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    mochikinakoro

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    mochikinakoro

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    青空を見ていたらカゲプロを思い出して、微妙に設定をお借りして書きました。
    ちゃんとハッピーエンドです。

    「鍾離! 帰ろうよー」
     わざわざ隣のクラスから駆けてきたと思えば要件がそれか。だが、それを振り払えない自分も自分だ。
    「駅から少し歩くけどね、新しいアイスのお店ができたんだって。一緒に行こうよ!」
    「そういったものは空や蛍と行ったほうが良いだろう」
    「ボクは君と行きたいんだよ。まあ、君が行きたくないなら、空と蛍に頼んで一緒に行ってもらうけどさあ」
     拗ねたような、しょげたような。俺はこいつのこういう顔に弱い。それに、最初に俺が候補に上がるのも満更ではない。
     鞄を持ち、席を立つと目の前の彼はキョトンと首を傾げる。
    「帰るの?」
    「お前が行こうと行ったんだろ、ウェンティ」
     パアッと顔を綻ばせる。まあ、この顔が見られるなら悪くない。
     二人で校門をくぐり、新しくできたという店に向かう。
    「なんかね、結構並ぶみたい。でも、すっごく美味しいんだって。林檎味とかあるかな〜」
     音符が見えそうなくらいはしゃいでるウェンティを横から眺める。俺は会話に相槌しか打っていないが、こいつはずっと一人で話している。普段は自分が話すことの方が多いが、こいつ相手では聞き手に回ることの方が多い。
     こいつの声を聞くのは心地良い。
    「こっちこっち。ほら、あの列だよ」
     ウェンティが指差した方には確かに列ができている。早足に駆けていってしまうウェンティを速歩きで追い、共に列に並ぶ。何にしようかと、子どものようにメニューを眺めているウェンティのつむじをじっと見つめていた。
    「鍾離は何にする?」
     何も考えていなかった。
    「お前は何にするんだ」
    「う~ん、これとこれで悩むんだよね〜」
    「では、片方は俺が買おう。そうすれば、両方食べられるだろう」
    「いいの!?」
     頷けば満面の笑みを見せるので、俺も思わず微笑んでしまう。
    「今日は鍾離が優しいなあ」
     失礼な。俺はいつも優しいだろう。
     むっとはするが、くふくふと嬉しそうにしているものだから、文句を言う気も失せる。
     二人でアイスを買って公園のベンチに座って食べる。木陰のおかげで直射日光に晒されることは無くとも、やはり暑い。
    「暑いね〜。でも、ボクは夏は好きかな〜」
    「お前は春夏秋冬全部好きって言うだろう」
    「エヘッ」
     溶けたアイスがウェンティの手首にかかる。ティッシュを渡そうとすれば、それを舐め取るのだから行儀が悪い。だが、ウェンティがアイスを舐め取る様子にドキリとした自分も行儀が良いとは言えないだろう。
    「舐めずに拭け」
    「えー、だって勿体ない、し……」
     ウェンティの持っていたアイスが空中で弧を描く。ベチャと音を立てて地面に落ちる前にウェンティは駆け出した。駆け出した先は横断歩道。歩行者用信号は赤く光っているのに、横断歩道には幼い子ども。
    「あのバカ!」
     慌てて飛び出してももう遅い。ウェンティは子どもの腕を掴んでいた。俺であれば普通に子どもを引っ張れただろう。だが、あいつは。あいつの体躯では、引っ張ればその反動で自分が反対側に引っ張られる。子どもは歩道に放り出され……。
     けたたましいクラクション。鳴り響くブレーキ。何かがぶつかる衝撃音。目の前に広がる赤。転がっていく何か。
     全ての事象が事象でしかなく、頭の中で何も結びつかない。
    「あ……」
     子どもの叫び声で我に返る。慌てて駆け寄るもそいつの体は動かない。
    「おい!」
     目も当てられない現状の中、そいつは薄らと口角を上げた。
    「ああ、ぶじ、だ。よかっ」
     それ以上、口は動かない。
     なぜ、どうして。
     なんで、こいつがこんな目に。
     人集りがうるさい。蝉の音が鳴り響く。
     全てうるさい。
     視界がぐるぐると回り始め、俺は。
     
    「鍾離!」
    「は?」
     気がつくと、目の前には目尻を釣り上げたウェンティがいた。
    「お前、生きて?」
    「何言ってるの? 夢でも見てた?」
     冷や汗が首を伝う。周囲を見渡せば、公園でも横断歩道でもなく、教室にいることが分かる。
    「夢……?」
    「いや、ボクは分からないけど。って、そうだ。アイス食べに行こうって誘いに来たんだよ。最近、新しくお店ができたんだって」
     目の前のこいつが血の池に倒れる様がフラッシュバックする。あそこには行きたくない。
    「すまないが、買いたい物があるんだ。アイスは今度付き合うから、今日は俺に付き合ってはくれないか」
    「まあ、良いけど。何買うの?」
     特に何か買いたいわけではない。だが、あそこに行くのは避けなければ。
    「万年筆、のインクが無くなって」
    「高校生なのに万年筆って。鍾離らしいなあ」
     呆れたような、だがどこか愛しいものでも見るように微笑むウェンティ。今の現状が夢だとは思いたくなく、むしろあの事故の方が夢だったに違いないと思い込む。
    「じゃあ、今日はそっちに行こう。駅前のショッピングモールでいいんでしょ?」
    「ああ。ありがとう」
     二人で鞄を持って、校門をくぐる。駅まで歩き、必要でもないインクを買った。お腹すいた、とウェンティが騒ぐからフードコートに席を取る。
    「それでさ〜、空がね」
     ペラペラと話すウェンティと相槌を打つ俺。あの夢と同じような状況だが、場所が違う。こんなところにトラックは来ないだろうし、大丈夫なはず。
    「もう夏だよ〜。夏休みはどこに行く? 去年みたいに皆で海に行くのも良いなあ」
    「俺は涼しい部屋で本を読んでいる方が良い」
    「え〜。高校生の夏休みはあと二回しかないのに〜」
     ケラケラと笑いながらジュースを啜っている。
     大丈夫だ。このままなら、大丈夫。
    「あ、ねえ、楽器屋さん行きたんだよね。弦に塗る松脂欲しくって」
    「バイオリンだったか? フルートではなかったか?」
    「うん。フルートもやってるけど、そっちは趣味だから」
    「そうか。では、行こう」
     ゴミを片付けてから一度ショッピングモールを出る。楽器屋自体もショッピングモールの中だが、棟が別のため一度外に出る必要がある。道路は渡らないし大丈夫だろう。
    「あっついな〜。夏って感じ」
    「だが、お前は夏が好きだろう」
    「えへへ」
     スキップでもしそうなくらいに楽しげなウェンティの後ろ姿を見つめる。ウェンティに急かされるから小走りで追いつこうと思った時だ。
     悲鳴が響いた。次に聞こえたのは何かが空気を裂く音。
     そして。
     ズシャっと嫌な音が響く。
     鉄パイプが降ってきたのだ。それは見事にウェンティを貫いていた。
    「うぇ、ん……」
     悲鳴が耳を劈き、蝉の音が鳴り響く。
     血の海の中、ウェンティは横たわる。
    「あ、よか、った」
     前と同じように、ウェンティは何故か口角を上げた。
     視界が眩む。
     
    「鍾離!」
     顔を上げれば、ウェンティがいた。
     目の前に、いるのだ。
     俺は彼の腕を握り、ずんずんと進む。靴を履き替えることもせずに、上履きのまま校門をくぐった。
    「ちょっ、鍾離! 靴!」
     ウェンティの言葉には耳を貸さず、歩いていく。横断歩道は駄目だ。少し歩けば歩道橋があるから、そっちにしよう。
     歩道橋を登り自分が一番上に辿り着いたときだ。
    「鍾離ってば、って、あ」
     腕を思い切り振り払われ、その反動でウェンティの体が後ろに傾く。咄嗟に手を伸ばしても、その手は空を切り、彼は重力に従って落ちていった。
     階段の角で後頭部を打ち付け、歩道橋の下に赤い池を作る。今までよりは小さいが、助からないだろうと思う赤い池を。
     蝉の音が鳴り響く。
     俺のせいだというのに、何故か彼の口角は上がっていた。
      
    「鍾離!」
     ああ、生きている。目の前で生きて、動いている。
    「どうしたの、泣きそうな顔して」
     机越しにその小さな体躯を抱きしめていた。クラスの奴らの冷やかしが聞こえるが知ったことではない。
    「死ぬな。死なないでくれ」
     泣きそうな気持ちで懇願すれば、彼は頭を撫でてくれる。
    「どんな夢見たのか分からないけど、ボクはここにいるじゃない」
     死んだんだ。三回も俺の前で死んだんだ。これは夢じゃない。
     俺は確実に、繰り返している。
    「大丈夫だよ。ボクが君を守るからさ」
     守ってほしいのではない。俺が守りたいだけなんだ。
    「守らなくていいから、死んでくれるな」
    「うん。大丈夫だよ。ほら、今日はもう帰ろう」
     一回前とは逆で、ウェンティが俺の手を引いて、校門くぐる。
     駅まで連れて行かれるようにして歩く。このまま帰れば大丈夫だろうか。
    「ほら、定期出して」
     改札を通り、電車を待つ。
     定期を鞄に仕舞おうと、ウェンティの手を離したのがマズかった。
    「ごめん」
     鞄からウェンティに視線を戻すと、彼は線路に向かって落ちていく最中だった。
     電車はすぐそこだ。
     手を伸ばしても間に合わないことは明白。悲鳴と電車のブレーキ音が反響する。
     蝉の音が鳴り響く。
    「また、駄目なのか」
    『うん、また駄目』
     ウェンティの口がそう動いたように見えた。
     
     何度、繰り返しただろう。目の前であいつが死にゆく様を何度見ただろうか。
    『疲れた顔をしているね』
     何度目からか、話せるようになったウェンティにそっくりだが、ウェンティではない何か。
    『ごめんね、君を巻き込んで』
    「謝るくらいなら、あいつを助けてくれ」
     目の前の死体を見つめながら、そいつに怒鳴れば首を振る気配がする。
    『それは僕には無理なんだ。君が気が付かないと』
    「どう、いう……」
    『なんで繰り返すのか。なんでいつもこの子が笑うのか』
     蝉の音が鳴り響き、段々と視界が眩む。
     ああ、またやり直しだ。
    『そろそろ、気付いて。君たちの心が壊れてしまう前に』
     
    「鍾離?」
     また始まった。
     今度は……。
     ん……?
     あいつは何と言ってた。
    『なんでいつもこの子が笑うのか』
     そうだ、おかしい。なんで死ぬときに笑うんだ。
     一回目は分かる。子どもを助けられたからだ。では、他は。なんで笑うんだ。誰も危険じゃなかったのに、良かったと言ったときもあった。ごめん、と言ったときもあった。
     どういうことだ。
     それではまるで、自分が死ぬことが分かっているみたいではないか。
    「話が、ある」
    「うん。良いよ」
     彼の顔はまるで全てを察しているかのようで。
     二人で話せるように、屋上に行く。
    「話ってなあに」
    「違ったら笑ってくれて良いんだ。その、お前は自分が死ぬのが分かっているのか」
     ウェンティは冷笑を浮かべる。
    「おめでとう。君も仲間入りだ」
     その言葉に茫然自失するしかない。
    「何回繰り返したのかは聞かないよ。ボクだって、もう何度繰り返したのかは分からない」
    「どう、いうことだ」
     彼は表情を変えることなく首を振る。もちろん横に。
    「ボクも分からない。ただ繰り返し続けるうちに、君を助ける方法だけは分かった」
     俺を助ける?
    「ボクが死ねば、君は死なない。それに気がついたのは、何万回と繰り返し思ってからだ」
    「では、お前は何万回と俺が死ぬ様を見たというのか?」
    「うん。これ以上ないだろうってくらい見たね。血にも、死体にも慣れてしまうくらいには」
    「だったら、せめて俺を殺しておけば良いだろう。何故お前が代わりに死ぬんだ」
     彼は貼り付けたままだった冷笑を消し去り、酷く悲しそうに微笑んだ。
    「君が死ぬのには慣れなかったから」
     彼はふっと屋上の柵を見た。
    「ここでも十分だね」
     彼は柵に近寄り手を置く。
    「ごめんね。この記憶はボクには引き継がれないから、次のボクによろしく」
     軽々と柵を乗り越え、彼は見えなくなった。
    『また駄目だったね』
     そいつはいつの間にか隣りにいた。
    『見に行かないの?』
    「どうせ、すぐに戻るのだろう。だとしたら、お前から情報を聞き出す方が有意義だ」
    『賢明な判断だね』
     そいつは俺の前に立ち、両手を広げた。
    『ここは彼が望んだやり直しの世界』
    「それは、どういう」
    『詳しくは言えない。でも、一つ助言をするならば、出る方法はあるかもしれない、ということだ』
     蝉の音が鳴り響く。そろそろ潮時らしい。
    『また、次の世界で会おうね』
     
    『ここは、彼が望み、僕が作り出した世界』
    『彼はやり直しを望んだ』
    『それに悪戯な何かが答えてしまっただけのこと』
    『僕?  僕は強いて言うなら彼の"願い"にして、案内人』
    『何故望んだかって、受け入れられなかったからさ』
    『何をって、そんなことは分かるでしょ』
     
     ウェンティの"願い"は大事なことは何も言わなかった。少しずつ情報を引き出しているとはいえ、核心に触れる部分はまだ分かっていない。
     最早見慣れてしまい、何の感情も抱けない死体を前に"願い"と会話をする。
    「どうしろと言うんだ」
    『頑張ってここから出ていってよ』
    「情報が少なすぎる」
    『僕とばかり会話するからだよ。彼と会話をしないと』
    「あいつが会話をする気がないんだ。しかも、戻ってからあいつが死ぬまでの時間が短すぎる」
     ああ、ほら、また。
     蝉の音が鳴り響く。
    『彼を見て。そして、気がついて。そうすれば、きっと』
     
     今回はいつもと違っていた。普段はウェンティに名前を呼ばれるところから始まるのに、名を呼ばれない。
     どうしたのだろうと不審に思いつつウェンティを見れば、何故かボロボロと涙をこぼしている。
    「ごめん。ごめんね。あの日、ボクがあんなこと言わなければ」
     なんだ、何だというのだ。
     どういうことだ。
    「ごめん。ごめんなさい。ボクがいなければ……、ボクがいなければ、君はこんなことにはならなかったのに」
     体が動かない。声も出ない。
     涙を掬ってやりたいのに。抱きしめてやりたいのに。
    「君の代わりに死んだって良いから、目を覚ましてよお」
     目を覚まして? どういうことだ?
    『本当に分からない?』
     泣き喚くウェンティの隣に気付くと"願い"が立っていた。
    「お前は何者なんだ」
    『言ったでしょう、"願い”だって』
     ウェンティは"願い"の存在には気が付いていないようで、涙を流し続ける。
    『本当は分かっているんじゃない? 現状がどうなっていて、どうするべきなのか。確証が無いから動けないだけで』
     そう、"願い"の言うとおりだ。俺は繰り返し続ける中で漠然とだが理解してきていた。
    「だが、万が一間違っていて、本当に会えなくなってしまったらどうする」
    『少なくとも、このまま繰り返し続けるよりは生産性があるかもね』
     "願い"が指を鳴らす。教室だった場は、一回目と同じ公園の横断歩道に変わっていた。
     道路に飛び出す幼い子ども。それに手を伸ばすウェンティ。一回目と違うのは。
    「ウェンティ!」
     子どもの手を掴んだウェンティごと引っ張った。子どもだけならまだしもウェンティごと引っ張るとなると勢いも手伝って当然、自分が道路に放り出される。
     そうだ、これが正しい。これが真実だ。
     元々大きい瞳が、これでもかというくらいに見開かれる。
     ウェンティが俺とは反対方向に放り出される様子が非常に遅く見えた。
    「すまない」
     あいつと、目が合った。
     
    『やっと気がついてくれたんだね』
     教室の机に腰掛けて、足をプラプラとさせる"願い"は静かに微笑んだ。
    「大体のことはな。ウェンティの発言も大体が俺の記憶か、あるいは眠っている俺にあいつがかけていた言葉なのだろう」
    『うんうん』
    「だが、一つ分からないことがある」
     "願い"はコテリと首を傾げる。そんな"願い"に俺は視線を合わせる。
    「お前は何者だったんだ?」
     俺の疑問に、彼はパチパチと数回瞬きをしてから胸に手を置いた。
    『言ったでしょう、"願い"だって』
     俺がじっと睨んでも、意に介さずに莞爾する。
    『僕は彼の願いから作り出されたキャラクターさ』
    「これは強いて言うなら俺の夢だと認識している。そこにウェンティの願いが干渉するのはおかしな話だ」
     必死に考えても目の前のこいつの存在だけが分からなかった。己を納得させられる証明ができなかった。
     どんな答えが返ってくるのか構えていると、"願い"はクスクスと笑う。
    『勘違いしてる』
    「何を」
    『僕はウェンティの"願い"なんかじゃないよ』
     自身が"願い"だと名乗ったくせにどういうことだろう。夢の中の存在に整合性を求めることも間違っているのかもしれないが、分からないままでは気持ちが悪い。
     "願い"はすっと人差し指を俺に向けてきた。
    『僕は彼……、眠っている君の"願い"さ。君は意識を失う直前、彼の泣き顔を見て、真っ先に、やり直したいって願ったんだ。自分が死ぬことよりも、彼が泣いたことの方が君は嫌だったわけだ』
    「だとしたら、あいつが死ぬ様を繰り返すのはおかしくないか」
    『自分が死ぬ感覚と、彼の泣き顔が混ざってしまったんだろうね。まあそもそも? 夢の内容全てに整合性を持たせようとするのは間違いだと思うけど』
     確かに、ウェンティの願いであればこんなことは言わないか。整合性だなんだと考えるのは、ウェンティではなく俺自身だ。
    『そろそろ時間だ。君も蝉の音以外の音が聞こえているんじゃない?』
     確かに、先程からずっと誰かの、いや、あいつの声が響いている。
    『じゃあね。もう会うことはないだろうけど』
    「会わずとも、ずっと俺の中にいるのだろう」
     "願い"は何も言わない。ただ、静かに俺を見つめるだけ。
     俺が片手を差し出すと、"願い"は俺の手を軽く握りすぐに手を離した。
     それ以上話すことは無く、俺はそっと目を瞑る。
     蝉の音は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、あいつの泣き声。それと。
     
    『ばいばい』
     
     別れの挨拶が聞こえて目を開くと、真っ先に視界に飛び込んできたのは真白の天井と点滴。
    「しょう、り……?」
     声の方に軽く首を回すと激痛が走る。だが、顔が見たかった。
     名を呼ぼうとしても、声は出ない。息が吐き出されるだけ。それでも、ウェンティは何を言いたいのか分かってくれたようで、手を握りながらうんうんと頷いてくれた。
    「ボクだよ。ウェンティだよ。良かった、ほんとうに、よかった」
     口は笑っているのに、目からはポロポロと水滴が落ちていく。体は動かせそうになく、涙を拭ってやることはできなかったが、少しだけ握り返すことができた。微々たる力であっただろうが、ウェンティはそれを感じてくれたらしく、彼も手に力を入れ直す。
    「うぇ、ん」
    「うん。ボクだよ。どうしたの」
    「なく、な」
    「……」
    「わらえ」
     笑顔が見たかった。泣いている顔は嫌だ。絶望している様が見たいわけでもない。ただ、笑顔が見たい。
    「バカ」
    「すまん」
    「バカだよ。笑えるわけ、ない。ずっと、待ってて。起きてくれるって、信じてたけど、やっぱり怖くて、怖くて。起きてくれて、嬉しい。嬉しくて、ごめん、涙が止まらないんだ」
     そんなことを言いつつも、彼は必死に口角をあげようとしていた。俺の望み通り笑おうとして、でも笑えない。下手くそな笑顔だった。だが、それでいい。その目が絶望していないから、それでいい。
    「鍾離、おかえり」
     その声が妙に耳に響く。
     もう蝉の音は響かない季節になっていた。
     
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