないでちゃんと鍛えておくから、期待しておいてよ」
「ないからね 鍛えなくていいから! 期待もしてません!」
まだ何かを言い募ろうと尖らされた唇を奪ってしまいたい欲求をなんとか飲み込んで、ユミルは笑みを貼り付けると言葉を遮るようにバスルームの扉を閉めた。
扉越しに「もう!」と最後にぶつけられた拗ねるような声に、深い溜息を吐いてちらりと傍らに目をやると、鏡の中に映り込んだ自分が少し上気していたのに舌打ちをこぼす。
(ガラじゃない。全く、無自覚なのがタチ悪いな、ほんとに)
あの無自覚で無防備で鈍くて可愛い生き物はきっと、ずぶ濡れだったせいで張り付いた白いシャツから透けた中身に、どれほどユミルが理性を働かせてやったかなんて知りもしないのだ。キスさえしなかったのに。
<中略>
<付き合ってます>
「──キス、うまくなったね」
濡れたままの囁きに、甘い疼きが強くなる。
「やっ、そんなの」
「堪らないよ。君ってこんなところも優秀なんだね──全部俺が教えた通りで、すっごく興奮する」
「や……」
「君ももう知ってるでしょ? どうしたら俺が喜ぶのかってさ。ほら、試してみて?」
楽しそうに目を細めたユミルが、容赦のないキスを中断するとそっと舌を預けた。力をなくした舌がそれでも熱くて、エマは途方に暮れる。
(こんなの、どうしたら)
ユミルが喜ぶ方法なんて、分からない。これだけ身体を重ねても慣れることなんかないし、すぐに正気を失ったようユミルの思うままに蕩けさせられてしまうのに。
恐る恐るその熱い舌をつつくように舌を押し付けて、それでも動こうとしない熱に眉尻を下げる。
「ぅ、ゅみ、ル……!」
遂には強く目を瞑ると、エマはその舌に吸い付いた。あっさりと与えられた舌にもどかしさを伝えるように必死に舌を絡めていると、不意に深く引きずり込まれる。
「ッ、んっ、ユっ、ぅう、待っ……んッ」
「ほら、上手に出来た──堪らないよ」
耳から中身が溶け出してしまいそうだ。吹き込まれた熱い吐息と声に、エマは滲んだままの視界を振り切るようにその舌を求め返す。そのうちにいつの間にか胸の上に熱い手のひらが押し付けられていたことに気付いて、少し身を捩った。逃げられるわけもなく、ゆっくりとその手が胸を崩し始める。
身体中が心臓になってしまったみたいに、跳ねる鼓動がうるさい。
(こんなの、ユミルにも聞こえちゃうのに……!)
そう自分を窘めようとしても、絡められる舌に、優しく解す手のひらに、期待で首筋がざわりと震える。
そのうちに、その指先が時折胸の先端を押し潰すように這い始めたのに気付くと、エマは必死にユミルとのキスから自身を引きずり戻した。
「ゆ、ユミル、それやだ……!」
「どうして?」
「あっ、だ、だって……ッ、わた、おかしく、なっちゃう……!」
「──どうして?」
その先を言わせようとしているのが、その熱く濡れた眼差しで分かる。
いつだって散々に恥ずかしい台詞をぶつけてくるくせに、こうやってエマの言葉を引き出すような真似にも余念がない。
(ユミルばかり、余裕で……ずるい……っ!)
綺麗なままの笑みにどうしても互いの差を思い知らされて、エマは滲む視界を強く瞬くことではっきりとさせると、ユミルの首筋に手を這わせた。少し湿った肌をなぞるように指を滑らせて、相変わらず胸元を探っている手のひらをその隙間に閉じ込めるよう強くユミルにしがみつく。
いつもは仄かに感じる程度のその香りが一際強くエマを包み込んで、頭が痺れたようになる。
「ユミル……」
熱にうかされたようにそっとその名前を紡いで、エマは熱い首筋に唇を寄せた。途端伝わるどくどくと思っていたよりも早い鼓動に、少し目を瞠る。
弾かれたように顔を上げると、どこか呆れたように笑うユミルと目があった。
「君って本当にさ……ああもう、分かってるけど。どうせ無自覚なんでしょ」
「無自覚って……」
「ずるいよね〜、転がされてばかりだよ俺。お前が欲しくて堪らなくて、どうかしそう」
つらつらと言葉を紡ぎながら、ユミルがいつも通りの笑みを浮かべる。けれどすぐにその目が優しげに細められて、ゆっくりと唇が重ねられた。
「んっ、ゆ、みる……」
「エマも、それくらいおかしくなって? 俺たち、恋人同士なんだよ? 俺だけじゃ駄目。もっと二人でさ──ね?」
そっと前髪を除けた指先が頬を撫でて、すぐに熱い額が重ねられる。その温度であからさまに身体の奥が騒ぎ出したのに、こんなにも落ち着く。
(二人で──そんなの、良いのかな)
少し躊躇ってそれでもそっとその頬に指で触れて、エマはおずおずとその形の良い唇に自分から唇を寄せた。ゆっくり押し付けて離れて、けれどすぐに頭に回された手のひらで強く押さえ付けるようにして口付けられる。
全てを飲み込まれるような、深くどこまでも奪われるようなキスに、あっという間に疼きが溢れた。