感傷、あるいは願い 物語の結末は、たいていは「めでたし、めでたし」といった幸せな結末で終わる。読者が気持ちよく本を閉じられるように。だが、それは「作られた物語」であるからだ。
現実はそうたやすくはない。人生が何かの拍子で狂い、あらぬ方向へ転がり、踏み潰されるなどよくある話。それが多くの人々、多くの人生が絡んでいるほどそうなりやすい。なぜならそれは、話の中心にいる人物ただ一人のための物語ではないからだ。誰しもが主人公であるならば、それぞれの思惑で人は動く。誰かが自分に都合よく歯車を組み替えれば、それは誰かの不都合となって歯車は狂い、壊れ、簡単に奈落へ転がり落ちる。それが故意であってもなくても。
ファウストは一時期、大きな物語の中心にいたことがあった。ひと昔前、桜雲街に今のような平和が訪れる前に。
桜雲街がまだ発展途上の小さな街だった頃に起きた、大桜の所有権を狙って外からやってきた鬼との抗争。ファウストは街を守護する側の中心人物だった。北の森に時折現われる“天狗“のフィガロに師事し、教えを活かし、昼夜問わず攻め込んでくる鬼から街を守る日々。だが終わりはあっけなかった。鬼と通じた仲間の裏切りでファウスト達は瓦解した。周囲がみな疑心暗鬼に陥り、仲間割れが各所で起こり、主導者のファウストにまで怨嗟を吐き、収拾が付けられなくなった。その隙に鬼が攻め込んできて、もうここまでかと思った時。鬼を力でねじ伏せ、街から追い出したのが、街の外から来た妖怪―――竜たちだった。
始まりの立役者はファウストだったが、裏切りの騒動や怪我人を多く出した一連の出来事に責任を取りたいというファウストたっての希望で、その事実は歴史の闇に消えることとなった。
しばらくファウストは復興を手助けしながら、徐々に落ち着きを取り戻す街を眺めて過ごしていたが、街のいたるところにある戦火の跡を見るたびにあの時の記憶がちらついた。その光景を思い出すのも、誰かを傷つけるのも傷つくのを見るのも嫌で、ファウストは街を出て山に引きこもった。もう誰とも関わるのはまっぴらだと思っていた。だが。
(なんで僕は、成り行きで助けただけのこの子の面倒を見ているんだか…)
竜と話している、自分より小さい背中を後ろから眺める。
こことは異なる世界からやってきたという晶。山で竜に襲われているところをファウストが助け、記憶がない晶を連れてリケの占いで出自を突き止め、この世界に来た原因である酒呑童子の道具として使われそうになったところを、竜であるオズと共に助けた。これでお役御免かと思いきや、本人が「もう少しここに残りたい」と言ったがために、今日はその相談をしに竜の城へやってきたのだ。
この世界についての説明、晶の生活は全面的に竜が支援すること、竜の加護があったとしても街の外は危険なので行かないこと、何かあればいつでも連絡することなど、少し過剰じゃないかと思うくらいだが、晶は異世界からのお客人と言う立場だ。ましてや大桜のお気に入り。竜にとっても大桜の機嫌を損ねたくはないのだろう。…珍しくオズが気にかけている様子を見ると、それだけでもないようだが。
ファウストとしては、晶が元の世界に残してきた者のことも考えると、早く帰った方が良いのではと思っている。何より、その方が物語は綺麗に終わる。そう思っていたのだが。
―――もしご迷惑でないのなら。もう少しみんながいるこの世界に居させてもらえませんか?
―――これでお別れなんて、寂しいですし。みんなのことも、この街のことも、もっと知りたいんです。
―――家が恋しいとかは、不思議とあまりないんですよね。こんなことが言えるのは、元の世界の記憶がないからなのかもしれませんけど。
そう晶が言うので、心残りがなくなるならと、もう少し見守ることにした。晶の性格からすると、元の世界へ帰る際に別れがより辛くなるのではと思ったが、未来のことを今考えても仕方ないだろう。本人が選択したのなら何も言うことはない。
説明が終わると、城を案内するからとスノウとホワイトが晶の手を引いた。晶がこちらを伺う様子を見せたので、ファウストは頷くことで了承を示す。そうして部屋から三人が出て行くと、オズとフィガロ、ファウストが残された。なんだこの面子は。
早々に居づらくなってファウストが腰を浮かすと、その前にオズが立ち上がった。
「ゆっくりしていけ」
少し驚いた。オズとはほとんど話したことはなかったが、そんな風に気を回すような竜だったろうか。正直大きなお世話だが。
あっけに取られているうちに、ついにフィガロと二人にされてしまった。話すことなどないというのに。
向こうはどう思っているかはわからないが、昔の件でファウストはフィガロに対して苦い思いを抱いていた。
あの時。自分たちの陣営が混乱し、鬼が攻めてきてその凶刃に仲間がさらされ、ここまでかと思っていた時。自分に振りかざされる武器を睨みつけていたファウストはいつの間にか空を飛んでいた。否、竜の背に乗っていた。
その竜から鬼へ警告が告げられる。今すぐここから立ち去らなければ竜の一族が総攻撃を開始する、と。ファウストは呆然とその声を聞いていた。なぜ、と疑問が浮かぶ。なぜ、竜から師の声が聞こえるのだろう。なぜ、天狗のふりをしていたのか? こうなることを予見して、偵察するためにファウストに接触してきたのだろうか。自分たちが失敗した時の保険として? それとも―――。
多くの竜たちが桜雲街に集まり鬼を撃退した後も、感謝するべきだと理性としては理解できたが感情がそれを許さなかった。散っていった仲間達のことを思うと、赦すことは裏切りに思えたのだ。お互いがせめぎ合った結果、ファウストは考えることを放棄した。―――もういい。もう、疲れた。
事情を知れば赦してしまうだろう自分が嫌で、ろくに話をしないままフィガロとは疎遠になってしまっている。
「ずっと引きこもっていたようだけど、最近は君、街に出てきているみたいだね」
こちらから話かける気はないと悟ったのか、フィガロがのんびりと話し出す。顔は朗らかではあるが、相変わらず何を考えているのかわからない。
「……必要に迫られて仕方なく、だ。晶の買い物もあるし、街の案内を頼まれたり…。僕の知る街とはもうずいぶん変わっているというのに」
「そう? 結構変わってないところもあるよ。北の森とかさ」
「晶に森を案内してどうするんだ。面白くもなんともないだろ」
呆れた目でフィガロを見ると、突然笑い始めた。何がおかしい。
「あっはは。オズもだけど、君もずいぶんあの子に入れ込んでるねぇ。他人の気がしなくて、確かにどこか放っておけない感じの子だけど」
「……別に、そんなんじゃない」
成り行きで、というのもあるが、最初に彼女を助けたのは自分なのだから、最後までその責任を果たしたいだけだ。
「ただ、………」
「ただ?」
特に言う必要もないかと飲み込んだ言葉の続きを、フィガロが促す。
これはただの感傷だ。それ以上でもそれ以下でもない。だからどう思われてもいいかと再び口を開いた。
「彼女がこの街で過ごす時間が、幸せなものであればいいと思うよ」
自分で望んでこの世界に来たわけではない彼女。心細い思いも、怖い思いもしたはずだ。だが、それを悲観せずに自分の意思でここに残ったのだから、せめて。
「…そうだね。物語は悲しい終わりより、幸せな結末の方がいい」
フィガロが、晶が出て行った方を見る。だがその言葉が別のことを指しているように思えるのも、ただのファウストの感傷なのだろう。
「…日が暮れる前に帰るよ。晶の住居が決まったらまた連絡する」
「え、あぁうん。…また」
驚いている顔のフィガロを尻目に部屋を出る。双子に連れ回されていた晶を見つけて救出し、帰り道を行く頃には日が傾きかけていた。
「君の住むところは大通りに近い方がいいだろう。買い物がてら、少し歩いてみるか」
「そうですね」
晶は興味深そうに大通りの店を覗いたり、一本入った路地で遊んでいる子供たちを見て笑顔になったりとせわしない。
ただ、彼女は生活必需品以外は覗き見るだけで、店員に声を掛けられても遠慮がちで何かを欲しがったりしない。そのことが少し気にかかる。
そうして長屋の通りを出て再び大通りを歩いていると。
「ファウスト様、晶様」
「レノックスか」
「レノックス、こんにちは」
飛脚を生業としているレノックスに声をかけられる。今日は懐かしい顔にばかり会う日だ。
「こんにちは。買い物ですか?」
「あぁ、城に行ったついでにな。レノックスは仕事中か?」
「いえ、先ほど終わったところです」
「そうか。ちょうど良かった、話がある。晶ははぐれないよう目の届く範囲に」
「あはは、小さい子供じゃないんだから大丈夫ですよ。私は近くのお店を見ていますね」
あまり聞かれたくない話だと察したのか、晶は少し離れた店に歩いて行く。それを目に留めながら、ファウストは口を開いた。
「晶がしばらくこちらに留まることになったことは知っているな」
「はい」
「そこで相談なんだが、僕は今のこの街に知見がなくてな。治安の良い場所はどのあたりだろうか。街で暮らすのはいいが、女性の一人暮らしは何かあった時に困るだろうし、なるべく安全なところを勧めたい」
「そうですね…。ファウスト様と晶様が問題ないようでしたら、俺の住んでいる長屋は空きがありますよ。俺の隣の部屋も空いています。あそこの周辺は治安もいいですし、俺もすぐに駆けつけられます」
レノックスが住んでいるのは南通りの長屋と聞いている。商店街のある大通りにも近い。治安も良く、レノックスもいるなら安心だろう。
「そうか。それでは今度晶と長屋を見に……晶?」
いつの間にか、大通りは妖怪で溢れていた。視界の端に捉えていたはずの姿が、だんだんと小さくなっているのに気付く。人混みに捕まってしまい、流されたようだ。
「仕方がないな…」
「お供します」
「すまない。しかしなんだ、この集まりは?」
「大道芸が始まったようですね。見物客が押し寄せているようです」
背の高いレノックスが、少し離れた場所を見ながら言う。人気だと聞いていたが、ここまでとは。
レノックスと共に晶の流された方向へ向かう。周囲に比べて背の低い晶の頭は見え隠れしているが、羽織を被った姿はなんとか見失わないでいる。早く追いつきたいのはやまやまだったが、この人混みでは羽を開く余裕もないので翔び立つことも難しい。
やっとのことで追いついたのは、その人混みを抜け切ってからだった。しかし声を掛ける前に気づく。
「……晶じゃないな……」
「そうですね……」
同じく羽織を被ってはいるのだが、明らかに一回りは小さい。母親らしき人物に手を引かれてぴょこぴょこと楽しげに跳ねながら歩く後ろ姿は、晶のものではなかった。どこかの時点で見間違えてしまったらしい。
「もうどの方向に行ったのかわからなくなったな。こうなったら空から探すしかないか…」
「手分けしますか?」
「ああ、四半刻後にこの場所に」
そうして翔び回って探したが、晶は見つからなかった。いよいよ日は落ち、探すのが難しくなってくる。
「ここまで見つからないとなると、建物の中に入ったのかもしれませんね」
「まったく、世話の焼ける…」
ふとレノックスの方を見ると、何やら嬉しそうにしていた。
「なんだ?」
「いえ…。少し思い出していました。ファウスト様は、よく仲間を気遣って面倒を見てくださっていたな、と」
「やめてくれ、昔の話だ」
「晶様を見る目は、昔のファウスト様と同じでしたよ」
「………」
誰かと関わることを避けてきた。なのに、なぜ晶に関わったのか。竜に襲われていたのを見過ごせなかったのは最初のきっかけだ。でもその後は。
「あの子は、当然だがこの世界のことを何も知らない」
何も知らぬまま召喚された晶にとって、この世界はどう見えただろうか。
「理不尽は誰にでも降りかかる。僕は抗うために立ち上がることを選んだが、彼女は抗うすべもなく、ただ巻き込まれただけだ。そんなのは、あんまりじゃないか?」
ファウストが守りたいと願ったこの街を、この世界を、できれば嫌ってほしくはなかった。
そんな彼女に、この街をもっと知りたいと言われた時、少し救われた気がしたのだ。
自分の守りたかったものは、確かに守る価値のあるものだったのかもしれない、と。
「経緯はどうあれ、この世界の者が迷惑をかけたんだ。無事に戻るまで見届けるのが、初めてこの世界で関わった者の責任だと僕は思ってるよ」
誰も自分と同じ轍を踏んでほしくはないという気持ちは、今もファウストの中にある。
「まあ僕は失敗した側だからな。そんな僕に、何ができるとも思えないが」
「ファウスト様」
「事実だろう? だけどせめて、見守るくらいはしてやりたいと思ってるよ」
そう、願わくば―――。
「お、さっそく見つけたぜ飛脚の兄ちゃん。もう一人は見かけねえ顔だが、天狗のファウストってのはお前か?」
頭上から声が聞こえ、暗闇から羽音も立てずに降り立ったのは顔に傷を持つ天狗だった。レノックスの知り合いのようだ。
「確かにファウストは僕だが。何か?」
「お前が俺の店に忘れ物したってネロからの伝言だ。預かってるって言うから店に取りに行けよ」
レノックスと顔を見合わせる。なんの話だ。
「僕は君の店に行ったことはないが…」
「は? 羽織を忘れたのはお前じゃねえのか?」
ファウストとレノックスの間に緊張が走る。おそらくネロという人物に晶がファウストのことを話したのだろうが、羽織を脱いだりはしないだろう。何か、落とすような事態が起こったのか―――最悪の想定が頭をよぎる。
「レノックス」
「案内します。知らせてくれて感謝する、ブラッドリー」
「おう、いいけどよ。昼に仕事で翔び回るのはいいが、夜はやめろよ。営業妨害だ」
「? よくわからないが、気をつける」
夜に翔ぶのは他者とぶつかる危険があるのはわかるが、営業妨害だろうか? という疑問はあったが捨ておいた。翔びながらレノックスに問う。
「天狗の店―――もしかして噂の料理屋の一人か、彼は」
「はい、ブラッドリーの言っていたネロがもう一人の店主です。…晶様、無事でいてくださるといいのですが…」
そうしてたどり着いた店の戸を勢いよく開ける。
「すまない! ここに羽織の忘れ物があると――晶!?」
視界に羽織の後ろ姿が目に入り、胸を撫で下ろした。その横には、ネロという一人の天狗の青年の姿があった。
―――数日後、ネロとブラッドリーの店で晶は働き始めることになる。
人生という物語に起きる出来事は、時に理不尽で残酷だ。ファウストはそれを知っている。それに抗ったとしても、迎える結末がどうなるかはわからない。
異世界からやってきた晶の運命は数奇で複雑だが、まだ道の途中だろう。
ファウストは抗おうとして、失敗して、諦めた側だ。そんな自分が前途ある者に何ができると言うのだろうか。だから願うしかないのだ。
これから始まる物語の結末が、幸福なものであるように、と。