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手合わせを終え濡れ縁に腰掛ける二人は薄明の空を見上げていた。
「藤孝」
「はい」
水が入った竹筒をしゃかしゃかと振って遊ぶ藤孝へ、義輝は改まったように訊ねる。
「戦無き世など、まことに来るのであろうか」
「なにを。上様がお作りになるのでしょう?」
「…うむ。失われた幕府の権威を取り戻し、それを以て世を泰平へと導く。それが余の、将軍としての望みよ…」
即答する藤孝へ、頷きながら言葉をさがす。
「ぬしは詩詠みや茶が好きであろう」
「ええ。嗜む程度ですが」
「戦が無うなれば今以上に自由に時を使えよう。ぬしは詩や茶をさらに究められるし、民たちも好きなことに打ち込めよう」
「よろこばしいことですな」
「そうであろう…」
俯き、膝上に置いた木刀を撫でる義輝の横顔はほんのりと哀愁を帯びている。彼の言わんとすることが藤孝には推知できた。何か言いたげに目を泳がせる義輝に代わり、藤孝が口を開く。
「…剣は、対手を斬り、生命を奪うためだけにはありませぬ。我らが師・卜伝殿も仰っていたはず。剣とは人の和を作り出すもの…と」
「ああ、わかっておる。しかし…」
「ではこういたしましょうか」
いまいち歯切れの悪い義輝へ、短く持った木刀の鋒を向ける。
「上様が望みを叶えられたあかつきには、拙者が義輝様の望みを叶えてさしあげましょう」
「…叛逆の徒か」
「忠義の形は千差万別にて」
とんでもない臣をもったものだと義輝は改めて感じた。だからこそこうして進んでゆけるのだろう。そんな藤孝をもう少し試すかのように、向けられた木刀をぐいと掴み自身の頸に引き寄せる。
「では逆は」
「お答えするまでも」
手をそのままに、口だけで返す。その言葉に安堵したのか、義輝はふっと笑顔を向ける。それはいつもの、覇気をたたえた堂々たる貌であった。視線が宙で衝突し、まざりあう。藤孝もそれに応えるように笑んでいた。
「夜にはまだ早い。もう一戦といこう」
「よろこんで」
庭へ降り立った二人が語らうに、これ以上の言葉は必要なかった。
* * *
永禄八年(1565年)。
七年前から新たに造営された武衛御所。建造物群を築地塀に加え石垣と堀で囲み、二町(約220メートル)四方の敷地を誇るその姿は城の様相を呈していた。完成を知らぬのかたびたび拡張工事が行なわれ、現在は門扉の改修がすすめられている。
華々しく雄壮な御所の姿を反映するように、将軍および幕府の権威は着々と取り戻されていった。戦乱の絶えぬ世、自身の正当性や戦への大義名分を求めて将軍へ媚びる者は少なくなかったためである。また、振り上げた拳を下げるにあたって面目を保つために将軍の仲裁を求める声も多々あり、義輝は東国から西国まであらゆる大名間の和平調停に尽力した。争いが停止し領地が安定がすれば大名たちから幕府への援助をのぞめるし、泰平の世への夢も現実味を帯びてくる。調停の礼銭進上によって幕府の財源が潤う点も見過ごせない。さらに偏諱や官位、守護職や探題職などを以前にもまして積極的に与え、彼らの家格を上げ幕府への忠勤を求めた。
義輝の帰洛直後、我先にと上洛してきた織田信長。尾張国の小名にすぎなかった彼は自国に侵攻した駿河国の今川義元を桶狭間にて討ち取り、天下に名乗りを上げた。越後国の長尾景虎改め上杉輝虎は、相も変わらず信濃へ常陸へ上野へと出兵続きのようである。美濃国の斎藤義龍は、驚くほど動きがない。しかし訃報の類いも当主交代の報せも届かないあたり健在ではあるのだろう。いまだ滅ばずにいることも、領土拡大を図らず自国に籠もりきりであることも義輝にとっては意外であった。
そして畿内の三好家はというと、長慶が大病を患い、義継が当主の座を継いでいた。長慶を支えていた三人の弟たちも代替わりし、松永久秀も家督を子に譲っている。血気盛んな次世代の若者たちを束ねてゆく立場にある新当主・義継は、長慶の弟の子で、本来ならばそちらの家を継ぎ三好本家を補佐する立場である。しかし長慶の子・孫次郎義興が急死したことにより急遽三好本家を継ぐこととなった。
ぬくぬくと育てられた大大名の分家の後嗣が、ある日突然本家の後嗣として十余の国と幾万もの兵を背負わされる。父や伯父たちは頼れる状態になく、気を許せる側近もまだ居ない。義輝は幼少期より将軍の子として、将軍職を継ぐ者としての教育を受けその覚悟を抱き育ったし、頼れる側近たちも居た。しかし彼はそうではない。三好義継という十五の若武者にかかる重圧は、察するに余りある。そうすると浮かんでくるのが、一つの懸念だった。
やがてそれは、形となって義輝に牙を剝いた。
五月十九日、払暁。
陽の出より早く、義輝は御所の庭で木刀を振っていた。毎朝の日課である。
その日はやけに御所が騒がしかった。騒々しいのはいつものことであるが、そうなるのが普段より早いのである。
少しして陽が顔を出しはじめた頃、一人の幕臣がこちらに駆けてきた。病を疑いたくなるほどに顔色が悪い。
「上様、い、一大事にござります!」
「何事ぞ」
「三好の兵が、御所へ攻めるべく向かっておるとのこと!」
「…なんだと」
義輝は驚きのあまり木刀を放り投げそうになった。話をききつつ小御所へ向かう。
「義継…清水参詣がため上洛しておるとはきいておったが、よもやこのためであったとはな」
京中に兵を潜ませ参集、そして挙兵したのだろうか。人が増え賑わいを取り戻しつつあるこの街なら出来ぬことはない。あやかしさえ怖れなければ山に潜伏することも出来よう。
「して、兵の数は」
「はっ、それが…報告によると…一万は下らぬ、と」
「一万、か」
「一万にございます」
想像を絶する数に義輝は驚きを通り越し冷静になった。現在御所に出仕している者で、女房衆などを除いた戦える者は八百か九百ほどだろう。しかも半数以上が、武芸を不得手とする文官である。それを十倍以上の兵で蹂躙しようというのか。または、十倍以上の兵でなければ勝てぬと見込んだのか。そう考えるとどこかおかしく感じた。段々と周囲の喧騒が大きくなっている気がする。もしやもう御所は囲まれておるのか。なお、義輝がもっとも剣の腕を頼りにしている細川藤孝は非番で居ない。
「さらに…多くの兵が人であって人でないような…目を赤く光らせ、異常なほど発達した腕を有した者である、との報告が上がっております」
「霊石か…」
一万の兵に霊石。幕府の戦力はかなり高く評価されておるようだと、義輝は笑いすら込み上げてくる。城のごとく守りを固めた御所もそれに一役買っておるやもしれぬ。幕府の矛となり盾となると誓った三好家。その家の、突然の裏切り。何がそこまで三好軍を、義継を動かしたのか。よほど義輝が憎いのか。自身が将軍に取って代わるつもりか。新当主の力を誇示し臣たちを力によって従わせたいのか。あるいは、義継はただの傀儡にすぎぬか。霊石ならば…暴走、という可能性もある。しかし答えを義輝が知るすべはない。ただ一つ確かなことは……
「上様、ここは上様だけでもお逃げくださいませ」
小御所の広間に着くと、幕臣たちが刀槍をたずさえて集っている。そのほとんどが奉行衆などの文官であるあたり、奉公衆や走衆などの武官たちは既に防戦へまわっているのだろう。
「いや、できぬ」
義輝は頬の痩せこけた幕臣からの言葉に首を横に振る。一万におよぶ兵、それを掻いくぐり誰一人の護衛もおらぬなか追手から逃げおおせるなど不能。仮に果たせたとしても、潜伏先を同様に襲撃されてしまえば終いである。
「むしろぬしらが逃げよ。御所へ攻め入る目的なぞ、余の首以外にあるまい」
長慶の代の三好家は将軍を害す気などなかったというし、御所を攻撃するようなこともなかった。京から遁れても追討の兵などは一切出されなかったし、和睦し帰洛することを求められた。しかし現在は義継の代である。これだけの大軍で包囲しておいて、害意がないわけなどない。逃げれば地の果てまで追ってきそうな勢いである。いよいよ塀の向こうから鬨の声や発砲音のようなものまできこえはじめた。
……確かなことは、義輝の生命はここで終わりを迎えるということである。
「そ、それは承服いたしかねまする。幕府へ仕えし我が身、幕府を離れ、行く場所などありませぬ」
返す声と手足が震えている。机に向かい書類をまとめる日々を送っていた者が、いきなり武器を持たされ戦場に駆り出されるのだから、仕方のないことだろう。
「他の者は」
「おおよそ、同じ意見でござります」
怯えの色が抜けきっていない者も多いが、皆、戦う腹づもりらしい。殊勝な心がけである。もっとも、命が惜しい者は今頃蔵の隅ででも震えているからやもしれぬが。
「ならば…時間を稼げ。余もすぐに行く。…これまでの働き、まことに大儀であった」
「我らには勿体なきお言葉。これより上様がため幕府がため、最期の務めを果たしてまいりまする」
その言葉に幕臣たちが揃って涙を流しながら平伏する。決意を固めるために、義輝から直接命を下されることを望んでいたのだろうか。やがて立ち上がると四方の戦場へ散らばっていった。
義輝は広間に残る二人の小姓へ指示を与える。そのうち一人を連れて小御所を出る。
長い渡廊を進んだ先にある塗籠の離れ屋。重い扉を開き、外から差し込む光が照らすのは数多の刀と漆塗りの唐櫃。義輝は唐櫃を、小姓は刀を数振り担いで渡廊を戻る。こうしている間にも兵の叫ぶ声や武器甲冑の衝突する音が耳をつんざいてやまない。だいぶ近くまで来ているらしい。外門が突破されたのではなかろうか。
小御所の広間まで唐櫃を運び込み、畳の座敷にそっと置く。同様に小姓が刀を運び終えたところへ、もう一人の小姓が小具足を持って現れる。それを置くと、今度は二人で離れ屋へ向かってゆく。
義輝はぐっと唾を飲み、頷いたのちに唐櫃の蓋を開く。きらびやかな大鎧が顔を出した。かつて足利尊氏が着用し朝敵討伐へ出征したというこの大鎧は、足利将軍家の象徴として代々受け継がれてきた。時代が下るにつれ神聖なものとしての意識が強まり、人目を避けて保管されるようになっていた。義輝がこれを目にするのも、将軍職を継いだ直後以来の二度目である。色鮮やかな複数の色糸で威された大袖、上品な赤糸の威がまばゆい草摺。およそ二百五十年前から変わらぬであろう煌めきは、刀のそれとはまた違った魅力をたたえている。
「足利の運命、此処に窮まる…か」
誰に投げかけるでもなく呟き、小具足を身にまとう。続いて大鎧で己が身を包んでいる際に、とある男の言葉が頭をよぎった。
「この乱世にて、足利も滅ぶ」
霊石によって力を与え、絶えぬ争いを生み出し、世を混沌に陥れんと企む男。深紅の重瞳を輝かせた、人とよく似た姿をした気味の悪いあやかし。
この戦ともよべぬ出来事で、義輝の生命の終わりで、幕府はまことに滅ぶのか。足利の世は、終わりを迎えるのか。減りつつあった争いがまた増えてゆくのか。仲裁を行なう者が居なければ、一方が滅ぶまで争い続けるだろうか。
霊石を用いたものは義輝の知るかぎり確実に滅んでいるが、滅んだ者が霊石を用いていたとは必ずしも言えない。あるいは己れが、霊石によって隆盛を得た祖たちの代償を負わねばならぬのか。ならばいっそのこと、力を得て無理にでも日ノ本の武士たちを支配してしまえばよかったのではなかろうか。
「いや、それは違うな」
暴力と恐怖で支配された世は泰平などとよべない。祖と同じ誤った道を選び滅んではならない。しかし己れが正しいと信じ選んだ道が結果的に誤りであったならば、それはもう致し方のないことであろう。あるいは、正しい道など端からないのだろうか。
なんにせよ、ここで幕府が滅ぶとは限らない。いや、滅ばない。滅ぼさせない。そう思う者が生きて居るならば。
「…あとは、頼んだ」
義輝の手によって幕府権威の完全な回復と戦なき世を得ることは叶わなかった。しかしその貌には、惜しみも哀しみも恨みも一切ない。
「世が許すのならば、そうさせてもらおう」
あるのは二つの眼に熱き炎を宿したむき出しの闘志だけである。
大鎧で身を固め終えるを見計らったように、小姓たちが刀を抱え戻ってくる。気付かぬうちに何往復かしていたようだが、どうやらこれで全部らしい。それを受け取り床に積み上げると、一振りづつ彼らに与え女房衆のほうへ走らせた。
広間に一人、義輝は立つ。刀の山を前に、外の喧騒が遥か遠くでの出来事かのように感じる。静けさに包まれるように、山から一振りの刀…義輝の愛刀である二つ銘則宗を手に取る。ゆっくりと柄を引けば、黒漆に金銀の蒔絵をほどこした豪奢な鞘から白刃が姿を現す。
「美しい…」
鞘を置き、棟を指でやさしくなぞれば、庭からの光を受け刀身が煌めきを放つ。板目の地鉄に直刃が伸び、鎬筋に掻かれた樋が無二の存在感を醸し出している。やはり刀…これに勝る美しきものは無い。何よりも高潔で、清らかで、儚く、淋しく……。義輝は暫し見惚れていた。その魅力を噛み締めるように、そしてどこか赦しを乞うかのように瞑目する。時間にすればごくわずかなものであったろうが、彼らの間には声なき言葉が数多く交わされたように見えた。細く長く息を吸い、地から見て垂直に立てた刃を顔前に向ける。そして息を飲み込みながら重い瞼を開き、二つ銘則宗をざくりと畳へ突き刺した。
ふたたび刀の山へ目をやり、次の一振りを手に取る。同じように鞘から抜き、たっぷりと言葉を交わしたのち、畳へ喰らいつかせる。三日月宗近、鬼丸國綱、童子切安綱、骨喰藤四郎、薬研藤四郎、不動国行……一振り、また一振りと、その場にある全ての刀へと同様の儀式が行なわれた。青少年期をともに過ごした大般若長光がこの場に居ないことがやや心残りであるが、これ以上のことは求めるべくもない。
「…幕府復権を果たし、戦なき世を創る。霊石に囚われぬ人の世を守る。それが余の、将軍としての望みであった」
広間の一角にできた剣山が、地獄にあるという鋒刃増を想起させる。
「しかし余の…余としての望みは、違う」
相対する男の面差しは、待ち受ける苦行に絶望する咎人のそれではなく、まるで極楽にでも辿り着いたかのような、希望と悦びと安らぎに満ちたものであった。圧巻の光景に堪えきれず視界が滲む。雫が頬を伝い、烏帽子の掛緒を湿らせている。今にも声をあげ笑い出しそうな心地であった。
義輝はかつて将軍家の血筋に生を受けたことを恨めしく思っていた。力を失い衰亡してゆく幕府を背負い、精強な諸大名たちと渡り合い、武家の棟梁として生きてゆくことを運命づけられたこの身が嫌で仕方がなかった。幾度となく逃げ出したい思いにかられた。朽木谷の森に入りながら、このまま行方をくらましてやろうかとも考えた。何処かの土豪や百姓の二男三男にでも生まれ、家を飛び出し剣を究め、己の技のみを頼りに廻国し、有名無名問わず腕の立つ者と仕合い、ただの武人として、剣豪として、生きてゆきたかった。
しかしその想いも今はもうない。
将軍家に代々伝わる宝刀、諸国の大名たちから献上された名刀、己が新たに買い寄せたり拵えさせたりした逸品。幾十もの刀を全て己がものとし、それらと心中する。尊貴の身分たる者の特権であろう。鄙びた地より出でて宵越しの金すら持たぬ根無し草には到底真似などできない。
剣を愛した将軍は、剣豪としての道を生きられず、将軍としての道を生きた。
ゆえにせめて死の道は、将軍としてではなく、剣豪としてゆきたかった。
それが義輝の、義輝としての、真の望みであった。
轟音と悲鳴、殺意を孕んだ足音が近くまで来ている。いよいよ中門が突破されたのだろう。歴然とした兵力と戦力の差。勝ち目など万に一つもない。しかしそれでもかまわなかった。
…今ここで滅ぶのならば、いっそのこと最期に霊石を使い大暴れしてから滅んでやろうか。人ならざる力を手に入れ、より多くの者を道連れにしてやろうか。ともすれば、奴らを全滅させられるのではなかろうか。
…並の者なら、そう考えるだろう。
「生憎と、霊石ごときに狂わされる心は持ちあわせておらぬ」
眼前の剣山へ語りかける。幾多の刃が思い思いに煌めき呼応する。眩ゆい光を浴び、義輝は身体中の血肉が沸き躍る感覚をおぼえた。
「すでに、こやつらに狂わされておるゆえな」
溢れ出る涙を袖でぬぐう。これから起こりうることが三十年の生に於いて至上の時となろう。雄叫びをあげた軍勢が庭を踏み荒らし迫りくる。
まもなく望みが叶う。
両の手でそれぞれ刀を引き抜き、天高く掲げる。
「足利義輝、参る」
【終】