12/17新刊サンプル1この世には、〝究極の二択〟というものがある。
飼うなら犬か猫か。休暇を過ごすなら山か海か。今日の夕食はピザかタコスか。それぞれはっきりと答えを持つこともあれば、どちらとも選び難いこともある。そしてルースターも、ある二択において答えを出せずにいた。
「マーヴ」
「なんだい?」
「……ピート」
「へ?」
庭の草花に水を撒いていたマーヴェリックが耳に飛び込んだ単語に反応し振り返った。
「マーヴ、ホースこっち向いてる!」
ルースターは自分に向けられた水しぶきを小走りで避けた。陽を受けて光の粒となった水滴の向こうで、マーヴェリックはいまだ目を瞬かせている。
「ああ、ごめん……今、僕のことピートって呼んだ?」
「うん、呼んだ」
マーヴェリックは水を止めホースを置いた。デッキチェアにかけられたタオルをルースターに差し出し、笑いながらもう一度小さく謝った。
「珍しいね、その呼び方」
「うん、ちょっとね」
「ちょっと……なに?」
マーヴェリックは片眉を上げ、先を促した。
「マーヴはさ、マーヴって呼ばれるのとピートって呼ばれるの、どっちがいい?」
ルースターは〝究極の二択〟への答えを、マーヴェリックへと託すことにした。しかしマーヴェリックの表情は答えの出ない者のそれだった。
「君に呼ばれる時? それともみんなから?」
「俺になんて呼ばれたいか、って話」
「ああ、なるほどね……」
マーヴェリックは顎に手をあて思案した。うーんと唸りながら目を閉じている。
「僕はどちらでも構わないよ、君の好きなように呼んでくれ」
ルースターはタオルを首にかけ、デッキチェアに腰掛けた。口角は下がり、不満な気持ちを隠そうともしない。
「構わないじゃダメなんだよ、マーヴがどう呼んでほしいかが大切なの」
腕まで組んだルースターは更に続ける。
「マーヴのこと〝マーヴ〟としか呼んだことないじゃん? でもよく考えたらそれってコールサインだしさ」
物心ついた時から、ルースターにとってマーヴはマーヴだった。マーヴ以外にあり得ない。それ以外の名前で呼んだことはなく、幼い頃は本名すら知らなかった。
「でも君は本名という存在を知ってからも、マーヴと呼ぶことをやめなかっただろう? だから僕はマーヴだよ」
「でもコールサインで呼ぶのって変じゃん、付き合ってるのに」
するとマーヴェリックはもう一つのデッキチェアに座り、ルースターを覗き込み微笑む。
「本当はそれ以外に理由があるんじゃないのか? 今さら君がコールサイン云々を気にするとは思えないよ」
そうだろう?と口角を上げるマーヴェリックに見つめられ、ルースターは拗ねた子どものようにマーヴェリックの足元に視線を移した。
「……だって、今ではもうみんながマーヴって呼ぶようになったし、そうなると俺だけの特別感がないんだもん」
「ははっ、そもそもコールサインはみんなが呼ぶためのものだぞ」
マーヴェリックは軽く笑う。
「本当に僕はどちらでも構わないんだよ」
「いや、どっちかに決めてもらう」
「特別感がなくて不満なら、ピートって呼んでくれていいんだ」
「いいや、マーヴが呼んでほしい方で呼ぶ。そんな適当に決めることないよ」
ルースターは頑として譲らない。相手の呼び方は大切だ。この二択には答えが必要なのだ。こちらがいい、こちらでないと駄目だと言える答えが。
「なら今日一日、僕のことをマーヴとピートの両方を使って呼んでみて。それで決めよう」
マーヴェリックは目を細めた。濡れた芝生が日光を反射させ、庭に細かな光を散らす。
「さすがピート、名案だね」
ルースターはさっそく彼の案に乗った。
「マーヴ、今日の昼飯何にする?」
ルースターは冷蔵庫の中身に目を走らせ、背後に立つマーヴェリックに問いかけた。マーヴェリックはルースターの肩に手を置き、後ろから冷蔵庫に並ぶ食材を眺めた。
「うーん、どうしようか」
「この感じだとデリバリーが良さそうだよ」
「だな」
品数の少ないがらんとした冷蔵庫を閉じ、ルースターはタブレット端末を片手にキッチンカウンターへと戻った。そして二人は究極の二択を迫られる。
「どっちがいい? 中華かピザか」
「その二択しかないのか? 昼から重いな」
マーヴェリックは再びルースターの後ろから顔を出し、端末画面を覗き込んだ。それから隣に移動したマーヴェリックの小ぶりな手がルースターの側から伸び、画面を滑った。その間ルースターは鼻歌を歌いながら、マーヴェリックの指の動きを目で追い続けていた。
「別に二択ってわけじゃないけど、最近食べてないしさ」
「そうだなあ」
「ピザを頼まなくても、ここのチキンサラダでもいいしさ。マーヴ、好きでしょ」
「ん? うん、まあ、ね」
マーヴェリックはぎこちなくルースターを見上げた。視線が交わり、ルースターは小さく笑った。
「安心して、ちゃんと違う呼び方も試すから」
「別に僕は……」
「俺が言い出したことだけど、マーヴも乗り気だってわかって嬉しいよ」
「いやその、」
ルースターは画面に映るマルゲリータの画像をタップし、オーダーへと追加した。
「……じゃあ僕はチキンサラダにする」
了解、とルースターはマーヴェリックの額にキスをした。マーヴェリックは額に触れながらルースターを見上げ再び口を開きかけたが、言葉が音になることはなかった。
デリバリーを待つ間に当番の家事を終えると、示し合わせたわけでもなく二人はキッチンカウンターで落ち合った。鳴り続けるお腹の音はルースターのもので、マーヴェリックはそれを聞いて笑っていた。
「まだかな」
「もう来るんじゃないか? 注文画面に書いてない?」
「ほんとにあと二分で着くのか信じられない」
空腹は全てを疑わせる力を持っている。
「まあ信じて待て、あと少しだよ」
マーヴェリックは腰を折ってカウンターに身を預けるルースターの、自由に跳ね回る髪をかき混ぜて笑った。
結局ルースターはデリバリーアプリの宅配時間の予測が正確であることを知った。ドアベルが鳴ると反射的に身体を起こし、柔らかな髪がハッとしたように揺れる。
「俺貰ってくるから、ピート、ドリンク用意しておいてくれない?」
マーヴェリックは音の鳴りそうな瞬きを見せ、一瞬返事を躊躇った。
「ピート? お願いね?」
ルースターは玄関に向かいつつ、マーヴェリックを振り返り念押しして笑った。マーヴェリックはその背中に大きな声で返事をし、小さく首を横に振り冷蔵庫を開けた。