ドライブ(降志)「志保さん、これ開けてもらってもいい?」
降谷は正面を向いたまま、助手席へコーヒーのボトルを向けた。
「いいけど、開くかしら」
ためらいつつ受け取って、志保は思いきりそれをぐっとひねる。蓋はパキッと音を立てて開いた。
「はい」
運転中の彼の前に、それを差し出す。
「ありがとう」
彼は左手で受け取り、口を付ける。ごくりと降谷の喉仏が動いた。車の窓から差し込む朝日が彼の金糸のような髪を黄金色に照らしている。何をしても腹が立つくらい絵になるひとだわ、と志保は思った。ついまじまじと見てしまう。
「ん」
ボトルが戻された。志保はハッと我に返り、両手で受け取る。キャップを閉め、少し迷ってから、足元に置いてある自分のトートバッグにそれを滑り込ませた。
街中の高速道路は、うねうねと高層ビルの間を縫うように走っている。道はさほど混んでおらず、車は周りとほどよい車間距離を保ちながら滑らかに進んでいく。
「どんな無茶な運転をされるのかとびくびくしてたんだけど、安心したわ」
「僕は基本的に安全運転だよ」
「その台詞、工藤くんの前でも言える?」
「彼といるときは、ほとんどが緊急事態だからなぁ」
降谷は、苦笑しながら言った。
「それもそうね」
車窓から外を見るふりをしながら、志保はあくびを噛み殺す。まだ薄暗いころから起き出して準備をしていたので、とても眠い。しかし、運転してもらっている手前、助手席で大っぴらに寝ることは何となくはばかられた。
「眠っていてもいいからね」
志保の考えを見通したように、降谷が言った。
「ありがとう」
今、このひとは安室透なのか降谷零なのか、ふと志保は考える。
誰にでもやさしく柔和な人柄の安室と、他人にも自分にも厳しい仕事人間の降谷。任務遂行のために手段を選ばないところは、どちらにも共通しているように思える。でも、志保は彼のことをよく知らない。灰原哀だったころは彼を散々避けていたし、組織が壊滅して元の体に戻った後も宮野志保として降谷零と関わったことはごくわずかだ。ま、いいわ。必要に応じて、少しずつ知っていけば。
そんなことを考えているうちに、ゆっくりとまぶたが重くなってくる。と、そのとき、降谷が慌てたように言った。
「寝る前に、これを出してもらっていい?」
降谷はデニムのポケットから長方形の薄いケースを取り出した。カフェインの入った眠気覚ましのタブレット。それを受け取った志保は、爪で引っかけるようにして側面にある小さなふたをパチリと開く。自分の掌に二つ、小さな錠剤を振り出した。
「中身を手渡せばいいの?」
「そうだな……。悪いんだけど、直接口に放り込んでもらってもいいかな」
高速道路はちょうど分岐点に差しかかったようで、右へ左へと車線変更する車が多い。片手での運転は危険だという彼の判断も分かる気がした。
「口、開けて」
志保は左手で二つの白い錠剤を摘み上げ、降谷の顔に近付ける。少し上を向いて開かれた彼の口に、志保はそれを小さく投げ込んだ。が、一つが転げ落ちそうになり、慌ててその軌道修正を図ろうと指を伸ばす。その刹那、降谷の唇に志保の人差し指がわずかに触れた。タブレットを落とすまいと閉じた彼の口から彼女の白く細い指先が離れるとき、チュッというかすかなリップ音が鳴った。
「……っ!」
思いがけずもたらされたぬるく湿った人肌の感触に、志保はびくりと己の身を震わせた。瞬時に手を引っ込めて、反対の袖口で指先を拭う。
「あ、ごめん」
無事に口内へ収まった錠剤を噛み砕きながら、降谷は悪びれもせずに謝った。
「……別に、いいわ」
窓の外を見ながら、努めて冷静に志保は言葉を返す。左手をぐっと握り、なかなか
収まらない動悸をやり過ごす。
そのとき、後ろから明るい声が響いた。
「安室さん、子どもみたい!」
ビートルの後部座席で、歩美がおもしろそうに笑っている。
「何だよ、安室のにーちゃん、腹減ってんのかよ」
「いや、元太くん、さっきのはそういうことじゃないと思いますよ」
出発してすぐに寝入っていた少年探偵団の子どもたちが起き出したようだ。
「遊園地、楽しみだなぁ」
待ち切れない様子で窓から景色を眺める歩美の隣で、元太はすかさずリュックサックからポテトチップスを取り出そうとしている。それに気付いた光彦が「お菓子はサービスエリアで朝ごはんを食べてからですよ」と、一生懸命に止めている。いつも通りの光景に、志保はふっと顔をほころばせた。
「もしお腹が空いてるなら、サンドイッチがあるよ。食べるかい?」
すっかり安室透の顔になった彼が、胡散臭いくらい爽やかに声をかける。
「食うぞ!」
「食べる!」
「食べます!」
「後ろの席にあるランチバッグの中に入ってるよ」
わいわいとはしゃぎながら、子どもたちはポアロの特製ハムサンドをほおばり始めた。
「さすがね、安室さん」
「仕事ですから」
「お仕事、大変ね」
「お気遣いありがとうございます」
含みのある志保の言葉に、降谷がふっと笑った。彼はいまだにポアロでのアルバイトを続けているらしい。徐々にフェードアウトするらしいが、探偵の「安室透」としての方が何かと立ち回りやすい場面もあるようだった。
「博士も来られたらよかったんだけどなぁ」
数口でサンドイッチを自分の胃袋に収めた元太が言う。
「博士はフサエさんとデートなんでしょ?」
「公園に花を見に行くって言ってたぞ」
「心配ですねぇ。エスコートできるんでしょうか」
小学生にデートの心配をされるいい大人ってどうなの、と志保は思ったが、笑いを噛み殺しつつも黙っておいた。
「念のため、博士にもサンドイッチを渡しておいたから、少なくともランチの場所が見つからなくて困ることはないと思うよ」
「さすが安室さん!」
子どもたちからの賛辞を浴びながら、車は高速道路から滑るように下りた。目的地までの方向と距離を示す大きな看板が路肩に立っている。
「志保さんもどうぞ」
歩美が後ろからハムサンドを一つ、志保に差し出した。
「あなたたちで食べていいのよ。足りてるの?」
「歩美たちはもう大丈夫」
内緒話をするように、歩美は頬に右手を当ててそっと囁いた。
「元太くん、味わわないでぱくぱく食べちゃうんだもん。もったいないよ。きっと安室さんも、志保さんに食べてほしいって思ってるよ」
「苦手じゃなければ、ぜひ」
車はちょうど赤信号で停止したところだった。降谷は志保の方を見て柔らかくほほえんでいる。
「ありがとう。いただくわ」
志保は礼を言って、サンドイッチを受け取った。信号が青に変わり、車はゆっくりと走り出す。降谷の視線が自分から外れたのを横目で確認して、志保はハムサンドをぱくりと一口食べた。
「どう? どう?」
歩美が待ち切れないとばかりに何度も感想を聞いてくる。
「……とってもおいしい」
「でしょ!」
志保からその言葉を引き出せたことに満足したのか、歩美は後部座席で繰り広げられる小学生トークに舞い戻っていった。
「お世辞でも嬉しいよ」
「本当においしかったのよ。ごちそう様でした」
志保の言葉を聞いて、降谷のまとう空気がふっと柔らかくなる。
「ありがとう。お粗末様でした」
彼とこんなに穏やかな会話をしていることが信じられず、志保はふわふわと地に足がついていないような心地に陥る。あれから一年、いまだに実感が湧かない。生まれて初めての自由に、何より自分自身が戸惑っていた。
「志保さんは、サンドイッチの具、何が好き?」
降谷が聞く。
「何で?」
「さっき、サンドイッチを見ながら何か考えてるみたいだったから」
「人間観察のし過ぎは嫌われるわよ」
横目でじとりと自分を見やる志保に、降谷は肩をすくめながら言う。
「性分なもので」
志保は軽くため息をついて、小さな声で言った。
「……ピーナッツバターとジェリー」
「ジェリーの種類は?」
「ブルーベリー」
「じゃ、今度作って差し入れするよ」
「好きなものを持ってこられても、無茶な仕事は受けないわよ」
ぴしゃりと志保は言い放った。
「手厳しいなぁ」
降谷が苦笑しながら頬をかく。
「あ! 観覧車が見えた!」
「いよいよ近付いてきましたねぇ」
「オレはジェットコースターに乗るぞ!」
子どもたちのにぎやかな声が一段と大きくなる。五人を乗せた黄色のビートルは、緩やかなカーブを曲がり、広大な駐車場に滑り込んでいった。