雨と煙アスファルトを焼く晴天の元「雨宿りをしよう」なんて男が言うから、きっと数分と経たず天気が崩れるのであろうと若いエメラルドは漠然と理解した。
雨が降るとそう言ってくれればいいのに、大木のような男はなかなかそう言ってはくれない。
それが彼なりのユーモアなのだと気付いたのはつい最近の話だ。
雨は確かに降り、今も尚止む気配はなかった。プールをひっくり返したようなスコール。それに悲鳴を上げる、今はもう閉まった靴屋の屋根の軒先で二人は並ぶ。
「相変わらずの精度ですね」
「絶好調だ」
短い会話の応酬には慣れていた。この男の厚い唇は基本、必要最低限以外の言葉を紡がないのが通説だ。通りでは突然の大雨に降られ焦る人々が道を急いでいた。この雨はいつ止むのだろう。天候予測レーダー顔負けの彼が雨宿りを選んだのだからそう長引きはしない筈だが、それにしたって往来の人びとは気の毒だ───。相手が談笑を望まぬなら話す必要もないだろうと、ウィリアムはそんな取り止めのないぼんやりとした思考に耽る。きっと数分もせずに雨脚は弱まり、呆れてしまうくらいには明るい太陽が顔を出す筈なのだから。刹那。
「辛いと思うなら辞めてしまえばいい」
それは唐突だった。唐突過ぎて、ウィリアムは言葉を失った。アスファルトを叩いている筈の雨音が厭に遠く聴こえる反面、男のゆったりとしたバリトンは厭に明瞭に響き鼓膜から離れなかった。燦爛とした星を砕いた赤がただ男を見つめている。慈愛すら感じる迷いない視線だった。声はまだ止まない。
「逃げようが人生は続く。息を抜ける生き方なんて幾らでもある。お前は今」
とても辛そうだ。男はそれだけ言って目を伏せ、前を向く。残酷な程に穏やかな声音だった。
「何故そんなことを言うんですか」
「チームメイトが苦しんでるのは本意ではない」
「あなただって」
「君の方が見てられない」
瞳は交錯せず、声音から読み取れるものもなく、普段と変わらぬ穏当を保ったままの男は狂気的なほどに閑かだった。依然、雨は止まない。そう、まだ。
※以下サイレン清掃会社現行•未通過厳禁
同時刻、日本。
「雨は嫌ですわ。わたくし、仕事用の靴も気に入っていますのに」
「私も視界が悪くなるから苦手だな」
「あら。今回も今回とて華麗なヘッドショットでしてよ?胸を張りなさいな」
整い過ぎた相貌の、大きな瞳が加賀美を見やる。目、鼻、口のバランスの話なのかパーツの造形自体の話なのか。彼女が彼女の手で形作ったらしいその容姿は、雨に降られても寸分の狂いもない。
降りしきる雨とライフルから上がる硝煙を横目に、普段のかしましさをしまい込んだ女は二人横並びで眼下の街を見下ろしていた。
「ありがとう。処理が済んだら何か食べて帰るか。ちょうど昼頃だし。アーケード通りなら雨にも降られない」
「賛成ですわ、わたくし今紅茶の気分ですの」
それだけ言うと小柄な影は自慢の掃除道具を細腕に携え、軽い足取りで歩き出す。歩き出して、ぴたりと立ち止まる。
「ねぇ、加賀美」
「どうした?」
「愛してるから、違わないでね」
──俗説によると、人間の声が一番美しく響くのは雨天時らしい。具体的に言うのなら雨天時の傘の中、至近距離で、らしいが。それでもその声は美しかった。美しくて、せつなかった。
このやりとりは初めてではなかった。時折思い出したかのように、確認するかのように、女は女に不定期に問うのだ。
なるべく柔らかくああ、と返す。それ以外の返答を選んだことはまだなかった。否、選べなかった。下手な刺激はきっと彼女を刺し殺すと知っていたからだ。彼女に開いた風穴が見えた気がした。否、ずっとずっと、見えていた。
依然、雨は止まない。