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    エヌ原

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    SideMの朱玄のオタク 旗レジェアルテと猪狩礼生くんも好きです 字と絵とまんがをやる

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    エヌ原

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    アイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5

    #vs古論クリスモブ
    vs.OldTheoryChrisMob
    #古論クリス
    oldTheoryChris
    #SideM

    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
     声をかけられたのは去年の4月だった。最初の一言は「ありますか?」しか聞こえなかった。棚の整理をしていたわたしが顔をあげた先に、そのひとはいた。つややかな髪を後ろでひとくくりにして、ざっくり編まれたニットを着て、足元はなぜかサンダルで、もう一度「○○はありますか?」と尋ねられた。わたしはそのひとのまつげの長さ、薄暗いはずの図書館の中できらきらときらめく後れ毛に目を奪われながら、聞き取れなかった書目を聞き返した。ようやく聞き取れた名前はイギリスの大学が出している学術専門誌で、とうぜん開架棚にはない。わたしはそのひとをカウンターに誘導して、閉架から借り出すための小さなカードに必要事項を書いてもらった。備え付けのちゃちなボールペンからは見事な筆記体がえがきだされ、研究室番号が書き入れられた。そこでわたしはようやくその若いひとが、少なくとも大学院生、あるいは講師、そういう研究する身分にあるひとだということを知った。
    「今とってまいります。複写はされますか」
     そのひとがはい、と答えたのでわたしは複写申請書を差し出し、書架に走って製本された雑誌のバックナンバーを手に取り、カウンターに戻った。
    「複写はこちらで行いますので、ページ数を書き入れてください。ページ数は最大で、雑誌1号につき半分までになります」
     わたしは定型文を繰り返しながら、そのひとの指がペンを握り、力の入った爪が桜色に染まって、ペン先がpp.40~55、と書き入れるのを見た。お願いします、と微笑んだ顔は、美しかった。
     8見開きぶんをA4用紙にコピーしながら、わたしはうわついた自分をいさめる。仕事をしろ、仕事を。920円分の仕事を。コピーが冷めるのを待ってカウンターに戻ると、そのひとは変わらずそこに立っていて、わたしが渡した紙の束を抱えると、さっと出口へ向かっていった。
     それからわたしは幾度となくそのひとに出会った。そしてだいたい閉架の奥底に眠っている資料をさがすことになった。資料の範囲は多岐にわたり、メインは海洋学や水産、物理学、気象系だったけれど、たまに民俗学や文化人類学が混ざり、はては思想哲学、小説にまで、そのひとの渉猟はおよんだ。わたしはカードに書かれる名前を覚えて、Googleで検索してみた。リサーチマップが引っかかった。博論を出してまもない、若い研究者であることはすぐ知れた。日本語で書かれた論文をいくつか読んでみたけれど、素人にはとうてい歯が立たない類のものだった。
     暇な時間に講義に合わせた選書をするという名目でシラバスを読んだ。大学から急行で一本で行ける場所に水族館があることを調べて、ちいさなフェアをした。新書と文庫を固めただけのフェアはのべ2冊が借り出されただけだったけれど、わたしはその棚の前で立ち止まるそのひとを見られて、満足した。
     そうして前期が終わって、夏休みになる。そのひとは図書館に来なくなった。体でも悪くしたのかと思って心配した矢先、巡回サイトに入れていた海洋研究開発機構のサイトに、名前がのった。南洋のほうで調査研究をしている、という報告の三番目にそのひとを示す見慣れた五文字が並んでいた。わたしは安心して、事故がないようにと祈った。研究者は出先で死ぬことがあると、短い大学図書館勤務のあいだにわたしは知っていた。
     秋学期が始まる直前に、また図書館に来てくれた。わたしは研究が無事終わったことを内心喜びながら、そのひとが海の上にいた間に刊行された雑誌を貸しだして、三件の複写を淡々とこなし、手渡した。サングラスの跡がわずかに赤く残る顔でその人は微笑み、ありがとうございますと、それはきっと通り一遍のあいさつで、でもわたしにとっては宝物のような響きで言った。
     半年のあいだ、わたしたちは貸し出しカードと複写依頼カードを通してだけ、交流した。わたしがそのひとについて知れることはカードに書かれた情報だけだった。わたしは一度だって研究室に行くようなことはしなかったし(だっていち図書館の職員が研究室を訪ねる用事なんてない)、貸し出しのときに余計な一言をはさむこともなかった。
     そして迎えた四月、新入生向けのフェアのためにシラバスをくっていて、わたしは気づいた。名前がない、どこにも。そのときばかりは平静を失って、レファレンスのためにネットにつながっているパソコンでそのひとの名前を叩きこんで、そうして学部のサイトから名前が消えていることを知り、打ちのめされた。もう二度と会えない。どこかの大学に移ってしまったのか、企業にいったのか、もう研究はやめたのか、そういうことが頭をぐるぐる回って、離れなかった。そのままわたしは検索結果のページをスクロールして、あるページタイトルに気づいた。
    〈Official Website〉
     そう冠されたサイトの説明文には、職場のパソコンで見るにはどうしても不適当な「アイドル」の四文字があった。わたしは仕事が終わったら、もう一度、名前を検索しよう、と決めてブラウザを閉じた。
     図書館の仕事は遅滞なく済めばカウンターは18時にしまり、19時過ぎにはわたしたち派遣は上がれる。制服代わりの白シャツを脱いでたたんでバッグに入れ、代わりにそろそろ暑く感じられるニットを着る。薄給の常で飲み会なんかはそうそうないから、わたしはお疲れさまでした、と誰に言うでもなく口にして裏口から出る。図書館自体はまだ開いていて、明かりのなかでは大学生たちが勉強している。その光が窓から漏れる、でもそこにもうそのひとの姿はない。
     家に戻ると母が犬の散歩に行けと言ってきた。食事を作ってもらってる以上反論する余地はなく、わたしはトイプードルのキティ(母がつけた、それが子猫をさすと誰も教えなかった)を抱きかかえてアパートの前の路地に出る。キティが用を足して、ワンブロックをぐるぐる2周するのを見守りながら、食事が終わったらサイトを見よう、と決めた。
     風呂までのわずかな時間に、つくりたてらしいオフィシャルサイトをしらみつぶしに見た。Debutの文字はまだ鮮やかで――もちろんデジタルの文字は色あせない、わかってる、だけどそれは鮮烈に、わたしとそのひとの世界を切り離した。そのひとは自分で道を選び、わたしたちの場所を捨て、9人の候補からオーディションで選ばれて、いまステージに立っている。デビューシングルというのが配信されていて、わたしは生まれて初めてダウンロード販売で音楽を買った。普段ミュートにしてる音量の目盛を1だけあげて聞く、その曲は耳を刺すのに、声は間違いなくそのひとのものだった。あのときわたしにかけてくれた、硬度の高い石のようなきれいで曇りのない声。続けて最新曲までを全部ダウンロードした。といってもほんの数曲だ。グループ名で検索してもどう見てもPRの記事と、アイドルオタクの人のライブレポがひっかかるばかり。そのひと個人の名前になれば、大学にいたときに書いたらしい見覚えのある論文が上位に並ぶ。アイドルとしてはほんとうに駆け出しで、まだなにもなしとげていない、小さなつぼみ。
     わたしはほぼ飼い殺しにしていたブルーレイデッキを起動させて、そのひとのグループ名を登録し、出演番組を録画するように設定した。
     それからわたしの生活のリズムは変わった。朝30分早く起きて、深夜番組の録画を「消化」し、朝の情報番組に露出がないか確かめる。犬の散歩をして出勤してから退勤するまでは今までと同じ。帰って食事をしてから、昼間の時間帯の番組を見る。YouTubeの事務所のチャンネルに姿がないか、SNSに露出がないかを確認して、気が済むまで調べて、それでやっと寝る。休日はイベントにこそ行かないけれど、そのレポをずっと待つ、「在宅」になった。
     ほぼ放置していたツイッターの今までのフォロワーを全員ブロックして、新しくアイドル情報をツイートするbotや、そのひとのファンではない、グループのファンの人をフォローした。そうするといつ、どの雑誌に出るとか、番組表でタグづけられるほどではない、たとえばバラエティの再現ドラマへの出演も追えるようになった。それからツイッター以上に無法地帯なインスタも始めた。歌番組の過去VTRなんかは何回でも見られるようになった。
     もっとも自分からは発信しない。ひたすら見て、知るだけ。だってわたしは持っている、そのひととの、ほかのどんなファンも持ちえない時間を、過去に。
     わたしは優越感を持っていたと思う。アイドルとしてではない、素の人間であるそのひとを知っているという事実に。「現場
    」を「全通」して、「出待ち入り待ち」をし、「ファンサ」をもらったというひとにも嫉妬しなかった。だってわたしは知っている。知っている。
     そのひとは着実に露出を増やしていった。タイムラインに流れる「箱推し」のひとたちは喜び、そうではない態度をとるひとはブロックした。フォロー100フォロワー5のアカウントがそういうことをしてもどんな波風も立たない。わたしは安心して彼らの動画を楽しみ、リツイートで回ってくる情報を飲み下し、録画した歌番組やバラエティを見ながら、わたしが知っているそのひとの面影がだんだん薄れていくことから目を背けていた。
     もともとかすかな繋がりしかなかったわたしの思い出は、美しく彩られたアイドル像の前に無力だった。図書館の暗い明かりに照らし出されたまつげの色が、貸出票に文字を書き込む指先の爪が、サインライトに、スポットライトに塗り替えられていく。
     そうして彼らの「活動」を追って半年ほどたった。そのあいだわたしは一度も「現場」には行かなかった。万が一、万が一そのひとがわたしを覚えていたら、と思うと怖くて行けなかった。「オタク」の「嫉妬」の強さはタイムラインから学んでいた。「担降り」をした「同担」のひと、「推し変」をしたほかのアイドルのファンの少なからずが「ファンが怖い」と口にするのをわたしは見てきた。そして自分の中のばかばかしい万が一が本当に成ってしまったら、その苛烈な炎の矛先が自分に向くことを、疑いもしなかった。
     後期が始まるころ、休憩時間を学食で過ごしたらしい同僚の一人がチラシを持ってきた。学祭のチラシだった。そこに見慣れた文字列を見て、わたしは息をのむ。
     戻ってくる。戻ってくる。
     食事もそこそこにインスタを開くと、もうそのチラシはとっくにアップされている。学内にもいるのだろうファンは「#鮭の遡上 #草」とタグをつけているけれど、笑い事じゃない、その日は出勤日だ。学祭の日にも図書館は開いている。休憩時間をすこしずらせば、ステージは見られる時間だった。
     届いた文芸誌にカバーをかけながら、レファレンスに応じながら、わたしは混乱した頭を抱えて、終業時間を迎えた。今日中に提出しなければならないフェアの企画書がまだだった。わたしは正規職員に謝り、明日に締め切りを伸ばしてもらった。といっても内心は決まっていた。フェアの期間は、学祭と被っている。だったらあの時足を止めてもらった、あのフェアをもう一度やればいい。この場所に来るかはわからないけれど、急行で一本の水族館に連絡をとって、『水族館ガール』や『水族館の殺人』や関連した新書を並べて、そうしよう、そう決めた。帰りの電車でメモにそれらしい選書理由をでっちあげ、選書のリストを作った。明日許可をとって電話をすれば、小さな机は埋まる量をわたしはすぐあげられるようになっていた。それは元書店員としてのプライドでも司書としての矜持でもなく、ただそのひとが喜ぶための、わたしが差し出せる精いっぱいの花束だった。
     翌日職員さんに話を持ち掛けてOKをもらい、メモをワードでそれらしき形式にして水族館に企画書を送り、返事はすぐに返ってきて、よく見ると去年と広報の担当者は変わっていなかった。話はすぐまとまり、わたしはほっとして通常業務に戻った。
     その夜、母から「そろそろ資格とれるんじゃないの」と言われた。数えると司書補になってから1年半が過ぎていた。まだあと1年半かかるよ、というと母は露骨に嫌そうな顔をし、キティをまさぐりながら図書館の人って募集がないんでしょ、と聞きかじったようなことを言った。それ自体は正しいのでわたしはなにも言わなかった。そういえば司書資格のことをすっかり忘れていたことも。
     いつのまにか生活は主客転倒していた。わたしは本の代わりにアイドル雑誌を、スポーツ新聞を、朝の情報番組を追いかけるようになった。でもそれの何が悪いの? わたしの人生だ。ツイッターを開くと「現場に行かない在宅オタク」について「学級会」が開かれている。いつものことだ。グッズも買わない、ライブにも行かない、イベントにも顔を出さない、お金を落とさないやつが「オタク」って名乗るな、そういうどうでもいい話だ。わたしはインスタに切り替えてもう何度も見た歌番組の動画を再生する。照明が映し出すひかりの中に、わたしがあの日棚の前で出会った姿を探す。わたしは覚えている、そのひとがもう覚えていなくても、わたしは、わたしは忘れない。わたしはベッドの上でちぢこまって、ひたすら動画を見続けた。
     学祭が近づくにつれ、大学生はふたつに分かれていく。学生をまっとうするためにはしゃぐもの、それから距離を置いて一足先に就活生に変身するもの。よく図書館を使ってくれた学生が来なくなり、かわってエントリーシートを書くための場所を求めて違う子たちがやってくる。わたしには大学生活はなかったからどちらが正しいのかはわからない。ただ黙って四季報は禁帯出です、禁帯出というのは図書館の外への持ち出しが禁止という意味です、と繰り返す。そのたび、ステージの開催される日が近づく。
     ツイッターとインスタには学祭のチケットを手に入れたという投稿が増えはじめる。2500円のそれが4000円を上回る価格で取引されるのを私は見る。まだ手が出せる、まだ手が出せると思ううち、あっというまに5000円を超える。「【譲】学祭チケ 【求】定価+手数料」という書き込みの「手数料」にわたしは首をかしげる。手数料なんて、学生の手売のコピー用紙でできたチケットに存在するものか。
     やがてほかに出演するアイドルたちのファンもちらほらタイムラインに現れ始める。「予習しにきました」とか「おすすめ曲ください」という投稿たちには熱心な「オタク」が非公式動画のリプライツリーをぶら下げる。そこに著作権の意識はなく、ただ善行と信じて「布教」をするファンの姿がある。
    「終わった後新宿でオフしましょ!ツイプラたてます」、そういう書き込みにいくつもリプライがつく。わたしはその集まりに価値を見いだせない。アイドルが好きなんじゃないの? アイドルが好きな自分たちが好きなの? 思いながらスクロールしていくと、「早バレ」で雑誌に載ったらしいコメントが流れてきて、わたしはその雑誌のタイトルをメモし、昔書店員時代にたしかにその雑誌に触れたことがあったこと、まったく興味も持たずに二日か三日店頭に並べて、返品したことを思い出す。
     わたしはスマホを放り投げて、布団にくるまり、あの埃っぽい棚の前を思い出す。ひとくくりにされた髪、潤いをたもった唇、サンダルのつま先から覗く足の指、それらはデビュー後の、アイドルとしてのそのひとに、私が望んで摂取しているものに塗りつぶされて、もうほとんど面影がない。あの時どの雑誌を求められたかを慎重に思い出す。申し込み欄に書かれた筆記体の残像をしっかりつかむことで、わたしはようやく記憶をつなぎとめる。見なければいいのだ、全部。テレビも雑誌も新聞もツイッターもインスタも見なければいい、そうすればわたしはわたしとそのひとだけの思い出にいつまでもひたっていられる。誰も持っていない思い出にしがみついていられる。なのにやめられない。新しいそのひとの姿を、知らなかった一面を表す言葉を、どうしても求めてしまう。あるいは恋ならよかった、「リアコ」ちゃんたちのようにふるまえるならよかった。わたしにはそれはできない、なぜならそのひとはついこの間まで手の届く場所にいたのに、そこからふわりと飛んで離れてしまって、その痕跡だけをわたしは毎日見つめているから。
     やがてフェアの期間がやってきて、わたしは事務室で作った水族館までの地図を飾り、いくつかの小説と新書、それとちょっとゆるめの学術書を数冊、図書館の入り口の机に飾る。代わりに「文豪たちのおひるごはん」の本は書棚に戻っていく。ほとんど借り出されなかった本たち。わたしは水族館、水産、海という流体についての本を形よく揃えて、あえてそのひとのことは書かなかったポップを添えた。「秋の天気のいい日には、水族館に行こう!」、それだけ書いた白いハガキサイズの紙。もしそのひとがデビューしなければ、まだこの大学にいたなら、あのときと同じように目にとめて笑ってくれただろうか。わたしはそれを見てじわじわと喜び、日々の糧にしただろうか。
     カウンターに戻ってしばらくして、一件のレファレンスがあった。学生証を読み取ると、文学部の一年生だった。なのに照会内容は、海、について。わたしの背中をぞわっと悪いものが走る。
    「アイドルについてレポート書かなきゃいけなくて、ウィキ見たら論文書いてるアイドルいたから、その人の論文とか見たいんですよね」
     その子はいけしゃあしゃあと、この形容はよくない、なんのくったくもなく、そう言った。
    「Wikipediaの出典はごらんになりましたか」
     震えを抑えて、喉をつぶすように吐き出したわたしの声は、おとなげがない。
    「なんかさっき見たらウィキ消えちゃってて、出典ってあの数字のやつですよね、ないんですよ。で図書館だったらあるかなあって、だって前先生だったんでしょ? ここの」
     そうです。そうです。先生でした。そのひとは、ここの学校の先生で、とても熱心な方で、カウンターにも何度もきて、誰も借り出さない資料を持ち帰って、わたしはその成果を知らないけれどその成果はきっとアカデミックな世界で評価されてた、はずだ。わたしは考えているふりをしながら震えるまぶたを開けてようやく学生の顔を見る。まだ高校生みたいな眉毛の描き方をしてる、あかぬけない、服装だけアップデートされた18歳。
    「学術論文の多くは英語ですが、日本語のほうがいいですよね。大学には『紀要』という論文をまとめた雑誌のようなものがあります。それをおすすめします。あちらの検索機で調べて、何年の何号がほしいかわかったら、またカウンターに来てください」
     ひといきに言うと学生はわかりました、きようってどういう字ですか? 二十一世紀のきに必要のようですね、じゃあまたきます、と素直に検索台のほうへ行く。わたしは喉元まであがりかけた悲鳴をどうにかなだめる。それから本当は禁止されているスマホの電源ボタンを押して、待ち受けにしているそのひとのシルエットを見る。そのままポケットに滑らせて戻し、お手洗いに行ってきます、とカウンターから離れた。
     トイレの個室で、アリバイのために音姫を鳴らしながら思う。アイドルに、ほんとうになってしまった。あの子にとっては最初からアイドルなのだ。いいえ、ツイッターやインスタにいるひとたちにとってだって、混じりけなしにアイドルだ。じゃあわたしが追っていた影はなに? あの日声をかけてくれたひと、わたしが知っているのは貸出履歴と複写履歴と今はもういない研究室の部屋番号。わたしが知っているのは、わたしが追いかけていたのは。
     わたしはまだ震えが収まらない指でツイッターのいいね欄を開き、いくつかつけておいた学祭のチケット譲渡ツイートへのいいねを取り消す。それからツイッターからログアウトして、インスタのアプリを消した。全部はさわやかな水音とともに遂行され、最後にわたしは待ち受け画面を犬のキティの写真に戻す。
     さようなら。さようなら先生。わたしはライブには行きません。あなたのことを追うのもやめます。わたしはアイドルのファンになれなかった。これが恋だとしたら、わたしが恋をしていたのは図書館にいたあなたでした。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスへ感情があるモブシリーズ3/5
    大学職員の男 秋は忙しい。学祭があるからでもあるが、うちの大学では建前上は学生が運営しているので、せいぜいセキュリティに口を出す程度でいい。まず九月入学、卒業、編入の手続きがある。それから院試まわりの諸々、教科書販売のテントの手配、それに夏休みボケで学生証をなくしただとか履修登録を忘れただとかいう学生どもの対応、研究にかかりっきりで第一回の講義の準備ができてないから休講にしたいという教授の言い訳、ひたすらどうでもいいことの処理、エトセトラエトセトラ。おれはもちうるかぎりの愛校精神を発揮して手続きにあたるが、古いWindowsはかりかりと音を立てるばかりでちっとも前に進まない。すみませんねえ、今印刷出ますから。言いながらおれは笑顔を浮かべるのにいいかげん飽きている。おまえら、もうガッコ来なくていいよ。そんなにつらいなら。いやなら。おれはそう思いながら学割証明書を発行するためのパスワードを忘れたという学生に、いまだペーパーベースのパスワード再発行申請書を差し出す。本人確認は学生証でするが、受験の時に撮ったらしい詰襟黒髪の証明写真と、目の前でぐちぐち言いながらきたねえ字で名前を書いているピンク頭が同一人物かどうかはおれにはわからん。
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