▽「ん!」
不満気な表情と共に目の前にズイと差し出された袋を見て、フェイスは大きな瞬き二回で返事をした。
今日は軽音部の活動をするからと事前にしつこいくらい念を押され仕方なく教室に来てみればそんな出迎え。さすがのフェイスもやや困惑する。
視線で「何それ?」と尋ねれば、ジュニアは引き結んでいた口元を弛めてその表情と相違のない低い声で答えた。
「…朝、校門の前でおまえに渡せって押し付けられた」
ジュニアの声には不満の他に、どことない疲労感と、少しの呆れが滲んでいた。それもそうだろう。
何せ、その手に持つ袋にこれでもかと詰め込まれているのは、全て差出人の異なる手紙の封筒なのだから。
コンビニで受け取るような白いレジ袋は決して小さくはない。一体何人から押し付けられたのか、想像しただけでため息が出る。
「断ればいいのに…」
「だから押し付けられたんだって! 断る間もなく次から次へと…!」
思い出して、そもそもの原因がこの目の前の男にあることに思い至ったジュニアの目がつり上がる。
「いーから、さっさと受け取れよ」
「ええ、やだよ…。おチビちゃん、捨てといて」
「はぁ!? なんでおれが…おいテメェ、何スマホいじってんだ!」
ちゃんとこっち見ろ!と喚き始めるジュニアをよそに、ふと何かを思い出したようにフェイスはスマホを操作する。すぐに目的は達成され、それと同時に押し寄せたのは恐らくジュニアと似たような呆れと疲労感だ。
「…本当にそれ、捨てといてくれる?」
「だから、なんでおれが捨てなきゃなんないんだよ! つーか、これってファンレターみたいなもんだろ?」
それを捨てるだなんて、送り主の気持ちを無かったことにするようで酷ではないかとジュニアは思ったがフェイスはうんざりしたように首を振る。
「そんなどこの誰かもわからない相手より、目の前にいる俺の気持ちを考えてよ…」
「嬉しくねーのかよ、ファンレター」
「ファンレター、ねぇ…」
どこか遠い目をしたフェイスが、ひとまず座ろうか、とジュニアを促す。近くにあった椅子に腰掛けると、袋の中から適当に取り出した封筒をジュニアに手渡す。
「開けてみて」
だからなんでおれが、と先程から繰り返してばかりの言葉は、フェイスの真っ直ぐな──どことなく圧を感じる視線で口の中に飲み込んだ。
言われるがままは癪だと思いつつも、何故そこまで受け取りを拒否するのかは気になる。フェイスは如何にも面倒くさそうな様子だが、そもそも一番迷惑を被っているのは面倒事に巻き込まれた自分だと、ならば理由を知る権利もあるはずだとジュニアは渋々ながらも封を切る。
中から出てきたのは封筒に納まるよう二つ折りにされた便箋──ではなかった。
「…なんだこれ、赤い…糸?」
最初に目に飛び込んだのは細いながらもパッと目を引く鮮やかな色。封筒から出てきたのは手紙ではなく、数本使って編み上げられた細い赤い糸の束だった。
「ファンレターじゃねぇのか?」
指で摘み上げながらジュニアは不思議そうに赤い糸を眺める。ミサンガと呼ぶには随分心細い糸の本数だ。何に使うものなのか、ジュニアにはさっぱりわからない。
「確かに、手紙をもらうことはあるけど。突然こんな何人も同時に渡されるなんておかしいと思って調べてみたんだよね」
フェイスがスマホを見つめながら話し始める。ジュニアは赤い糸の観察を続けながら耳を傾ける。ふと、赤い糸の中に一本だけ黒い糸があることに気付いた。
「女の子の間で最近流行ってる恋愛成就のおまじない、なんだってさ」
「レンアイジョージュ?」
「そう。意中の相手に自分で編んだ赤い糸を渡してそれを相手が身に着ければ両想いになれるらしいよ。赤い糸が縁を結ぶ、みたいな」
「ふぅん?」
「…で、その赤い糸の中には自分の髪の毛を一本、編み込ませるんだって」
「へぇ、髪の………けぇ!!!?」
なんで黒い糸があるんだろうなんて呑気に考えていたジュニアはそれが何であるか気付いた瞬間、弾かれたように椅子から立ち上がり摘んでいた糸を投げ捨てていた。
「かか、髪の…? は? なん、なんでそんなもん…」
もう何も触れていないはずの指がゾワゾワッと痺れ、全身に悪寒が走る。腕に鳥肌が立つのを感じながら、それでも今しがた投げ捨てた赤い糸をおぞましいものを見る目付きで凝視していた。
「ほーんと、女の子って恋愛となると平気で恐ろしいことするよね」
震えるジュニアとは反対の冷めた表情で、フェイスも床に落ちた“おまじない”の道具を見下ろしていた。
つい先程まで間近で眺めていたのが信じられないくらい、遠ざかりたい気持ちでいっぱいだ。そしてジュニアはとんでもないことに気が付いてしまった。
「ま、まさか…その封筒の中身って、全部──」
「アハ。まぁ、これと同じものが入っているだろうね」
「ひっ…!?」
フェイスが座る机に置かれた袋。そこにはこれでもかと詰め込まれた大量の封筒が入っている。全て、今朝ジュニアが受け取ったものだ。
「あ、ありえねぇ…! 何でそんなもん渡してく
んだよ!?」
「そんなもん、とは言うけどね。女の子からすれば純粋で切実な恋心…らしいよ?」
「てか、おまえ! こんなやべーモンが入ってること知ってて、わざとおれに開けさせたのか!?」
「人聞き悪いなぁ。中身が気になってたのはおチビちゃんでしょ」
「うぐ…」
「はぁ。でも、面倒なことになったな」
スマホの液晶を指でなぞりながらフェイスは心底面倒くさそうにため息を吐いた。
「このおまじないが流行り始めたのって本当につい最近みたいなんだよね。で、この手紙をおチビちゃんが受け取ったのは今日が初めて。つまり…」
「つまり?」
「しばらく続くと思うんだよね、この手紙」
「ぴっ!?」
恐ろしい予言に肩を震わせる。今朝の記憶が蘇る。次々と渡される封筒。その手紙の意図も中身も、もうジュニアは知っている。
「ぜ、ぜってー受け取らねえ!! つーか、クソDJ宛の手紙なんだから、おまえが受け取れよ」
「うーん、それは無理かなぁ。だって俺そんな朝早く来ないし」
「いや、来いよ!!」
「それにおチビちゃん、今日受け取っちゃったでしょ? 『あの子に渡せばフェイスくんに届けてくれる』って多分女の子の間ではもう広まってると思うな」
「ふぁ───っく!!!! ふざけんな!!!! おれは受け取らねーからな!!!!」
足を踏み鳴らして憤るジュニアに、フェイスはふむ、と考えを巡らせる。
出会った初日に自分のファン達をかわりに追い返していたジュニアであれば、受け取りを断ることはできるだろう。
しかし、中には強引に押し付けるファンもいるかもしれない。何だかんだ真面目なジュニアのことだから、受け取ってしまったら律儀にフェイスに渡すのだろう。今日と同じように。最終的にこの呪いの手紙が行き着く先は、自分なのだ。
中身も中身なので、正直受け取ることはもちろん、処分するのもいい気持ちがしない。どうにかこれ以上受け取らずに済む方法はないだろうか。
「あ、そうか」
「なんだよ?」
「こっちがもう、成就させちゃったことにすればいいんだ」
「はぁ?」
「というわけで、おチビちゃん」
徐ろに立ち上がったフェイスは、袋を手にするとジュニアにニッコリと笑顔を向けた。
「おれに赤い糸、編んでくれる?」
「はぁ???」
わけがわからない、という表情を向けるジュニアにフェイスは説明を続ける。
「ダミーって言ったらわかる? 身につけるのはただの赤い糸でいいんだ。それで向こうが勝手に勘違いしてくれるから」
「そんなんで上手くいくのか?」
「純粋で切実な恋心は時として思い込みも激しくするんだよ」
「お、おお…?」
「それじゃ、俺は手紙を処分してくるから。よろしくね」
「いや待て! 何がよろしくだ! 自分で作ればいーだろ! なんでおれが」
「駅前に新しくできたステーキ屋」
「んっ?」
「売りはもちろんステーキだけど、裏メニューのハンバーグが絶品って通の間では有名らしくて」
「んん?」
「迷惑かけちゃったお詫びと、協力してくれるお礼にご馳走させてよ」
「んんん!?」
「おチビちゃんが俺に糸を編んでくれれば、俺もおチビちゃんも、もう手紙を受け取らずに済むし、おチビちゃんは美味しいハンバーグを食べられるし。ウィン・ウィンでしょ?」
「ぐ、ぐぬ…」
「アハ。まぁ何にせよ、俺はさっさとこの手紙を捨ててきちゃうね」
教室を出る間際にフェイスが見たのは、顰め面でこちらを見送るジュニアの姿だった。
そういえば結局、手紙の話だけで軽音部の活動してなかったな。
間もなくジュニアもそのことに気づくかもしれない。フェイスが手紙を捨てて戻って来る頃には赤い糸のことなんてどうでもいい、それよりもギターの練習が優先だと不機嫌なままコードを掻き鳴らす音が聞こえてくるかもしれない。
それでいいや、と思いながらフェイスは受け取るには重すぎる恋心が詰め込まれた袋を片手に、焼却炉のある校舎裏へと向かった。
そのほんの数分後、相変わらず顔を顰めたままのジュニアも教室から出ていったことを、フェイスは知らない。
教室に戻ってくるとジュニアの姿が見当たらなかった。荷物はそのままだったのでどこかへ出ているようだ。購買か、はたまた別の用件か。
「おいクソDJ。スマホ出せ」
突然後ろから声を掛けられて、さすがのフェイスも驚いた。しかし、相手がジュニアとわかるとすぐに何でもない素振りで返事を返す。
「おチビちゃん、トイレにでも行ってたの? 一人で大丈夫だった?」
「ふぁっく!! トイレじゃねーし、一人でも行けるっつーの!!」
じゃなくて、スマホ!と催促するジュニアに、フェイスは制服のポケットからスマホを取り出す。ジュニアの手が伸びてきて、指先が触れたのはストラップホールがある側面だ。
「ほら。これでいいだろ」
「え…」
ジュニアの指先が離れると、そこには細い糸を編んで作られた輪が括りつけられていた。パッと目を引く赤い色をしている。
「これ、おチビちゃんが作ったの?」
思わず口から漏れた声に、ジュニアは当然のように答える。
「おまえが作れって言ったんじゃねーか」
「それはそうだけど」
だからって、真に受けるとは。まさか本当に作ってくれるとは思っていなかった。なんだろう、喉の奥に思わず笑いだしてしまいそうなむず痒さがある。
「全部…赤い糸で作ったの?」
「は? そんなの当たり前だろ」
赤い糸じゃなきゃダミーにならねーぞ、なんて然も当然のように答えるジュニアは、フェイスの含みには全く気づいていない。
そんなところがお子様なんだよね、と思うフェイスも、自分が何でそんな言い方をしたのかなんてこれっぽっちも考えていなかった。
「おれがわざわざ作ってやったんだから、ありがたく思えよ!」
「…思ってるよ。ありがと」
「ハンバーグ、今度絶対に奢れよな!!」
「アハ、もちろん」
その日、珍しく校門から下校するフェイスに群がろうとしたファン達が見たのは、彼のスマホに括りつけられた赤い糸の輪だった。
まさかそんな、と絶望する者がほとんどの中、勇気を振り絞ってその赤い糸は誰が贈ったものなのかと尋ねる者がいた。
「んー…ナイショ」
曰く、悪戯が成功して嬉しくて堪らないとでも言うように細められた瞳は、けれども優しげな眼差しでその赤い糸を見つめていたという。
彼女らの頭上には鋭い電撃のような衝撃が走り、その出来事は一夜にしてファンの間に燃え広がる炎のような勢いで拡散された。声にならない悲鳴、一度の投稿では収まりきらない文字数の阿鼻叫喚と共に。
以降、フェイスのもとに赤い糸の入った封筒が届くことはなくなったのは言うまでもない。
後にこの出来事は「赤い糸ショック」と呼ばれるようになる。
そして結局、あの赤い糸の送り主は誰だったのかということはファンの誰も知るところではなかった。
おわり