帰宅した私と輝一を出迎えたのは、椅子の背もたれにぐったりもたれ掛かった拓也だった。半分開けた口から呪いの言葉の様な「ぁぁぁ…」って声を出す姿は気味が悪く、正直近寄りたくない。輝一と顔を見合わせてからそろりと近寄って、ふわふわの茶髪を撫で上げた。
「…どうした」
「……ん〜…」
「……こーいち〜…これ、生きてると思うか?」
「疑問はあるな…」
本当に、どうしたというんだ。生気がまるでない。そこで、ここ数日のコイツの予定を頭に浮かべ、おかしくなるほど忙しいと言っていたことを思い出した。
その結果、マジでおかしくなったようだ。
「…ぁぁぁ……」
「怖いからやめろ…」
少しごわついたこの髪が好きだ。時たま指に引っ掛かり、手櫛すらままならない指通りにふっと笑みをこぼす。
「…お疲れさま、よく頑張ったな」
「…~~……こーじぃ〜…」
フワ付いた声音と共に拓也がよろよろした動作で私に纏わり付く。腕を絡め取られ、本来の位置に収まるかの如く引き寄せられた。脇腹に頭を付けるだけで、普段とかけ離れた弱々しい姿に庇護欲が湧く。
思考を巡らせぐぅ…と唸った後、飛びついて喜んでくれそうな言葉を口にした。
「……むっ…胸……揉む?」
ハグにはストレスを緩和させる作用があり、胸を揉むのはそれ以上の効果があるらしい。共についた食卓で箸を振り回しながら熱弁されたことを思い出した。その時は輝一と揃って「行儀悪いぞ」と注意して呆れて見せたが、内心じゃ心臓バクバクだった。
真後ろで口笛を吹かれ、茶化すような輝一を振り返りざまぎろりと睨みつけた。
まあいい。今は兄の事より、この男を労いたい。
さあ……頑張ったカレシ様を、癒して差し上げようじゃないか。
仰向けで項垂れた拓也の表情が一瞬しかめられたかと思えば、次の瞬間軽く鼻を鳴らした。
「え~…?…こーじ、胸ねぇじゃん」
「………は?」
低いドスの利いた声が零れ落ちる。こんな声出るんだなと、どこか他人事のように考えながら無意識のうちに手を高らかに振り上げていた。
ばちん…ッ!!
振りかざした勢いのまま思い切り引っ叩いた手のひらはじんじんと熱を帯び、うっすら張った涙の幕越しに青ざめた表情が見えた。
「…ッてェッ!!」
「もういい」
「えッ、わっ…えッ?!おまっ…いつ帰って来たの?!」
「ついさっきな。声かけただろうが」
「てっきり夢の中での会話かと…」
ぽやぽやとした返事だなと思っていたが、どうやら半分夢見の状態での返しだったらしい。
「へぇ…じゃあ今の言葉は本心ってことなんだな」
「いっ、今の言葉って…」
「『こーじ胸ないじゃん』」
「そッそれは、」
「信じらんねぇ…最低だなお前」
怒りというより悔しさが勝り、瞬きした瞬間に粒が零れ落ちた。大慌てで伸びてきた手をはたき落とし、湿った瞳を鋭くさせる。
「お前の気持ちはよぉーくわかった」
「待って待って…!」
広げて待ってくれている輝一の腕の中に身を寄せて、二人そろって冷ややかな眼差しを向けた。
「二度と触るな」
拓也の情けない悲鳴が部屋いっぱいに木霊した。
***
「こーじこーじっ!ほらっ駅前の限定ケーキ買って来たぞっ!ちゃーんと二種類ね。輝一とも食べたいだろうから二つずつ!」
「気が利くじゃないか!ありがとう」
「うんっ、うんうんっ!」
「髪のセット、俺がやってもいい?」
「泉がお揃いにしたがってな…やってくれるのか?」
「もっちろん。最高に可愛くしてやるよ」
「今日も一日お疲れ様。はい、ホットミルク。ちゃんと蜂蜜入りだぜ」
「さすがだな、いただくよ」
「マッサージもしてやるから、俺の方に脚伸ばせよ」
頬を真っ赤に腫れ上げたあの日から数日、私のご機嫌取りが始まった。あの手この手で尽くしてくる姿に絆されそうになるが、あの言葉が消えるわけじゃない。
だから今日もにっこりと笑いながら、ただただ施されるのだ。
「…よくやるよなぁ、あいつも」
「んん~…なに、心配?」
「まあ、な…」
「許すのか?」
「まさか」
ソファに寝転んだ私の上に倒れ込み、胸元に顔を寄せている輝一の背中を抱きしめた。男一人分の重みに苦しいはずが落ち着いてしまうのは、コイツが兄であり恋人だからだろう。すぅーーーっと、これでもかってほど息を吸い込んだ後、ゆっくりと顔を上げてきた。
「ああ~…たまらないなぁ、お前の匂い…」
「やめてくれ…言葉にされるのは恥ずかしい…」
時折…いや、三日に一回は時折とは言えないな。輝一はこうやって、私の胸元や首筋に顔を埋め深く呼吸を繰り返す。「今日もいいかな…輝二吸い」だってさ。私は畜生の類ではないのだが、それで輝一を癒せるのなら喜んで受け入れよう。
「ふっ…くくっ…今の俺たちの恰好、拓也が見たら怒り狂うだろうなぁ…」
「…自業自得だ」
気にしてるのに。それを輝一も…拓也も、ちゃんとわかっているはずなのに。あいつはその地雷を思い切り踏み抜きやがった。
ここまで憤るのには訳がある。二人の男に想いを寄せるタブーを犯した私が拓也を手に入れる前に、あいつは数人の女性と交際していた。当たり前だろ、顔も良ければ人当たりも良くて…女が放っておくはずがない。それはもう選り取り見取りだったことだろう。で、お眼鏡にかなった相手は大概肉付が良かった。こんな骨ばった身体ではなく、膨らみが目に見えてわかる女性ばかり。
「……」
「…すごい顔してるぞ?」
「……見るなよ…」
ふふふっと笑いながら、再びつむじを向けてくる。同じ黒髪に口を寄せ、複雑な思いを誤魔化すようにその頭を抱き込んだ。
***
「…こ、輝二…さん」
「ん?どうした?」
「ちょっとこちらへ…」と促されるまま、正座した拓也の前に移動した。焦りをにじませた真っ青な顔面のまま、ゆっくりと両腕を掴まれる。
「…そろそろ、限界…なんだけど…」
「……はぁ…なんだ、セックスのお誘いか?」
「ま、まぁ……そんなとこ…」
手汗がじわりと伝わってきた。コイツがどれほど緊張しているのかがわかる。振りほどくことをせずやんわりと拘束を解かせ、大好きな髪を優しく撫でつけた。格好も相まって、犬を褒めているような気持ちになってきた。
「…いいぜ。今日はお前が抱いてくれても」
「えッ…ま、マジで?!やっぱなしはなしだかんなっ!」
「ふふっ…必死かよ。もちろん…拓也、抱いてくれ」
しっぽが風を切るぶんぶんって音が聞こえてきそうだ。血色が戻ってきた顔面がぱあっと明るくなり、背中へと腕が回された。力を込められ、数日ぶりの拓也の匂いに暖かい感情が流れ込む。
ちょっとばかし意地を張りすぎたのかもしれん。引っ込みがつかなくなっていたのも否定はできない。死相が見えるぐらい疲れ切っていたんだ、元の好みを所望しても仕方ないのかも…。
「あ~久々の輝二の匂い~っ!最高…嬉しい…」
「ふふっ…同じこと考えてた」
「あ、ホントに?」
見上げた嬉しそうな顔つきに自然と笑みがこぼれた。普段の馬鹿笑いではなくお互いを慈しむような笑い方に、ここ数日の棘がみるみる抜け落ちていく。
額にキスが贈られ、唇にも押し当てられた。好いたもう一人の男からの行為のきっかけに、喜びが湧き上がってくる。
感触を確かめるだけの口づけの後首筋に吸い付かれべろりと舐め上げられる。そのまま頭が下に降りていき、胸元に顔を埋めた状態で言葉が投げかけられた。
「やっぱなぁ…このごりごりした骨の感触がなっ!こーじって感じだよなぁ~」
「………は?」
くぐもった声で確かにそう発声していて、思わず耳を疑った。私の動きがぴしりと固まった事に気づいてない拓也が、間抜けにも追い打ちをかけてくる。
「うんうん…落ち着くなぁ…ははっ…かってぇ~…」
「……おい」
どうしたぁ?と間延びした声音に、身体がわなわなと震えだした。私の体温と機嫌が下がりだしたことを悟り、遅すぎる焦りを見せ狼狽える。
「こ、こーじ…?」
「抱いてくれてかまわない」
「おっおう…え、でも…じゃあなんでそんな怒って…」
「挿れてもいいが、私は上脱がないからな」
「えっ」
「もちろん、胸に触るのは無しだ」
「えっ」
壊れたラジオみたいに返事を繰り返す愚か者の腕の中からひらりと逃げる。呆気にとられた拓也が慌てて「えッ?!」とボリュームを上げた。
「まじでお前、いい加減にしろよ?」
「やッ…えっ、仲直りできたんじゃねぇの…?」
「できただろ、抱いていいって言ってんだから」
「いやいやいや…!だって輝二、今にも泣きだしそうじゃん…!」
「泣かねーよッ!!」
拓也のような体格に憧れた細身の兄に引っ付いて、ジム通いを始めた成果を披露する機会がここで来ようとは。
「拓也ァ…歯、食いしばれよ…?」
数日前以上に青ざめた拓也がグッと息を飲むのを見届けて、Tシャツ越しの割れた腹へと拳を叩きこんだ。こちらのほうが痛みを感じている気もするが、怒りで震える今の私にはそんなもん些細なことだ。
うめき声をあげながらその場でうずくまる拓也の頭上にLOSERの文字が見える。まったく嬉しくない勝利のファンファーレを響かせながら、冷ややかに上がった口角のまま口を開いた。
「二度と触るな」
ジム通いの成果はそこそこだったらしい。私の言葉のほうがよほど大きなダメージを与えられたようだ。
ざまあみろってんだ。
私と、ついでに輝一への対応の手厚さが、更に加速したのは言うまでもないだろう。