夕刻、義輝は居室にて刀を眺めていた。義龍からの進上物である。義輝は剣技を究め刃を振るう行為だけでなく、刀そのものへも心酔していた。反り、刃紋、地鉄、鋒、そして拵。一振り一振り異なる顔をした彼らと向き合えば、矢のごとく時が過ぎてゆく。すぐれた審美眼を有しておらずとも、美しきものへ美しいと感じる心は万人に具わっていよう…と目を細めて微笑む義輝の貌を、光を浴びて煌めく刀身が映している。
斎藤義龍が治める美濃国には日ノ本有数といわれる鍛冶師の里があり、そこで作られた刀は実用性と美を兼ね具えた逸品であると名高い。こたびの進上物も噂に違わぬ名刀であったらしく、義輝は四半刻ほどこうして遠方からの新入りと言葉なき言葉を交わしていた。
「上様、いささかお耳に入れたき儀が」
ふたりの対話へ水をさすように、襖を隔てて声がかかる。聞き慣れた声であった。
「入れ」
刀を鞘へ納め左脇に置きながら雑に返す。わずかに音を立てて開かれる襖から姿を現したのは、伊勢貞孝である。彼は各地の大名家と交渉を行なう申次としてだけでなく、幕府の財政管理や洛中の訴訟の一部を担う政所頭人としても義輝を補佐していた。うながされ対面に座した彼は、六寸四方の小さな箱を小脇に抱えている。
「こたびの斎藤義龍よりの進上物でございますが…」
黒漆に蒔絵をほどこしたそれが二人を挟んで板張りの座敷へ置かれる。義龍からは刀と馬、そしてこの箱が献上されていた。義輝は金銭の類いでも入っているものかと思い彼に管理を一任したが、どうも事実は異なるらしい。貞孝が伸ばしたままの手でゆっくりと蓋を開き、反応を求める。
「これは…」
中を覗きこむ義輝の顔が黄金色の光に照らされる。
「霊石、か」
童の拳ほどの大きさをした石が三つほど。箱の中から輝きを放つそれはただの石ではなく、霊石であった。
「いかにも」
「ふむ…」
貞孝が首肯するのを聞きながら、義輝は腿で頬杖をつき数刻前の出来事に思いを馳せる。
「…よもや奴も、そういうことではあるまいな」
「ご名答にございます」
重々と飛び出した義輝の言葉を待ちかねていたかのように貞孝は返す。口の両端を釣り上げ笑う貌が不気味な影を落としている。
「斎藤義龍…あの男は霊石により得た力で、実父・道三を攻め滅ぼし、美濃の国人たちを支配しておりまする。その実力いかほどか、上様も味わわれたとおり」
仕合時の並外れた腕力、輝く短刀と深紅の眼、頭から伸びた角、そして……。あやかしの血を引いているという理由だけではない気がしていた。反応なく思考をめぐらせる義輝に貞孝は続ける。
「自身だけではありませぬ。一万におよぶ直属の兵、その大半が霊石により力を得ておるとのこと。人ならざる者…すなわちあやかしで編成された隊も有しておると聞き及んでおります。彼らに怖れをなしてか、美濃へ戦を仕掛ける者は誰の一人もおりませぬ」
かつて幕府を苦しめた三好軍は、人を霊石によって強化し高い戦闘力を得ていた。しかしもとより並の人以上の戦闘力を有する妖鬼や猿鬼などのあやかしを軍に組み込み、あまつさえ霊石を用いているとなれば、少数でかなりの戦果が期待できよう。恐怖で戦場を支配し戦わずして勝つことも能わぬではない。
貞孝は注意を引くような大きな咳払いを挟みつつ動かす口を止めない。
「武家の秩序が崩壊して久しくあります。力さえあれば身分賤しき者が上に立ち、なければいかな名家とて無惨に消えゆく世。その頂点にて強大な者たちを束ねてゆくには、より強大な力が求められましょう。何人も逆らうことなぞ出来ぬ圧倒的な力…それが必要なのです」
「何が言いたい」
義輝の問いにまたも貞孝はニタリと笑む。続けてずいと膝を寄せると、小箱を掴み義輝の顔前へやる。
「上様もこれを用い、手に入れるのです。他者を圧倒し支配する、絶対的な力を」
小箱と鼻がいまにも触れそうな距離で、霊石が義輝の貌を、義輝の眼が霊石の輝きを、ともに映している。おとずれた少しばかりの静寂が、義輝の生唾を飲む音を貞孝の耳へも届けていそうだった。
「今は鳴りをひそめておりますが、諸国で争う大名小名らもいずれ霊石の秘められし力に気付き、戦に用いることでしょう。それより先に手を打つのです。たとえば、すでに我らへ恭順の意を示している織田や長尾の兵を霊石によって強化させ、尾張や越後そして周辺の国々をも奪わせ治めさせる。他国より新たに忠誠を誓いし者が名乗り出れば、同様に霊石の有用性を説きこれを与え敵対者を蹂躙する。京の警備には彼らの兵を幾らか上洛させ留め置けばよろしいでしょう。強化された者たちならば千や二千で充分かと。定期的に霊石を進上させ、適度に戦力を削いでおくことも重要でございますな。幕府に従う者へは力を与え、従わぬ者は力によって滅ぼす。刃向かう者がおらねば、幕府が滅ぶことなぞありませぬ」
首を伸ばし、義輝の耳元で自身の企みを熱く語る貞孝。彼が斯様な野心を抱いていたとは意外であった…といえば嘘になるが、今は特に様子がおかしい。
「手始めに斎藤の兵を動かし、三好を潰してしまわれては如何でしょうか。過去幾度も上様から京を奪い己がままに支配しておった身。いつまでも大人しく従ごうておるかわかりませぬぞ」
「三好を…裏切られる前に裏切れ、と」
「三好には霊石の使用を控えさせておるようですが、幕府が使わぬとは申しておらぬはず。畿内の覇者を僭称し尊大に振る舞う奴ばらへ将軍の威光をしらしめてやれば、日ノ本中の武士、百姓、商人…名もなき民たちをもが上様に平伏すことでしょう」
義輝は霊石へ向け続けていた視線をちらりと耳元の貌へ移す。狂気を帯びた眼が紅く見えるのは、夜がために姿を隠さんとする陽の光を受けてか、あるいは……。
「霊石の力さえあれば、かの大剣豪・塚原卜伝を打ち負かすことも疑いありませぬ」
その一言で、義輝の中の何かが切れた音がした。
「…室町六代将軍、足利義教公を知っておろう」
「は?」
想定外の言葉に貞孝の口が止まる。
「幕府政所頭人として代々将軍家へ仕える伊勢家。その当主ならば、あのお方の最期を知らぬとは言わせぬ」
差し出された小箱をぐいと押し返すと、同時に耳元の顔が正面へと戻る。返す言葉を探したままの貞孝へ義輝は続ける。
「三十半ばにして将軍となられた義教公。彼は管領らによって失われた将軍の威信回復につとめ、幕府紀綱の改革を行ない、濁乱した公家衆の風紀を取り締まり、幕府の支配及ばざる関東や九州の統治をおしすすめられた。数多の功績によって念願の専制将軍としての地位を確立なされたが…長くは続かず、その専横ぶりが周囲からの反発を招き、播磨国守護・赤松家の起こした謀叛により斃れられた…と、公には言われておる」
顰め面に付随する口からは何も発されないままである。俯き加減に語る義輝の話を黙ってきいているともとれるが、不快の色が隠しきれていない。
「法衣をまとう身であったそのお方は、次期将軍を決める籤によって俗界に還られた。しかし突如として将軍宣下を受けた者に将軍としての学や礼法、そして力が具わっておるはずもない。義教公はそれを、霊石に求められた。武をもって土一揆を鎮圧し、同じ足利の一族が治めし鎌倉府を攻め滅ぼし、大内家を操ることによって九州の統治権を確立し、反乱を起こした比叡山延暦寺の衆徒たちを激昂させたのち自滅させ、将軍としての圧倒的な力を知らしめられたのである。
しかし時を経るにつれ力は暴走し、罪なき者へまで手をかけられるに至った。大和平定に貢献した将たちは騙し討ちの形で滅ぼされ、公卿や僧そして女房衆までもが気まぐれに罰されていった。恐怖によって武士を支配し、圧政によって民の叫びを殺す…苛烈を極めたその行ないを糺すべく、赤松家は逆賊の名もかえりみず立ち上がったのであると…将軍家には、そう伝えられておる」
そこで間を置くように一旦口が止まる。小さく頭が縦に揺れ、上がった顔から射るような眼差しとともに言葉の刃が放たれてゆく。
「霊石によって得られるは、人道を逸した強大な力と…己が身の破滅。そうであろう、貞孝…いや」
左手で脇に置いていた刀を鞘ごと掴み、前方めがけて突きを放つ。
「…貞孝の紛い物よ」
「ぅぐッ!」
柄で顎を打たれた対面の男が、低い悲鳴を洩らして吹き飛ぶ。白目を剝き仰向けに倒れる無様な姿が、いかにも武芸を修めぬ文官らしい。
「去ね。余はそれほどまでに落ちぶれてはおらぬ」
刀を持ったまま立ち上がり、男を見下げる。
義教暗殺後幕府は騒然となり、二ヶ月もの間赤松家討伐の兵を出すことができず逆賊をのさばらせ、取り戻された権威もふたたび失墜した。もし共謀する家がありそれらの軍勢によって御所を攻め立てていれば、室町幕府はそこで潰えていたかもしれない。
力を得た先に待つものは自制のきかぬ暴走と滅び。たとえ外部からの攻撃によって滅びずとも、内部から自壊しやがて滅びる…義輝がこれまで霊石に一切手を出さなかったのも、三好家に霊石の使用を止めさせたのも、そのような理由からである。対立する立場にあるならば座して相手の滅びを待っていればよいが、幕府の手足となりともに歩んでゆくのならばそのような形での滅びは許されない。
「…む!」
義輝が刀の柄に手をかけ膝を落とす。倒れた身体から煙のようなものが上がり、それへ包まれるように何かが立っているように見えた。
「やけに霊石霊石騒ぎおると思えば、ぬしの仕業であったか」
煙の中に立っていたのは、錫杖を持ち編笠を被り深紅の重瞳を有した、僧形の男である。過去幾度も義輝の前に現れては霊石を与え、斬撃の類いを一切受けつけず姿を消す、存在自体が煙のような奴であった。じりじりと距離を詰める義輝にかまわず、男はおもむろに口を開く。
「…人が創りし歴史の裏へは常に霊石が在る。藤原、平、源…栄えしはすべて、その力に因る。人ごときの力だけで世を創ることなぞ出来ぬ」
「ふむ、あやかしに人の世を説かれるとはまこと奇々怪々」
警戒の姿勢を解かぬまま義輝は返す。いつかの頃に味わった不快感は相変わらずだが、こうして真っすぐ相対し、余裕をもった返答をできているあたり昔とは違うと感じた。義輝は言葉を続ける。
「霊石によって栄えた者は皆、霊石によって滅んでおる。ある者は奇病を発し、ある者は気が狂れ、ある者は同様に霊石を用いた者の裏切りに遭い…と、凄惨な最期を迎えてな。そして滅びによって新たな争いが生まれ、争いを制すため力を求めし者が霊石によって栄え、やがて滅び、また争う。…斯様なことを繰り返してきた人の歴史は、たしかに霊石が創っておると言うてよいやもしれぬ」
「すなわちこの乱世にて、足利も滅ぶこと必定」
しゃらりと錫杖を鳴らす男に対し鯉口を切る。
「それは誤りである。たしかに前代の将軍たちには霊石を用いた者もおる。それにより幕府滅亡の危機に瀕したこともある。しかし余は、今の幕府は、いかなる窮地に陥ろうともそうはしない。人の世を治むるは人であらねばならぬからな。人ならざる力を求め、人の道を外れし者が人の上に立つ資格なぞない。人が御せぬほどの力を、人が得るべきではない。人が創りし世に霊石は不要である。余は人の力を以て人の世を、足利の世を守り続ける。人として、人がため幕府がため戦い続ける。それが征夷大将軍たる者の役目と心得る」
抜き放たれた白刃がぎらりと煌めきを放ち、鋒が男の赤目に狙いを定める。
「加えて言おう。力とは、自身が苦難の道を歩み続けた果てに手に入れられるもの。床の上で石ころへ願い得た力など無価値である。斯様なものを頼り我が師に勝つようなことがあってみよ、ありがたい説教と手厳しい指導を受けることとなろうな」
言い放つ義輝の貌には薄っすらと笑みが浮かんでいる。幕府の滅亡や自身の破滅以上に、師・塚原卜伝からの叱責を怖れているような口ぶりであった。彼に学んだ辛く厳しく苦しい修行の日々、苦闘の末に得られた剣技の数々と何物にも代え難い喜び。それらをたった一つの石ごときで否定させはしない。清眼に構えた刃が今にも斬りかからんと殺気を放っている。
「人の世を解した気で居っても、人の道についてはちと難しいやもしれぬな、ぬしのようなあやかしには。まあよい、それほど世を争いで満たし足利の世を滅ぼしたければ余の身体を貸してやろうか? 貞孝以上の操り甲斐を保証してやる」
貞孝のように自身を乗っ取り傀儡とすれば、幕府を容易に混乱させられよう。幕臣たちは狂った己れを立て続けるか、あるいは己れを廃し新たに将軍を立てるかで争い、ともすればふたたび京が戦火に包まれる。後ろ盾を求めて諸大名たちへ飛び火もしよう。それに乗じて幕府を打倒する者が現れぬとも限らぬ……
「無論、余に勝てればの話だが」
…そうなるつもりは、毛頭ないが。
僧形の男は、眉一つ動かさず義輝の話をきいていた。何も響かぬといったふうに、右耳から左耳へ言葉が通り抜けてゆく態度にも見えた。男はふたたび錫杖を鳴らす。
「愚かよ。高言のみで乱世は終わらぬ。我欲に溺れた人どもが力を求める限り…」
「上様、いかがなさいました」
突如、聞き慣れた喚き声が廊下より響いてきた。バタバタと複数の足音がついてまわる。
「藤孝か。大事ない」
「入りまするぞ!」
納刀しながら返す義輝は是非を問われず、勢いよく襖が開かれ藤孝が姿を現した。騒ぎを耳にして駆けつけてきたらしい。供をした小姓の一人が、張りつめた場の空気を浴びてヒエッと小さく悲鳴を上げている。
「貞孝が酔って暴れおったゆえ、少し脅かしてやっただけのこと」
「は、左様でしたか…」
義輝が彼らへ障りのない返事をしたのち、ふたたび僧形の男のほうへ目を向けると、そこにもう姿はなく、ただ気絶した貞孝がのびているだけであった。逃げおったか、と義輝はわずかに唇を噛んだ。
座敷に倒れる小箱、そこから転がり出たであろう石の存在に気付くと、藤孝は何かを察したように視線を義輝のほうへやる。仰向けに倒れている男へ顎を振る義輝へ、無言で頷く。
「貞孝殿をお連れせよ」
言いながら貞孝を持ち上げ、小姓二人に指示を出しながらその両腕を担がせる。痩せぎすの身体を引き摺り部屋を出て、向かう先は応接間か、そこらの空き部屋か。あるいは庭や廊下にでもうち捨てるだろうか。
小姓たちの姿が見えなくなると、藤孝は息を一つ吐いて、散乱する石を拾い箱の中へしまう。
「やはり彼には暇を与えてやるべきかと」
「後継が育たばいずれな」
義輝は差し出された小箱を右手で受け取り、左手に持っている刀とともに床の間の手前へ置いた。
貞孝は幕府の重鎮でありながら、義輝たちが近江国へ移座した際はそれに随わず三好家へ降り京へ残り続けた。しかし義輝たちが帰洛を果たすと帰参し、ふたたび幕臣として仕えた。幕府には彼を裏切り者と誹る者も居るが義輝は貞孝の能力を高く評価していたし、帰参を赦すことで将軍の器量を知らしめねばならなかったし、彼に代わる存在も居なかった。
ともあれ今回の騒動は彼の仕業ではなく、彼の皮を被った他者の仕業。貞孝が目を覚ましたのちに罪を問い折檻する気などは義輝に無い。
「…ままならぬものだな」
ぽつりと語りかけるようにこぼす。床の間の奥には、大小二振りの刀が刀架に掛けられている。二つ銘則宗と骨喰藤四郎…ともに足利将軍家に伝わる宝剣で、義輝がかつての相棒・大般若長光を手放して以来差料としている。
「藤孝、少し付き合え」
振り向き、壁に掛けられた木刀をとり庭へ出る。藤孝も同様に木刀へ手を伸ばしあとに続くが、刀身に刻まれた幾筋もの傷を気にしている。
「こたび美濃から上洛してきた男、なかなかであった」
「詳しくお聞かせ願えますかな」
訊ねつつ構える彼は、別の業務に追われており今回の対面には関わっていない。そのため何があったかを一切知らなかった。
「ああ」
義輝は木刀を振りながら訥々と語り始めた。
「まず図体が大きゅうてな……」
斎藤義龍…おそらく奴は、霊石の力を完全には御せていない。もしくは、すでに滅びが近いか。頭を押さえ苦しむさまがその証左ではなかろうか。もう長くはもたぬであろうと、義輝は踏んでいた。敵にまわれば脅威だが、幕府へ刃を向ける意志がないのならばもうしばらくのあいだ飼っておき、来るべき時に至れば……。
しかしひとりの男として、剣を振るう者として、また何処かで仕合うことができたらば…と、武人としての心がわずかに願っていた。
西から差す光を浴びて赤く染まる二人は、星が夜を告げるまでその空のもと言葉と刃を多く交わした。
斎藤義龍は義輝により正五位下にあたる治部大輔に任ぜられ、また、大小二振りの刀が下賜されたという。
そして伊勢貞孝は、騒動から数日ののちに姿をくらまし、二度と義輝のもとへ現れることはなかった。
【続】