■ 電流を纏う細い糸がピンと張り詰められているような空気の中で、ジュニアの怒声が響く。
「クソDJ!!そっち行ったぞ!!何とかしろ!!」
「ちょっ…丸投げしないでくれる!?」
平生ならジュニアの騒がしさに苦言を呈するフェイスも、今ばかりは感情を抑えることもせず怒鳴り返している。
ただならぬ事態であることは二人の様子を見れば明確であるが、事件が起きているのはここ、ウエストセクターのリビングである。
「ほら、今度はそっち…!」
「クソッ…ちょこまかとウッゼーな!!」
二人の顔に浮かぶのは、緊張と戸惑い、そして…恐怖。
「ふぁっく!!さっさとくたばれ!!この、■■■■ヤロー!!」
──時は数十分ほど遡る。
最初に気付いたのはフェイスだった。
午前のトレーニングを終え、午後からはオフになるキースが部屋で昼寝をする前に作ってくれた昼食を、ジュニアと二人で食べていた時のことである。
他愛無い話をしながら、ふと視線を上げたフェイスの肩が強張ったのをジュニアは横目で捉えた。不自然に途切れた会話に顔を上げれば、フェイスは口元を引き攣らせたまま、ある一点を凝視していた。
滅多に見ない表情だったのに「おまえ、すげー変な顔してんぞ」なんて茶化す気にならなかったのは、その表情からこれまた滅多にない程の焦燥を感じたからだった。
「お、おい…どうしたんだよ」
「しっ…静かに」
焦りを滲ませながらも真剣な声色に、ジュニアも思わず息を詰める。フェイスは、視線を外さないまま指を動かして自分と同じものを見るようジュニアを促した。
素直にフェイスが指す壁を見れば、そこには黒いシミが一つ、不自然に浮かんでいた。
そしてどうやら、そのシミは、動くらしい。
「なっ…!?」
シミではないと認知した瞬間、ジュニアの体を駆け巡ったのはとてつもない悍ましさだった。
「ゴ…■■■■…!?」
「ちょっと…わざわざ言わないでよ」
噂には聞いていた。たとえどんなにハイセキュリティかつハイタワーであっても、通気口と排水口さえあればどこへでもやってくるという、黒光りする、あの甲虫。存在するのは知っていた。どんな姿形かも何故か記憶していた。
「初めて見た…」
「俺だって」
その存在を目の当たりにすれば尚更、ぞわわ、と鳥肌が立つのを感じた。初見にも関わらず感じるこの悍ましさ、嫌悪感。
■■■■に対する負の感情は、最早全人類の細胞に遺伝子レベルで刻み込まれているのかもしれない。
出来ることなら関わりたくない。けれど、このまま見逃すこともできない。ならば取る手段は一つしかない。
視線は前を向けたまま、二人は各々手探りで見つけた雑誌とスリッパを構える。
キースは部屋で寝ている。ディノは、所用で出掛けていて合流するのは午後のパトロールから。
ここにいるのはフェイスとジュニアの二人だけ。やるなら自分達しかいない。
しかし、手近なもので即席の武器を用意してはみたものの。
「…で、どうするんだ?」
「どうって…。とりあえず、叩けばいいんじゃない?」
実際のところ、二人とも■■■■の正しい退治のやり方なんて知らないのだった。
そして現在に至る。
フェイスとジュニアの奮闘も虚しく■■■■は未だ捕まらず、今はリビング中央に鎮座するソファの向かいに面する壁に素早く移動してままその動きを止めている。
──今なら行けるんじゃないか?
そんな期待が湧き上がるもすぐに打ち消される。そうやって何度仕留め損ね、何度■■■■への悍ましさが募っていったのだろう。
ほんの短い時間で二人の気力は削られ対応は後手に回っている。■■■■が動けばこちらも動くが、動かなければこちらはもう、動けない。
実に後向きな膠着状態である。
それも仕方あるまい。何だかんだ育ちの良い二人にとって初めての邂逅。未知との遭遇だったわけで。誰しも初めから何でも完璧にできるわけではないのだから。
退治できないからと言って何も恥じることはないのだが、そんな二人を嘲笑うかのように■■■■はひょっこり伸びた二本の触角をヒョコヒョコ動かしながらその場で小刻みに足を動かして左右に体を動かしていた。
■■■■には全くそんなつもりはないのだろうが挑発と受け取ったジュニアが「ナメてんのかコラ」とキレ始める。
一方フェイスは──騒ぎだす前にジュニアの口を塞ぎながら──ある予感がした。とてつもなく嫌な予感だ。
一人で抱えたくないので、口を塞がれて不満げなジュニアも巻き込むことにした。ここまできたら一蓮托生だ。
「ねえ、おチビちゃん」
「なんだよクソDJ」
視線は壁に向けたまま、ソファの前で互いに口を塞ぎ塞がれ、フェイスがジュニアの肩を抱いているような姿勢で会話は続く。
「ああやって壁も天井も関係なく走り回るっていうのにさ……何で、アレの背中には羽があるんだと思う?」
「はあ?羽ぇ?」
何で今そんなことを聞くのかと思ったが、何か意図があってのことだと思い直し、思考を巡らせる。
「そんなの、アレだろ。羽って言ったら──」
そこでジュニアは恐ろしい事実に気付いてしまった。そんなまさか。
「え、アレ…飛ぶのか…!!!?」
直後。
まるで驚愕するジュニアの声を合図にするかのように■■■■の黒光りする前羽がパカリと開いた。続いて中から広がる茶色の半透明な後羽。
そして、
「ひっ…!?」
飛んだ。
しかもあろうことか進行方向は向かいのソファ。つまりフェイスとジュニアに向かって飛んでくるのである。
むり。ありえない。こっちこないで──!!
眼前に迫りくる■■■■から逃れようと仰け反らせた上半身に足元がもつれ、後ろのソファに倒れ込む。最早為す術もない二人は無意識に直ぐ側にあるものに力いっぱいしがみつくことしかできなかった。
「ギャーギャーうるせぇよ」
気怠げな声と、■■■■の動きが止まったのは、同時のことだった。
まるで見えない壁にでもぶつかったように、羽ばたく姿のまま■■■■はピクリとも動かない。
突然聞こえた声のする方を見れば、メンター部屋のドアに寄り掛かったキースが呆れたようにこちらを見ていた。
「二人して何騒いでんだと思ったら、たかが■■■■一匹に…」
彼の体から淡い光が滲んでいるのを見て、また■■■■に視線を戻す。その小さな肢体も同じような光に包まれていた。
■■■■は淡い光に包まれたまま、ふよふよと空中を漂い、最後は蓋付きのダストボックスへと吸い込まれていった。何とも呆気ない最期である。
「ったく…こっちは寝るんだってぇの」
くあぁ、と欠伸をしたキースが部屋に戻ろうとするが、ドアをくぐる手前で二人の方を振り返った。
「…で、お前らはいつまでそうやってんだ?」
ついさっき、迫りくる恐怖から逃れようとフェイスとジュニアが無我夢中でしがみついたものはお互いの体だった。そして今も尚その姿勢のままソファに座り込んでいる。
キースに言われて初めて気付いた二人は、至近距離で顔を見合わせ、瞠目したまま動けなかった。
さっさと食器片付けろよ〜とヒラヒラ手を振って、キースは今度こそ部屋に戻っていく。リビングに扉の閉まる音が響いた後は、とても気まずい沈黙。
さて、どうしよう。
「おチビちゃん。ほら…早く退いてよ」
「クソDJこそ、さっさと離れろよ」
「何言ってるの、そっちが離れてくれないと俺も動けないんだけど」
「おれだって!おまえがしがみついてくるから動けねーんだよ!!」
フェイスもジュニアもどうにか相手を先に動かそうと必死になっている。何でもいいからさっさと離れてくれと思っている。
だって、腰が抜けて立ち上がれないとは口が裂けても言いたくない。ついでにこんなこと絶対に知られたくない。
「オーケー。それじゃ、同時に離れよう」
「おお、いいんじゃねーの」
「せーのでいくよ」
「わかった。…せーの!」
「……」
「……離れろよ!!!!」
「おチビちゃんこそ……」
何としても相手に動けないことを悟られず、かつ、先に離れてもらうか。そんなことばかり考えているものだから、お互いが全く同じ状況だなんて気付くはずもなく。
結局二人とも動けず、抱き合いながら延々と口論するばかりだ。
もうすぐ午後のパトロールが始まる頃、リビングに戻ってきたディノが二人の異変に気付くまでフェイスとジュニアはずっと、お互いの体にしがみついたままだった。
おわり